群馬県吉岡町

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト  城逢人   土の城への衝動

桃井城(吉岡町南下桃井)

 桃井城は、東西にある2つの池に囲まれた比高20mほどの微高地に築かれていた。城址南側には大藪不動尊(金剛寺)と八幡神社とがある。

 桃井城の主郭は中心部の一番高いところで、そこにある物見台と言われる土壇の上に案内板と標柱が立てられている。山崎一氏の図を見ると、この部分はもっと高い土塁だったようであり、後世の畑作化で、かなり地形が改変されてしまっている可能性がありそうだ。

 周辺に車を停める場所がないので(水道施設の前には駐車場があるので、そこに停めて「立ち入り禁止」の柵の脇を抜けていくという手段もある)、下の池の脇辺りの路肩に車を置いて、先の物見台を目指した。ところが、この日は雨で、ここまでたどり着くのも大変であった。というのも、そこまで行く途中の道には草が膝の高さまで繁茂しており、案内板のところまで行くのに、ズボンとスニーカーがぐしょぬれになってしまったのである。それ以外も、遺構のありそうなところはヤブだらけである。

 そんなわけで、あまり城内を歩けていない。右のラフ図は、山崎一氏の図と現地案内板との図を基に作成したものである。周辺には堀切や横堀なども残っているかもしれないのであるが、こちらは特にヤブがひどそうで、冬場にならないと確認は困難というべき状態であった。

 それにしても、城址は低い丘陵なので、一見するとあまり防御性に富んではいない。桃井氏ともあろうものが、この程度の城で満足していたのであろうかと思ってしまうところである。しかし、城址の東西にはけっこうな規模の池がある。往時、城の周辺がこのような沼沢地であったとするなら、高い丘陵ではなくとも、十分な防御力があったわけである。

 桃井城は桃井氏の居城であった。桃井氏と言えば、なんと行っても南北朝時代に活躍した足利家臣の桃井直常を思い出してしまう。「桃井」なんて、おとなしそうな名前であるが、直常は足利氏に従って各地を転戦した勇猛な武将であった。最初は尊氏に仕えていたが、直義が兄に背いた際には直義側になって奮戦した。直義は尊氏と対戦するに際して、南朝を利用することを思いつき、南朝方に降った。そうした関係で桃井直常も北朝方に付いたり南朝方に付いたりしている。さらには足利直冬に付いたりと、反骨精神旺盛な人物であったようである。

 ちなみに「直常」は一般的に「なおつね」と読まれているが、当時の資料では「忠常」と記載されたものもあり「ただつね」が正しい読みではなかったかと言われている。確かに直義と親しかったことからすれば、「直」は直義からの偏諱であり「ただつね」と呼ぶのが正しいというべきである。

西側の池から遠望する桃井城。比高20mほどの微高地である。 1郭物見台の上にある案内板と城址標柱。




桃井館(吉岡町南下)

 桃井館は駒寄川が蛇行する部分の先端部に築かれていた。川を挟んですぐ東側には古墳公園がある。

桃井館は宅地・畑地となってしまっており、現状では遺構を見ることができない。古い航空写真なども見てみたが、城館のラインを確認することはできなかった。それでも川沿いに見る土手は、城塁らしい面影を残している。

 城の歴史等も未詳だが、桃井城に関連した城館だったのであろう。

 館跡は見どころがないが、川を挟んですぐ東側には古墳群がある。こちらには見どころのある古墳が残されている。駐車場やトイレもあるので、ここに車を停めて散策するのもいいかもしれない。遺構のない城館めぐりよりも、ちゃんと形のある古墳を見ていた方がよほど楽しかったりするのである。















館は見所がないが、すぐ北側の古墳群はなかなか面白い。




漆原城・瀬来城(吉岡町漆原城ノ内・瀬来)

 漆原城は、長松寺の北東200mほどのところにあった。また、瀬来城は、その南側600m、北側に突き出した比高20mの台地先端部に築かれていた。

漆原城のあったところは、長松寺のある高台から見ると低地に位置している。すぐ近くに高台があるというのに、そこではなく低地に城館を築くというのは意外な気がするが、根古屋といった城郭関連地名が残されており、この低地部分に城館があったことは間違いなさそうである。

 南側の根古屋地区ではなく、その北側の打出地区が城館の中心部分であったようである。

 しかし、現状では宅地が密集しているばかりで、城の構造はまったく理解できない。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像図を描いてみた(瀬来城についても同様)。漆原城は二重の堀に囲まれた城館であったと思われる。東大手・西大手と、2つの大手口があったようだが、これはちょっと不可解である。この規模の城館で、大手が2つもあったとは思われず、たとえば東側が大手であったなら、西側は搦手なのではないだろうか。あるいは両方大手にしたのは、「搦手」という文言そのものを嫌っていたのであろうか。

 漆原城は、長野氏配下の箕輪衆の拠点となった城館の1つで、漆原12騎といった面々によって守備されていたという。

 詳細についてはよく知らないのだが、文明9年(1477)、関東管領上杉方の太田道灌と古河公方・長尾景春らが退陣した際、広馬場に陣を置いた公方方に対して、道灌は漆原に陣取ったという。漆原城がこの漆原陣に関係していた可能性が考えられる。


 川を挟んで漆原城の南側の比高10mほどの高台の先端部に築かれていたのが、瀬来城である。こちらはセオリー通り、台地の先端部に築かれた城館であるが、やはり宅地化によって遺構はすでに失われてしまっている。

 城内には微妙な段差が各所に見られるが、かつての城塁のラインと関連するかどうかは分からない。山崎一氏の図によれば、単郭で、折れを持った堀に囲まれていたようである。

 城主等、歴史については未詳である。






瀬来城のある高台。




長塩屋敷(吉岡町漆原)

 長塩屋敷は、吉岡町緑地運動公園の西300mほどのところにあった。

 長塩屋敷とは珍しい名称であるが、ここの主人は塩に関連した事業を行っていたのであろうか。それは不明だが、屋敷跡の民家の入り口に、標柱が立てられている。

 遺構が見られるのは北側から東側にかけての部分である。民家の敷地内であるため進入することはできないのだが、塀のすぐ先に土塁が残っているのが目に入ってくる。しかし、だいぶ崩されているのか、堀も浅くなってしまっているようだ。

 館主は長塩左衛門四郎であったという。長塩氏は長野氏に仕え、『関東幕注文』にも箕輪衆として名前を連ねている人物である。












南側にある標柱。 北側の土塁と堀跡。































大竹屋旅館