群馬県嬬恋村

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の山城と館』(宮坂武男)

*参考サイト 土の城への衝動  儀一の城館旅  

鎌原(かんばら)城(嬬恋村鎌原)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

鎌原城は吾妻川に突き出した比高50mほどの河岸段丘先端に築かれている。吾妻川に削られた断崖は、コンクリート壁のように垂直に聳え立っており、手をつかめるよう箇所がほとんどない。ロッククライミングの達人でも登れないような断崖絶壁である。また、上から落ちたらほぼ即死確実なので、城郭の縁部分を歩く際には十分に注意しなければならない。

段丘の側面部はこのような要害地形であるから、台地基部の方に防御施設を構えれば、かなりの面積を持った城郭が簡単に構成できる地形である。崖端城郭というやつで、台地基部からアクセスすれば、ほとんど高低差がないので、楽に訪れることのできる城郭でもある。

鎌原城の入り口には案内表示が出ているので、それに従っていけば城内に進入できるのであるが、表示がなければかなり分かりにくい場所である。

国道406号線の方から日本ロマンチック地区街道(浅間山火山ルート)を南下していくと、嬬恋郷土資料館がある。その辺りに「鎌原城址→」という案内があるので、そこから谷戸をいったん降ってさらに登っていく。登り切ったところに、また案内表示がある。それにしたがっていけば、鳥瞰図のところに南下していくことになる。途中から未舗装の道になるが、注意して進んでいけば運転には問題がない。

台地上は一面の畑であるが、やがて、右手にこんもりとした部分が見えてくる。これが鎌原氏の墓所のあるところである。その脇には「五霊城」と書かれた城址碑や、三の丸大手跡といった碑も建てられている。

ということで、ここからが大手になるらしい。本来堀があったはずなのだが、だいぶ埋められてしまったようで、微妙な段差しかない。しかし、東西の台地縁まで進んでいくと、埋め残された部分を見つけることができるので、本来の堀の規模を想像することはできる。現状からは幅8mほどの箱堀だったように思われるが、あるいは本来は薬研堀であった可能性もある。また、城内側にはもともとは土塁もあったのではないかと思われる。長年の耕作化でだいぶ改変されてしまっているようである。

三の丸は広大な畑となっている。長軸150mほどもあり、多くの建造物を建てることが可能である。地勢は先端に向かってやや傾斜しているものの、ほぼ平坦な地形である。

これを進んでいくと、両側に堀が残存している個所に出る。これが二の丸の堀である。虎口は斜めに進入するようになっている。進入してすぐのところに、城址標柱と案内板とが設置されている。

ここから先が二の丸と本丸ということになるが、本丸の堀はほとんど埋められてしまっているようで想像させるものが少ない。かろうじて東側の端辺りがくぼんでいるが、痕跡的な状態である。本丸の堀であるから、本来はそうとう大きな堀であったはずである。

二の丸と本丸内部は整備する計画があるのだろうか。現在(201512月)、内部では木が切られて束ねられており、ユンボによる整地作業が行われている様子であった。いずれ公園化されるのかもしれない。

本丸にはアンテナが立てられている。その先に尾根が長く延びており、いったん降って上がったところにテラス状の小郭がある。例によってこれが「笹曲輪」であるらしい。

この辺り、郭の縁部分から下方を覗き込むと、足のすくむような断崖である。場所によってはオーバーハングしているところもあるので、十分に気を付けた方がよい。

本丸と並行して、東側にも北側に延びている尾根がある。といっても、こちらは細長い2本の尾根が延びているばかりで居住面積はない。この間の部分が「東曲輪」ということであるが、曲輪というよりはただの傾斜地形に過ぎない。

鎌原城は、天然の要害を活かした守りの堅い城郭である。曲輪面積も十分にあり、多数の人員を収容することも可能である。この地域の有力豪族の居城にふさわしい規模の城郭であるといっていい。


 鎌原城の城主は鎌原氏である。鎌原氏は滋野源氏で、海野氏、真田氏らと同族に当たる。

 『加沢記』には羽根尾氏や斉藤氏との攻防戦が描かれている。(「鎌原と羽根尾合戦の事」「長野原合戦の事」)
 
