群馬県高崎市(旧吉井町)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人  城郭図鑑   城跡ほっつき歩き

天久沢(あまくざわ)陣所(高崎市吉井町多胡)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 上信越自動車道のすぐ南側にある天久沢公園が、天久沢陣所であったという。この公園は地図にも掲載されており、案内板も出ているので場所はすぐに分かると思う。

 公園となっているため、駐車場やトイレもしっかりしている。遊具もあり、大人も子供も散策して楽しめる公園である。この日も、雨がちの天気であるにもかかわらず、何人もの人が訪れていた。高さ8mの切岸側面部にはローラー滑り台まである。これは私も大好きなものである。雨が降っていなかったら滑っていたことであろう。

 公園化によってかなり加工されているとはいえ、本来の形状もだいたい想像できる。山頂部の観音堂のある高台が1郭というべきところである。その西側下の部分や周囲の腰曲輪が2郭というべきか。その北側にはさらに駐車場になっている3郭がある。

 このように見てみると、陣城とはいえ、かなりしっかりとした城郭構造となっていることが分かる。物見に良い高台に築かれていることからして、武田信玄が陣所として利用する以前から、何らかの城郭構造物が存在していた可能性が高いのではないかと思われる。

 
 永禄6年(1562)、上州に侵攻した武田信玄は、ここを陣所としたという。そんな中の3月18日、信玄の愛馬であった天久(あまく)が、ここで死んでしまった。そうしたことから、この地に「天久」の名前が付けられたのだというのだが、愛馬の名前を城郭の名称にするというのも珍しい話である。

 馬を埋めたところに馬頭観音を祭ったというのが、現在の観音堂の縁起である。かつては3月18日に縁日が開かれ、草競馬などの催し物が開催されてたくさんの人が訪れたという。観音堂周囲の楕円形の通路は草競馬の会場の名残なのであろう。

 しかし、現在ではその縁日も開かれなくなってしまった。ただ、公園内の観音堂としてたたずんでいるのみである。



駐車場から背後の城塁を見たところ。高さ10mほどの鋭い切岸となっている。「天久沢公園」という大きな看板があり、遠くからでも見えるようになっている。 観音堂と1郭城塁。周囲の楕円形の道は草競馬の馬場の名残であろうか。
1郭の最高所にある土壇。後世の改変の可能性もある。 北側の城塁と幅広の腰曲輪。ものすごく急峻な土手である。




中ノ原館(高崎市吉井町多比良字中ノ原)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 中原館は、藤岡市との境界近く、比高20mほどの南北に細長い台地の西側辺りにあった。

 耕地整理のために、現在では遺構は完全湮滅となってしまったが、1960年代の航空写真を見てみると、城址と思われる箇所に、右の図のようなラインが見える。これが館跡を示すものではないかと考えられる。方75mほどでり、南西側の一角が張り出していたようだ。

 しかし、その周囲にも他に2か所に城館ラインのようなものが見えている。山崎氏の図と対比して、右の図にあるラインが城館跡と判断したのであるが、他にも館跡が存在していたのであろうか。



 館の歴史について詳しいことは分からないが、『城郭体系』によれば、平井城多比良城とのつなぎの城郭であったという。












中原館の跡。耕作化され完全に消滅してしまった。




瀬戸城(向平城・高崎市吉井町多比良字向平)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 瀬戸城は、県道41号線の南側で、向平の集落がある比高15mほどの台地上に築かれていた。

 台地先端部近くは荒れ地になってしまっているので、遺構があるのかどうかよく分からない。一部に下の写真のような土手が見られるのであるが、これがそのまま遺構を示しているのかどうかは不明である。

 1960年代の航空写真を見ると、台地先端部近くに方形の区画が見られる。これが主郭であったと思われ、上記の土手はこのラインと一致しているようにも見える。

 台地の基部の方には堀切があるべきはずであるが、現状では見られなくなってしまっている。かなり南側に切り通しの通路があるのだが、これを堀切跡と見るかどうかは判断に迷うところである。が、まあ、後世の通路と見るのが無難である。


 瀬戸城も、中原館と同様、平井城多比良城とのつなぎの城郭であったというが、それ以上の詳しいことは未詳である。











先端近くに見られる城塁の名残のような地形。 南側の切り通し道路。




多胡下の城(金沢城・高崎市吉井町多胡字下城)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 上信越自動車道の吉井インターの南西800mほどの所にある比高80mほどの山稜頂上部が多胡下の城の跡である。山頂部にしてはけっこう広く、長軸100m以上あったようである。

