群馬県高崎市(旧吉井町)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人  城郭図鑑   城跡ほっつき歩き

折茂砦(高崎市吉井町長根字折茂、内出)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 折茂砦は、国道254号線に県道171号線がぶつかる白井の交差点のすぐ南側にそびえる比高20mほどの台地先端部に築かれていた。北に通っている鎌倉街道(国道254号)に向かって、東北方向に突き出した台地で、すぐ東側にある高砦とほとんど同じような地取りである。位置から考えて、北の街道を抑えるための要衝であったものと思われる。

 台地上は畑となっていて、耕作化による改変が進んでいる。そのため、明確な遺構を見ることはできない。

 それでも台地に上がってみると、高さ2m未満の段差が見られ、そのラインが先端に向かうあたりに虎口跡とも思われるような地形がみられる。その脇には土塁の残欠のようなものもある。しかし、これが遺構であるのかどうかは不明である。ただ、耕作化による改変にしては、意味がない地形であり、城郭遺構の名残である可能性は否定しきれない。

 台地先端部はヤブ化している。先端下辺りを覗き込んでみたのであるが、そこにも特に遺構のようなものは見受けられなかった。そんなわけで、どのような構造の砦であったのかはっきりしない。

 ただ、1960年代の航空写真を見ると、右の図の左端に見られるようなラインが確認できる。台地を横断するようになっており、堀のように見えるのであるが、この程度の砦の堀にしては幅が広すぎるようにも感じられる。これが実際に堀であったとするなら、城域は東西に200m近くあることになり、かなり広大な城郭であったということになるが、これが堀のラインであったのかどうか、確証はない。。

 この台地基部の辺りを「内出」といい、この地名が、ここを城館であったとする根拠になっているようだ。しかし、伝承等は特にないらしい。
 
 そのようなわけで、折茂砦に関する歴史等も不明である。

東側の先端近くにある虎口跡のようにも見える地形・ 東側先端部分。




高の砦(高崎市吉井町高)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 高の砦は、折茂砦の東側にある台地先端部、大沢川に臨む比高20mほどのところに築かれていた。位置取りは折茂砦とほとんど似たようなもので、やはり北側を通っている鎌倉街道を押さえるための要衝であったものと想定される。

 台地上には数軒の民家がある。また、正面奥の北側には大規模な土壇があり、ここが烽火台であったという伝承があるようだ。ちなみに烽火台の土壇はかつての稲荷神社の跡であるといい、実際には神社に関するものと見た方がよいように思われる。

 烽火台の手前の東側には、道路が窪んで、やや切り通しになっている地形を見ることができる。何となく堀のようにも見えるのであるが、これが本当に遺構であるのかどうは不明である。

 『城郭体系』には「高さ3mの土塁が残る」とある。高さ3mの土塁とは、またかなりの規模のものであるが、それを確認することはできなかった。おそらく民家の敷地内にあるのではないかと思われる。


 高の砦の城主等、歴史については未詳である。







台地先端近くにある堀跡のようにも見える地形。 北側の烽火台の城塁。




 

峯山城(高崎市吉井町石神字城、馬場)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 峯山城は、入野中学校の北西600m、比高15mほどの台地の北西端辺りに築かれていた。台地の下を通る道路が鋭く「く」の字型をしている部分の上である。

 城が築かれていたのは、北側に向かって突き出した台地の先端部であり、やはりすぐ北側の下には鎌倉街道が通っている。これを監視するための城館であったと考えられる。
 
 台地上は耕作化によってすっかり改変されている。そのため、現状では遺構を見ることができない。そんなわけで、右の図は山崎氏の図面に基づいて想像してみたものである。

 古い航空写真も見てみたのだが、城郭としてのラインを確認することはできなかった。台地先端部近くには、土手状の地形も見られ、右の図の北東辺辺りと一致するようにも思われるのだが、それを遺構の名残と見ていいのかどうか判断が付かない。

 台地の西端辺りには突き出した地形があり、その部分と城郭との間に堀切が掘られていたようである。先端近くはヤブ化しており開発の手を免れている可能性が高い。したがって、この中には唯一の遺構が残されている可能性もあるのだが、雨が降ってきたために、今回は進入するのはあきらめた、内部探索は次の機会に期したい。


 峯山城には富田吉政が在城していたという。富田氏は関東管領上杉氏の家臣であった。後、永禄年間になり、武田氏が上州に侵攻してくるに至って、富田氏は武田氏に属するようになったという。その後の富田氏の事績については未詳である。



西側に台地下部分。 城内にある土手はかつての城塁の名残であろうか。




上池館(高崎市吉井町池)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 上池館は、鏑川に臨む比高20mほどの段丘上に築かれていた。県道71号線の「池」信号から西側に入って行った辺りである。

 台地の縁に当たる位置であり、西側は鏑川の断崖、北側にも天然の土手がある。したがって、東側と南側とを堀で区画すれば、城郭が完成する。したがって、右の図のラインのような堀が存在していたと想像される。昭和50年くらいまでは堀が残存していたらしいが、現在ではすっかり埋められてしまったようで、その痕跡を見ることはできなくなってしまっている。



 上池城は古い城館で、平安時代末期の寿永年間に、高橋左衛門尉が在城していたという。『城郭体系』には、「堀跡・土塁は江戸時代の陣屋のもの」とあるが、その陣屋の由来も不明である。