 永禄3年春、武田勢の伸張振りをみて、武田に属するのが吉と思った鎌原氏は、真田幸隆の調略もあり、ひそかに武田氏に内通することに決めた。しかし、岩櫃城の斉藤憲広は、そのことを察知し、当時鎌原氏と不和になっていた羽根尾入道幸全や塩野谷将監らを先手として鎌原館を攻撃した。ところが、鎌原館は「究竟の用害」であったため、そう簡単には攻め落とせない。鎌原氏の一族の浦野下野守、湯本善太夫、横谷左近らも横撃してきたので、かなわず、大戸真楽齋を仲介に立てて和睦した。 

 後には武田氏に属し、武田滅亡後は真田氏に属した。小田原の役後は、沼田真田氏の家臣となっていたが、天和元年(1681)、沼田真田藩は改易となる。沼田真田氏は、両国橋掛け直しの工事を明示されたにもかかわらず、工事を果たすことができず、それをきっかけに改易となってしまったのである。

 その後の鎌原氏は、西窪氏、湯本氏、横谷氏らと共に、代々大笹の関守となって、明治維新を迎えたという。



 


西側の西窪城の方から見た鎌原城の城塁。比高50mの垂直な崖である。こんなの絶対に登れない! 嬬恋郷土資料館の近くにある案内表示。これにしたがって進んでいけば迷うことはない。
鎌原氏墓所の手前にある「霊城」の石碑。 三ノ丸内部。かなり広い。
三ノ丸の堀の台地縁部分。本来はかなり大きな堀だったようだ。 二ノ丸堀。現状では箱堀であるが、本来はもっと鋭い薬研堀であったのかもしれない。
二ノ丸にある城址標柱と案内板。 二ノ丸内部。整備中であった。
わずかに残る本丸堀の一部。 本丸先端部の笹曲輪との間の鞍部。
下の町を遠望した所。ずいぶん高い。 二ノ丸の虎口を振り返った所。




金比羅山砦(嬬恋村鎌原字金比羅山)

 *鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』、土の城への衝動を参考にした。

 金毘羅山砦は、鎌原城の東側に隣接する尾根上に築かれたものである。こちらは本当に尾根上の城郭なので、曲輪面積は鎌原城とはまったく比較にもならない些細なものである。東側から侵入する敵を監視するための、まさに簡素な砦といった趣のものである。

 砦のすぐ下に日本ロマンチック街道が通っているので、この通り沿いにアクセスする。所々に駐車できそうな路肩のスペースがあるので、車はそうしたところに停めておけばよいであろう。

 道路脇から急斜面のピークが見えているので、こちらが砦の跡だろうと当たりを付けて登ってみる。確かに上にはそこそこのスペースはあったが、自然地形のままのようである。尾根上からは、西側の鎌原城がよく見えている。

 そこから北側に尾根をどんどん進んでいくと、アップダウンのある地形である。側面部は急斜面になっているので、尾根上を進むのには若干の注意が必要である。やがて進んでいくと、尾根が降りになっていき、その先はただの岩盤に見えた。

 そこが先端かと思って降りてしまったのだが、後でよく調べてみると、その先こそが砦の本体であったらしい。というわけで、ちゃんと城内まで到達していないので、宮坂氏の図面をもとにしたラフ図を掲示しておく。

 それによると、砦の前面には浅い堀切があり、その先に数段の平場が形成されている。それだけであり、かなり簡素な構造であったようである。たいした人数を収容することもできないが、物見の砦であるから、それで機能は発揮できたのであろう。

 鎌原城は確かに近くに見えるのであるが、間には断崖があって、直接行き来することはできない。往時は烽火や太鼓などによって連絡し合っていたのであろう。もっとも直線で300mほどの距離であるから、大音声の持ち主であれば、直接コミュニケーションも可能であったかもしれない。








金比羅山砦側面部の崖。うっかり落ちたらただではすまない。 砦に向かう尾根にある堀切状鞍部。
この岩場を登った所が砦であったようだ。 段郭を側面部から見たところ。




西窪(さいくぼ)城(嬬恋村西窪)