 ところで、多胡下の城という名称からしてまず意味不明である。この城郭は、多胡館よりもかなり高い位置にある。どちらかというと詰の城といった位置関係にあり、「上の城」と呼ぶ方がふさわしいであろう。これを「下の城」と呼ぶ感覚は、それだけで訳が分からない。

 しかし「下城」という地名の所にあるので、下の城であったことは間違いないらしい。すると多胡館との関連ではなく、もっと上にある一郷山城八束城との関係性を見るべきなのであろう。

 地図を見ると、城内まで道が付けられているようだ。城址への通路は、高速道路を渡ったこの位置から付けられている。これを進んでいくと、途中に牛舎のようなものがあり、その辺りまでは車で進んでいくことも可能である。

 ここから先は未舗装の道となる。それでもまだまだしっかりとした道なのだが、途中から道は荒れ、笹薮が生い茂ってしまっている。こうなると徒歩でも通過が困難である。

 それでもヤブ漕ぎさえすればよいのであるが、あいにく、この日は雨が降り出してきてしまった。雨の日の笹薮漕ぎはさすがに馬鹿げている。そういうわけで、城址を目前としながら、今回は撤退することにした。そんなわけで、右のラフ図は完全に山崎氏の図に拠ったものである。

 これによると、単郭ながらも周囲に横堀を廻らせたしっかりした城郭であったようだが、実際にこの通りになっているのかどうかの確認は次の機会を期したい。


 多胡下の城は、多胡館・多胡城と同様、多胡氏の城館であったと言われている。


下の城の手前近く。笹薮に跳ね返されてしまった。




神保植松城(高崎市吉井町神保字植松)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 大沢川の西側にそびえる比高60mほどの台地先端に降った辺りに神保植松城は築かれていたが、現在は上信越自動車道によって真っ二つに分断されている。主郭のあった部分が、そっくりそのまま消滅してしまっている。

 富岡市辺りの城館に著しい傾向であるが、この地域は上信越自動車道によって破壊されてしまった城館の数が非常に多い。まるで目の敵にでもされてしまっている観さえある。神保植松城もその1つで、本来はそこそこの規模の城館であったようだが、現状ではほとんど遺構の見られない城址になってしまっている。

 もっとも、その際には発掘調査が行われたようであるから、発掘調査報告書を見れば、正確な縄張り図を目にすることができそうである。

 上信越自動車道によって大部分破壊されてしまっていることと、周囲により高い台地があることとで、現在は城址の位置を確認するのも一苦労である。特に、城址は一番高い位置にあると考えていると、どこが城本体なのか全くわからなくなってしまう。神保植松城の西方にはより高い台地がそびえている。つまり城址は台地の頂上ではなく、先端近くの中腹に築かれているのである。一種の崖端城である。そういう意味では、珍しい立地をした城郭であると言える。

 城郭の位置を確認するのには、山崎氏の図にもある南側の古墳群を確認するのが手っ取り早い。これを見てやっと、城址の位置が分かったのである。

 現状では南側にわずかに見られる堀の跡、北側の郭群の段差、くらいしか遺構らしきものは認められない。それでも丹念に見れば、もう少しまともな遺構を見つけることができるかもしれない。



 神保植松城は、神保館の館主であった神保氏が、戦国期に築いた城郭であったという。








高速道路の北側から削られた土手を見たところ。主郭部は完全に消滅してしまっている。 高速の北側に残る郭の跡。
南側に残る古墳群。




神保館(高崎市吉井町神保字門出、中のうち)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 神保の辛科神社の北東側が神保氏の館の跡であったと言われている。

 神社の周囲にも、切り通し状の通路や土手が見られるのであるが、これらはどうも道路に伴うもののようである。神社の背後も、一見して高土塁があるように見えるのであるが、実際には神社造成のために削られた土手であるに過ぎない。

 実際の遺構と思われるものは、切り通しの道路を挟んで北側の山林内にある。つまり館跡は神社ではなく、隣接する山林や民家にあったと考えられるのである。

 館跡と思われる部分の北西側には、深さ3mほどの空堀が60mほど残存している。この堀の特徴は、堀の両側に土塁が盛られているということである。そして、その形状から堀の南側が郭内であることは間違いない。

 この堀は北側の山林が集結する地点で急に消滅している。その先は大規模耕地となり、耕地整理で埋められてしまったのが一目瞭然である。本来は、この先に、東南側に堀が折れている部分があったはずである。