 この「陣屋」というのが、いつ、誰によって築かれたのかが気になるところであるが、在地支配のための代官所のような施設が置かれていたものであろうか。


















館跡の現状。特に遺構は見られない。




池城(岡城・池の岡城・高崎市吉井町池字岡)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 池城は、地図にも掲載されている多胡碑の南600mほどの所にあった。三角形の形状をした比高8mほどの台地である。

 池地区の岡にあり、池城・岡城・池の岡城などと呼ばれている。

 『城郭体系』にも「一辺200mの三角形の城」とあるので、右の図の中央部の三角形の区画がそのまま城域であったと見てよいであろう。中世の居館にしては珍しい三角形状をしているのは、特にそういう意図があったものではなく、たまたまそういう地形の微高地上に築かれたから、と見るのが当たっていると思われる。

 この北東の土手は確かに城館らしい雰囲気を見せているが、それ以外に特に目立った遺構は見られない。南側には水路が通っており、これが堀の名残なのだろうと思われるが、現状ではたいしたものではない。

 このように見てくると、現象では明確な城郭遺構というものはなく、城の正確な形状も分からない。



 池城には河原丹後守が在城していたという。














小串城(高崎市吉井町小串字中組)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 小串城は、入野小学校の北側、地勝寺の辺りにあったという。しかし、周囲はすっかり宅地化されているので、城址らしい雰囲気はほとんど感じられない場所である。

 北側の鏑川に臨む微高地を利用したもので、鏑川の土手を天然の要害としていた城館であったろう。地蔵寺の両側面部にある切り通し状の通路が、かつての堀であったと想像される。

 地勝寺の南側には、石積みの塀が見られる。これがかつての土塁の名残と見ることもできるのだが、後世の改変の可能性もあるので、確信は持てないところである。

 他にはこれといって目立った遺構らしきものはなく、城館としての本来の形状もよく分からない。方100mほどの方形の館であったであろうかと想像してみるくらいである。


 小串城の城主は小串氏であったという。小串氏は南北朝時代からこの地域を領していた古い一族で、関東管領山内上杉氏に所属していたという。後に、長尾景虎が関東侵攻した際には、長尾氏に従ったと言われる。

 その後、永禄年間になり、武田信玄の上州侵攻が始まると、小串氏は抵抗したが敗れ、そのまま土着したと言われているが、その間の詳細については不明である。

 地勝寺の境内には、この小串氏の墓と伝えられる五輪塔がある。

地蔵寺の前にある石積みが土塁の名残のようにも見える。




黒熊館(高崎市吉井町黒熊字内出)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 黒熊館は、黒熊の延命寺の辺りにあったという。しかし、遺構などは特に見られず、どのような城館であったのかはまったく分からない。河岸段丘の微高地を利用して居館が置かれていたものと想像されるくらいである。


 黒熊館は、黒熊氏の居館であったという。

 黒熊氏は平素はここに居住し、背後の八幡山に、詰の城である中城を設置したという。














黒熊中城(高崎市吉井町黒熊字八幡)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 黒熊中城は、浅間神社の南側、藤岡ゴルフ倶楽部に囲まれた比高70mほどの山稜先端部近くにあったという。居館であった黒熊館に対して、詰の城に当たるのが中城であったと思われる。黒熊館の南600mに位置し、比高差は80mほどである。

 黒熊館の方から、上信越自動車道を目指し、それを越えたところに浅間神社がある。城址のある山頂部分は北側に向かって2つの尾根が延びているので、浅間神社のところからでも、北西の墓地のあるところからでもどちらからもアクセスできる。浅間神社からの比高は50mほどであり、城址に向かって遊歩道が付けられている。

 北西の墓地からだと比高差が40mほどであったので、こちらの墓地から接近していったのだが、どちらから行っても手間はほとんど変わらないと思われる。城址の手前には鉄塔が建てられているので、これが目印になる。

 遊歩道が設置されているのは、城址に「入野碑」が置かれているからであり、現地の案内板もそれによるものであった。城址についてはまったく触れられていなかった。

 さて、登って行くと鉄塔のあるところに出るが、途中の傾斜も緩く、城の間近になっても、切岸加工は施されていない。防御力に欠けており、城郭らしい雰囲気はほとんど感じられない。

 鉄塔の所から進んでいくと、やや虎口状になっている個所がある。しかし、これも、遊歩道を通すためにわずかに切り下げられたものと判断するのが無難なものである。

 その先の先端部が城址であると思われ、非常に見晴らしの良いところである。しかし、周囲の切岸加工もされておらず、自然地形のままである。城というにはあまりにも加工度が低い。

 先端の城址から周辺の斜面には「立入禁止」の立札が設置されている。城址の周囲は藤岡ゴルフ倶楽部によって囲まれているので、ゴルフ場への立ち入りを制限するためのものであると思われる。


 入野碑は、旧吉井町指定の文化財で、明治22年に周辺の9カ村が合併して入野村が誕生したことを記念して建てられたものだという。ここには万葉集など、古い歌集にある歌が刻まれている。いずれも「多胡の入野」について詠まれたものである。

「わが恋は まさかも悲し 草枕 多胡の入野の おくも悲しも」(『万葉集』東歌)


北側の虎口状になっている部分。 先端にある入野碑。周辺の切岸加工はなされておらず、自然地形のままである。






























大竹屋旅館