*鳥瞰図の作成に際しては土の城への衝動を参考にした。 

 西窪城は、西窪神社の上辺りにある。吾妻川を挟んで、鎌原城のすぐ西側で、主郭と思しき部分は、比高60mほどの高台となっている。北側の下には東京電力西窪発電所があり、そこに水を送るための施設が、山の斜面に沿って長く延びている。この発電所は、調整池から落ちてくる水を利用した水力発電所で、最大出力が19000kWもあるというから、なかなかのものである。このような自然の力を利用した発電所が増えてくれるといいのにな、と思ってしまったのであった。

 西窪城に関しては、『関東地方の中世城館』『境目の城館』ともに、主郭周囲のわずかな部分だけを城域として図化しているが、土の城への衝動では、さらに大規模な城域を指摘している。今回実際に歩いてみて、土の城への衝動の指摘する台地部分全体が城域ではなかったかと感じた。

 というのも、城域と思われる一帯の北側には、人工の、それも大規模な堀跡と思われるものがあるからである。ここに堀を配置しているからには、そこから南方の部分全体が城域であったということである。北側の堀は、明らかに人工的な構造物であり、地元の方に伺っても「堀だ」という答えが返ってきた。つまり、実際には西窪城はかなり城域の広大な大城郭であったということなのである。

 地元の方も「主郭は図の1のところ」とおっしゃっていた。この最高所は、長軸20mほどの小さな郭に過ぎないが、東西に土塁状の高まりがあり、周囲は切岸加工されている。城郭としてみていいものである。

 1郭は、西窪神社の真上に当たるのだが、西窪神社から直登するのはとても厳しい。車で、すぐ真下辺りまで接近するのがベストである。御多分に漏れず、周囲には急崖が廻っているので、あまり端の方を歩かないように注意した方がよい。

 1郭の北側には、2本の尾根に囲まれた区画があるが、これも郭とみてもよさそうなものである。中心部はこれらの小郭によって構成された小さな部分であり、物見程度のものでしかない。

 しかし、北側の堀との間には、かなりの面積のある郭が存在している。ただ、あまりきちんとしたものではなく、段々畑がひな壇状に並んでいるだけである。城の大半の部分が山の斜面沿いに存在しているため、全体がひな壇状の構造にならざるを得ないのである。

 それにしても、なんだかパッとしない構造である。上記の北側の堀切から、この全体が城域であったことは間違いないと思うのだが、全体に明確な区画性が薄い。とりあえず北側に堀は掘ったが、全体構造をきちんと造成するまでに時間的余裕がなかったのであろうか。


 西窪城の城主は西窪氏であった。西窪氏は、すぐ近くの鎌原氏と同様、滋野一族で、海野氏と同族であった。かつては関東管領上杉氏に従っていたが、その後は岩櫃城主齋藤氏に属すようになり、永禄年間に武田氏が侵攻してくると齋藤氏と共に武田氏に属した。

 武田氏滅亡後は真田氏の配下となる。後には沼田城の真田氏に所属し、その家系は大笹関所の関所守として明治維新まで続いたという。大笹関所の関所守となったという話は、鎌原氏と共通であるが、鎌原氏・西窪氏がともに関所守をしていたということのようである。 










西窪城の西側の崖を遠望した所。 西窪神社。この背後の山頂部が主郭である。
山麓の西窪氏館の辺り。 上へ登っていく車道脇にある堀切状地形。
1郭の城塁。 1郭内部、北側の天然土塁を見たところ。1郭は冬場でも笹薮だらけである。
城の東側を通っている西窪水力発電所の導入路。 北側の大堀切に面した部分にある櫓台状の地形。
北側の大堀切。大規模な堀である。 堀切から南側の道路沿いの城塁。




大前城(嬬恋村大前)

*鳥瞰図の作成に際しては土の城への衝動を参考にした。

 大前城は、嬬恋村役場の西側300mほどのところにある諏訪神社の背後の比高50mほどの山稜に築かれている。したがって、城を探すには諏訪神社を目指していけばよい。この城も『城郭体系』等にまったく記述がない城郭であるが、ちゃんとした遺構が残っており、城であったことは間違いない。そこで土の城への衝動の記事を頼りに訪れてみることにした。

 諏訪神社に行ったら、石段下の道路脇に寄せて車を停めておくことも可能であるが、お勧めなのは、東側の大前館の方に行く道を進んでいくルートである。すると、神社拝殿のすぐ脇を通過するのだが、その入り口に車1台を停められるくらいのスペースがある。ここからなら神社の石段を登る必要はない。