 館跡の下部は、数軒の民家の敷地となっている。そのため土手が幾分削られてしまっており、城塁らしい出張った部分が見えるのであるが、宅地によって土手が削られる以前は、この出張った部分まで、土手全体が張り出していたのではないだろうか。そしてそれが館の本来のラインであったはずである。

 以上は私の想像によって神保館の形状を想像してみた結果であるが、実際のところ、その通りであったかどうかは不明である。1つの復元案として想像するのみである。


 神保館は、中世以降、当地の領主であった神保氏の居館であった。




館北側に残る堀跡。両側に土塁がある。 堀の北側に延びる土塁。




矢田城・矢田代官屋敷(高崎市吉井町矢田)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 矢田城のある位置は、東西の両端が高さ10mほどの切岸状の土手に囲まれた南北に長い台地上である。この台地そのものが城館を築くのにふさわしい場所で、天然の要害であると言える。

 矢田城は、この台地の東端寄りに位置している。航空写真を見ると、現在でもその形状はよく分かる。

 矢田城はこの位置、矢田代官所はこの位置にある。


 矢田城の規模は100m四方ほどであった。現在、西側と北側の土塁と堀が残されている。西側の道路を進んでいくと、道路脇に土塁があるのが確認できる。この土塁は堀の外側に盛られているもので、これを登ってみると、そこには深さ5mほどの堀と城内側の土塁とが見えている。

 土塁と堀は南端部で行き止まり、南側の堀は宅地開発によって埋められてしまったようである。

 一方、北側にも堀は続いている。北側は垣根がびっしりと植え込まれているので、遺構をはっきりと確認することは難しいのであるが、垣根の隙間から見てみると、堀と土塁が良好に残っているのが確認できる。

 ざっと見て分かるのはこのくらいの部分である。内部が民家の敷地内となっているので、城内の様子がどうなっているのかは?不明である。

 現状では単郭の城館と思われる。台地の形状からして、台地全体を城域に取り込む城郭構造も想定してみたくなるところであるが、実際にはそのようなものはなく、単郭の城館であったと見るのがよさそうである。


 矢田代官所は、矢田城の北100mほどの所にある。矢田城よりは一回り小さく、70m四方ほどの単郭の構造であったと想定できる。南側の入口から進入していくと、石積みの堀底状の道が続いており、これが代官所への通路であったと思われる。この通路は入口が屈曲しているのが特徴である。

 南側の正面に行くと、そこにはいかにも代官所を思わせる門や土塀、土蔵などが見えている。しかし、内部は民家となっているため、内部を見学することはできない。

 矢田代官所には、北側の堀がよく残っている。この堀を見るためには、北西側の道路から畑を通って接近するルートを取る。畑から山林に入ってみると、そこには堀と土塁がよく残されており、土橋から続く正面の虎口には門が置かれているのが見えている。なかなか古そうな門で、かなりの年代ものである。


 矢田城は戦国期には、小林氏の城館であった。その後廃城となったが、近世に入って宝永6年(1709)、松平信清がかつての城跡を利用して陣屋を構えた。松平氏は宝暦年間に吉井陣屋を築いて移るので、その後矢田陣屋は廃城となったと思われる。


 矢田代官所は、小林氏が代官として居住していたところであると言われる。

 この代官所と矢田城との関係が今一つよく分からない。小林氏といえば在地系の領主であり、本来矢田城の領主であった。その小林氏が、松平氏の転封と共に、代官となって松平氏に仕えたのだと思われる。それにしても、在地系の領主の城館と、新領主の居城とが、このように並立しているというのは、まったくもって奇異な情景であると言わざるを得ない。

 小林氏の城館は、もともと代官所のある場所であったと見る方が、理に適っているかもしれない。陣屋が置かれた後も、小林氏は代官として松平氏に仕え、代官所で在地支配を任されていたのではないだろうか。

 あるいは、小林氏はもともと矢田城内にいたのだが、松平氏の入部に伴って、隣接する北側に移住し、そこを代官所とした、という線も考えられる。

矢田城のある台地西側の土手。高さ10mほどで、天然の切岸状態である。 矢田城西側の堀と土塁。
北側の土塁と堀。手前には垣根があり、垣根の隙間からかろうじて見えるだけである。
矢田代官所の南側入り口にある通路の折れ。通路は堀状になっている。 代官屋敷の門。右手には古そうな土蔵もある。
北側の虎口と門。両脇には堀と土塁が残る。 その堀だが、このような状況で、写真ではよく分からない。




河内砦(高崎市吉井町吉井川)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 河内砦は、国道254号線と吉井インターから延びる道とが合流する地点の上にそびえる比高15mほどの台地先端部にあった。

 台地先端部で、しかも2つの街道が合流する地点に面しているという点では、折茂砦、高砦と同様の位置取りである。いかにも城館を営みそうな場所ではあるのだが、台地上は、集合住宅がびっしりと建て込んでおり、旧状はすっかり失われてしまっている。

 台地上には御嶽神社が祭られており、これがかろうじて城に関連するものであったのかもしれない。

 旧状を知ろうと思って、古い航空写真を見てみたのであるが、そうとう早い時期から宅地開発が進んでいたようで、古い航空写真からも旧状をうかがい知ることはまったくできなかった。

 したがって、地形上の特徴のみでしか、砦があったことの残滓を伺うことはできない状況である。


 『城郭体系』によれば、河内砦には牧野英一が在城しており、永禄6年に武田信玄によって攻略されたという。




河内砦北側の城塁。




小棚城(高崎市吉井町小棚字城、城坂)・片山砦(高崎市吉井町片山字島越、遠出居)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 小棚城は、鏑川と天引川とが合流する河岸段丘上に築かれていた。また、その上流300mほどのところの天引川に臨む河岸段丘上に片山砦があった。

 天引川は垂直に粘土質の土壌を削っており、川の方向からの防御力は万全である。また、城の北側も垂直に近い天然の切岸となっており、城郭を営むのにふさわしい要害の地であると言っていい。台地続きの北側と南側に堀を入れて区画すれば、城郭が出来上がる。ということで、右の図のような堀のラインを推定してみたのだが、あくまでも想像したものである。

 『城郭体系』にも、150m×300mの規模、とあるので、大体この範囲が城域であったと見てよいと思う。

 現状では、人工的な城郭遺構はほとんど認められなくなってしまっているが、地名そのものが「城」であるので、城址であることは間違いないのだと思う。

 主郭であったと思われるのが、北西側の先端部分である。長軸40mほどの楕円形の区画となっている。この東側に堀などの区画が必要となるところであるが、ここに民家の垣根のようになっている土塁が見られる。もっとも表面にびっしり石積みがされているので、見た目は石塁になってしまっているはいるが、もともとは土塁であったと考えられる。この外側に堀があったのではないかと思われるのだが、こちらはすでに湮滅してしまっており、痕跡もない。

 小棚城は、布施川氏の居城であったという。



 片山砦も、天引川が蛇行する部分に築かれている。先端の長軸50mほどの楕円形の区画が、ちょっと高くなっており、その西側には天然の堀跡のような低地が存在している。

 ここに城郭遺構が存在しているかどうかは確認していない。


 片岡砦の歴史等詳細については未詳であるが、位置からすると、小棚城に対して付けられた向城のように思われる。

天引川に臨む土手は削られており、天然の切岸となっている。 1郭東側に残る土塁は石積みで加工されている。
1郭先端部から見た天引川。 1郭北側の城塁。鋭い崖となっている。
片山砦手前の窪地から、砦跡を遠望したところ。楕円形の高台となっている。




馬庭城(高崎市吉井町馬庭字内出、中屋敷)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 上信電鉄馬庭駅の北西300m、馬庭念流道場の周辺に馬庭城が築かれていた。

 城址は馬庭念流道場の敷地となっており、けっこう広々とした敷地である。ところが、あちこちに「私有地」「駐車禁止」などの表示がしてあって、車を停めてゆっくり歩くこともできない。もっとも、遺構のほとんどは消滅してしまっているようで、見るべきものもないのかもしれないが。

 馬庭城は、鏑川に臨む東側の段丘上に築かれているが、段丘そのものを西側の城郭ラインとして利用するのではなく、それよりも内側に入った所にある単郭の城館であった。

 現状では城のラインを見ることができないが、1960年代の航空写真からすると、右の図のような形状が想定できる。現在では堀もすっかり埋められてしまっており完全湮滅に近いが、北西角にあった物見台が、神社が祭られることでかろうじて現存している。城の痕跡をうかがえるものといったら、これくらいである。



 馬庭城は馬庭氏の居城で、馬庭家重が在城していたという。馬庭氏は高山氏の一族であったという。その子孫が馬庭念流の開祖となったものであろうか。











馬庭流道場の長屋門。移動式のパン屋さんが正面に停まっていた。 わずかに残る物見台。
























大竹屋旅館