 神社背後から上の尾根に登る道があるので進んでいく。最初の50mほどは切通し状の通路である。それを抜けた所に2段ほどの平場があった。しかし城の郭という感じはしない。ここから南西上方の城址に向けて尾根が延びている。尾根沿いの道ではあるがけっこうきつい斜面である。これを150mほど進んだところで堀切が見えてきた。大前城に到着である。

 大前城は、山稜先端部を堀切で区画した単郭の城郭である。堀切の深さは2m程度であるが、明瞭に残っている。内部は長軸60mほどの五角形のような形状で、北側の2か所に、切岸造成で生じた腰曲輪が見られる。

 虎口らしきものは南側の正面にある。虎口を出た先が小テラスのようになっている。ただし、その先に道のようなものは見られない。しかし、堀切から直接城内に進入するよりも、この虎口を通らせる方が防御的には有利である。かつての道は失われてしまったのであろうか。


 大前城の遺構は以上であるが、その北側背後にもう1つ城郭遺構のように思われる地形がある。仮にそこを大前館としてみたが、面積は大前城よりもはるかに大きく、一辺が200mほどの方形に近い形状である。

 大前館は南側と西側とに天然の谷戸部分があり、天然の堀切となっている。それもかなり規模の大きな堀である。東側には小川が流れており、こちらにもわずかながら堀状の窪みがある。ただ、北側には城のラインとみるべき区画がない。畑部分そのものは北側も区画されているのだが、高低差が見られない。もっとも、本来あった堀を埋めてしまったのだと解釈すれば、全方位的に堀が存在していたということになる。畑内部には土塁状のものもわずかに残されている。

 しかし、この「大前館」が本当に城館であったかどうかには疑問も残る。南と西の谷戸部と東側の小川など、城郭遺構らしく見える部分はすべて自然地形によって形成されたものである。北側が人工的な地形であれば確実に城館といえるのであろうが、肝心の北側はすっかり埋められてしまっている(というか、もともと区画はなかったのかもしれない。)形状としては方形の居館のように見えなくもないのは確かであるが、自然地形がたまたまこのような形になっているだけ、とも思われるのである。内部の土塁らしきものも、確実に遺構と言えるのかどうか判断がつかない。

 このように疑問を感じてしまう理由の1つは、大前城との関連である。このように並列して2つの城館を置いている意味がよく分からない。普通に考えれば大前館が平素の居館で、大前城が詰めの城とみるべきなのであろうが、詰めの城が全面にある配置というのは見たことがない。あるいは、大前城は、大前館の全面守備のための出丸といったように考えるべきなのだろうか。であるならば、大前城と大前館の間に、両者を連携するような施設があってもよいと思われるが、特にそれらしきものもない。大前城の西側の尾根は、ただの自然の尾根なのである。大前城を大前館の附属物としてみるには、大前城の独立性が高すぎるように思われる。

 大前館の辺りで人に会わなかったので館のことを聞けなかったのであるが、館があったという伝承や地名が残っていないとしたら、城館遺構とするには早計の危惧がある。

 ちなみに、最初に諏訪神社を探していた時に、地元の古老に「神社はどこですか?」と尋ねたらすぐに教えてくださったのだが、その方は、大前城のこともご存じではなかった。大前城の方も特に伝承はないのかもしれない。

山麓近くにある諏訪神社。この背後の尾根上が城址である。 大前城に続く尾根。
東南側の堀切。 郭内部南側の虎口状部分。
西側の堀切。 北側の腰曲輪。
今度は谷戸を隔てて北側の大前館へ。館の東南角の土手。 南側の堀に当たる谷戸部分の土手。
西側の土手。 北側はなんとなくラインは分かるが、現状では堀としての深さはない。
内部にある土塁らしきもの。 東側を流れる小川。う〜ん、城館と見てよいのかどうか・・・・。
大前館から見る大前城の城塁。こちらは明らかに城郭である。




鷹川城(嬬恋村鷹川)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』、土の城への衝動儀一の城館旅を参考にした。 

 鷹川城は、JR袋倉の駅の西側にそびえる比高100mほどの河岸段丘の上に築かれている。御多分に漏れず吾妻川に削られた断崖で、落ちたら即死系、難攻不落の地形の上にある。

 河岸段丘上の城郭と言えば、先端に向かって次第に低くなっていくという穴城パターンが多いが、こちらはそれとはまったく逆で、城のある部分がs舌状台地の基部よりも50mほども高くなっており、さらに先端部が最も高くなっている。珍しい地形であるが、だからこそ城郭を営む適地となっているのであろう。

 城の南側の市道を通っていくと、「←鷹川城址」という案内が立てられている。そこで、矢印に従って大きく左側に左折して降ろうとすると、民家に行きあたって、にっちもさっちもいかなくなってしまう。どうもこれは道を間違えてしまったらしい。

 これは看板のある位置が悪すぎるのである。実際の入り口は、看板のあるところから20mほど進んだところから左手前方に降っていく道である。どうして実際に曲がる箇所に案内板を立ててくれなかったものか。これでは大概の人は一度は道を間違えてしまうと思う。

 その道を降っていくと再び「←鷹川城址」という案内表示が見えてくる。今度はそのまま左手に曲がり、山道を進んでいけば、やがて神社に到達する。主郭下の神社まで舗装されたいい道路が続いているので、安心して城内まで車で訪問できる城址である。

 駐車場は特に設置されていないが、台地上にあるのは一面の畑だけであるから、脇に車を停めておいても邪魔にならない。

 先端部分は2段構造になっており、そこに神社が祭られている。一番上の段まで登っていくと、社殿が建つだけのスペースしかなく、主郭というよりは物見の場所といった程度のものであった。

 神社から北西側に向けて尾根が延びている。しかし、郭といえるほどのスペースはない。尾根はその先も長く続いていくが、後は岩盤だけである。そして吾妻側ではおなじみの垂直岩盤、誤って落ちようものなら即死コースである。恐ろしく堅固な要害というべきである。

城の主体となるのは、畑となっている台地全体である。もともとテーブルマウンテンのような形状であるから、上の平場はそのまま郭を形成することができる。この部分が「城の平」と呼ばれている部分である。

台地の東南部分にも高所がある。ただし、たいして加工はされていないようで、自然の高まりをそのまま防塁、あるいは物見として利用していたようである。

そんなわけで鷹川城は、城郭的加工度という観点からは、目立った遺構を残していない城郭であるが、地形そのものが天然の要害であるため、そのまま難攻不落の城郭として形成された城郭である。 


 鷹川城の歴史について詳細は未詳であるが、伝承では、源頼朝が三春野鷹狩りを行った際に鷹所を置いた場所であるという。このことについては『吾妻鑑』に詳細が記録されているとの琴だが、『吾妻鑑』は確認していない。


 『加沢記」には、永禄年間の、齋藤氏・羽根尾氏・海野氏らによる鎌原城攻撃の際に、鎌原一族の西窪・今井・樋口を「鷹川の古城山」に派遣して前進守備をさせたという記述があるので、この時、廃城となっていた鷹川城を再興して活用したものと考えられる。

北側の今井城の方から遠望した鷹川城。こちらもものすごい断崖上にある。 鷹川城主郭の背後の様子を対岸の今井城から遠望してみた。。神社があるのが分かる。
南側の市道脇にある案内。実際にはこの場所よりも、20mほど進んでから左側に入り込んでいく。 城の平の内部。神社の真下まで車で行くことができる。
城内の神社。 先端の尾根から神社方向を振り返ってみた所。
神社脇から断崖を覗いたところ。足がすくみそうになる。 神社側から城内を振り返ってみた。「城の平」と言うだけあってかなり広い畑となっている。




今井城(嬬恋村今井)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』、土の城への衝動を参考にした。 

 今井城は、吾妻川を挟んで、鷹川城のすぐ北側の比高90mの台地にある。両者の位置は指呼の間ともいうべき距離で、今井城から鷹川城先端の神社がよく見えている。しかし、鷹川城にいた時は分からなかったが、今井城の側から見ると、鷹川城がものすごい断崖絶壁の上に構築されているということが改めてよく分かる。こちら側から見たら、とても攻める気にならないであろう。

 さて、今井城のある台地は、南側が吾妻側の断崖絶壁、北側には川が流れて区画がなされていて、東側は突き出した台地、西側は池があって天然の堀となっている、といったように、なかなか自然の防御に恵まれている場所である。

 しかし、肝心の遺構であるが、もはや分からなくなってしまっている。台地上には民家が建て込んでおり、遺構を見るためには庭先の奥に進入していかなければならない。それでも本当に遺構が残っているのかどうかはっきりしないので、立入は遠慮しておいた。だから、遺構が残っているのかどうかわからない。ラフ図は山崎一氏の図に基づいたものである。

 それでも、何段かの段差が認められる。これがかつての城塁のラインを示しているものだと思われるが、それにしても、本来の城郭ラインを把握するには難しい状況であるには違いない。







主郭部近くの民家脇にある土手と堀状の地形。 東側から城塁状の土手を見たところ。




大笹城(嬬恋村大笹)

 *鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』、土の城への衝動を参考にした。 

 大笹城は、吾妻川と馬洗井戸川都が合流する地点の先端の尾根部分にあった。『城郭体系』等にも全く記載されていない城郭であるが、土の城への衝動に紹介されていたので、それを参考にして訪れてみることにした。

 国道144号線を進んでいき、嬬恋村立西部小学校のところで北側の県道112号線に入っていく。馬洗井戸川に沿って北上すること800mほどで、西側の砂井地区に入っていく道がある。それを進んで台地に登って、後はひたすら東の台地縁部を目指す。

 途中に集落があるがそれを抜けていくと未舗装の道が続いている。その道を行けるだけ行くのがポイントである。先まで進んでいっても駐車できそうなスペースは何とかあるので、とにかく進んでいく。意外に広い台地である。

 そうして台地縁まで来たのだが、そこまで来て縁のラインに沿って柵が巡らされているのを見てびっくり。これでは畑から城のある尾根に出ることができない。けっこう高さもあるので、乗り越えることも困難である。それにしてもこれは何のための柵なのであろうか。普通、山からの獣除けのためにこのような柵を設置することはあるが、これは崖の脇の台地縁のラインに沿って建てられている。これでは獣除けにならないのではないかと思ってしまうのだが、これにどういう意味があるのだろうか。土の城への衝動の写真では柵は映っていなかったから、つい近年、設置されたものであるらしい。

 ともあれ、これでは外側に出ることができない。どこかに入口があるのではないかと思って探してみる。台地の東端辺りには作業小屋のようなものがあるのが柵の先に見えている。この辺りから入口があるのではないかと思ったのだが、見つからない。そこで、柵に沿って西側に移動していったら、そこに入口があった。ざっと見た所、入口はこの一か所だけのようである。

 そこから縁部に進入し、東側の尾根を目指した。尾根は下りになっていく。細尾根で、両側は断崖になっているので、ちょっと注意が必要である。その尾根を降っていくうちに、やがて行き止ってしまい、その先にあるのは岩だけのように見えた。「どうも尾根を間違ってしまったらしい」と思って、引き返し、他の方向の尾根を探してみたのだが、どうにも見つからない。仕方がないのであきらめて帰路に着くことにした。帰りに対岸の県道から城址方向を見てみると、遠目にも堀切や平場が見えている!

 どうやら、行き止まりだと思ったその先に城址が存在していたらしい。残念なことに直前で引き返してしまったようなのである。金毘羅山砦でおかしてしまった失敗をここでも繰り返してしまうことになるとは・・・・。しかし、遠目にも堀切と平場が見えているので、それを地形図に載せて、ラフ図を描いてみることにした。もっと正確な図については、土の城への衝動をご覧ください。あのような細尾根の先に城郭があるとはまったく意外な地形である。

 大笹城の歴史等は未詳である。しかし、川と道の合流点にあるという位置取りから、交通の要衝を抑えるための施設であったと思われる。近くには大笹関所跡があり、あるいはこの付属施設であったかもしれない。

大笹城の入口辺りなのだが、台地縁全体に柵が設置してあって、なかなか向こう側には行けない。 対岸の道路から城址を遠望した所。二重の堀切が見えている。
主郭部と思われる部分。意外にもかなりの広さがあるようだ。











































大竹屋旅館