群馬県富岡市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東林書院) 『境目の山城と館』(宮坂武男)

浅香入城(富岡市南五箇字大口)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 浅香入城は、額部神社の南西800mほどの、比高80mほどの山稜に築かれていた。

 城の本来の登城道は、南西側もしくは東南側にあったのでないかと思われ、このいずれかからアクセスするのが手っ取り早いように思われるのだが、この日、いくつも山城を登って疲れていたので、側面部からの直登は避け、北側の額部神社からのルートで登城することにした。

 額部神社の北側の下には公民館があり、車はそこに停めておくことが可能である。車を置いて神社の石段を登っていく。するとすぐに社殿が目に入ってくる。

 ここから山稜に沿って山道を歩いていけば、やがて浅香入城に到達するはずである。神社から浅香入城までの距離は、直線で600mほどと、けっこうあるのだが、その代わり、急斜面を直登する必要はない。傾斜が緩やかな部分が多く、ハイキング気分で軽く登れる道である。城内までの所要時間はおよそ20分くらいであった。

 分かりやすい道とはいえ、途中、一部笹ヤブとなっている個所もある。そこを通り過ぎる時だけ、ちょっと注意が必要である。

 そうして尾根を進んでいくと、最初のピーク部への斜面が見えてくる。とはいえ傾斜が緩い斜面なので、城はまだ先であろう。この斜面を登って行ったところが6の部分である。そこにはかなり広い平場が形成されている。というか自然地形のまま広がっている。

 6には小規模な段差が見られ、またその先の5には細長い溝が2本、東西に入れられており、5の南側にも段差が見られる。明らかに人工の手が入っていることが分かるが、いずれも城郭遺構とは認められない。周辺には杉が植林されており、植林に伴う地形の改変と見るのがよさそうなものである。

 その先の尾根をさらに進んでいくと、またもやピーク部が見えてくる。こちらが正真正銘、城址のあるピーク部3である。その斜面の手前4には、両側面部を土橋を残して削り取った遺構が見られる。ここからが城域内であることを示すものだ。ただし、かなり埋まって浅くなってしまっているので、注意していないと見落としてしまうであろう。

 これを過ぎると、城のある斜面に到達する。ただし、切岸による加工は下方の1m分くらいだけで、後は自然地形の斜面のままとなっている。

 この斜面を登って行ったところが3郭ということになるが、周囲は切岸加工されていないだけでなく、西側は傾斜地形となっており、ほとんど自然地形のままである。郭と呼んでいいのかどうか迷うところである。

 3郭を進んでいくと堀切が見えてきた。浅香入城で唯一明瞭に見られる遺構であり、ここから先が狭義の城内といっていい。

 1郭と2郭との間には微妙な段差があるため、2つの郭というように表示してみたが、段差は1mもないもので、実際には1と2で1つの郭と見た方がよいかもしれない。つまり狭義の城域部分というのは単郭構造の山城ということになる。2郭はやや幅広だが、1郭は細尾根地形である。しかし、いずれも側面部は切岸加工されたような急傾斜となっている。

 1郭の南端部から下にはわずかながら岩盤地帯があり、南方の守りに資していたようである。

 浅香入城は、人工構造物の少ない素朴な山である。自然地形のままのの部分が多く、規模も大きくない。戦国期の城にしては、物足りない印象を受ける城である。

6の部分南側にある段差。しかし、城郭遺構でない可能性が高い。杉の植林に伴うものか。 4の入口にある堀切。かなり埋まって痕跡的になっている。
3郭北側の城塁。ほぼ自然地形だが、下の方だけ切岸加工している。 2郭との間の堀切。こちらもかなり埋まってしまっているようで深さも鋭さも欠けている。
1郭と2郭とはわずかな段差によって区画されている。その段差を映した写真であるが、よく分からないほどである。 1郭内部。南側の下は岩盤地帯となっている。
 浅香入城の城主は、浅香弾正であったと伝えられる。浅香氏は小幡氏に属した武将であったという。




大島下城(小間屋敷・富岡市上高瀬大島字屋敷)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 大島下城は、鏑川と野上川とに挟まれた河岸段丘上、大島公会堂の北側一帯にあった。

 大島下城は西平城(大島上城)の居館部に当たるものであると伝承されている。しかし、こちらも、両側をそれぞれ河川に削られた断崖地形となっており、かなりの要害地形である。

 城の中心部となっている場所は民家の敷地内となっている。また、先端部方向に続く道は細く、車での通行が難しい。橋を渡ってすぐのところには空き地(埋立地らしい)があるので、そこに車を停めて歩いて回るのがよいであろう。

 1のお宅の西側には、かなり深い谷戸がある。ここから東側にかけてかつて堀が存在していたのではないかと想定される。途中からは民家の敷地内になって埋められてしまっているが、南側を掘り切ってさえしまえば、後は守りやすい地形である。

 1のお宅の西側から北側にかけては土塁が残っている。この土塁はかなり加工されており、内側に石積みが見られるが、これは後世のものであろう。また途中に石積みを伴った開口部があるが、これも後世に開けられたものであろうか。

 民家の北側は畑となっているが、西側が高く2段構造となっている。その間の道を進んでいくと、小間氏の墓所があり、その手前に堀の跡が見受けられる。

 現状、遺構と見られそうな部分は以上であり、全体構造をきちんと把握できるわけではないが、それなりの規模を有した城館であったと思われる。


 大島下城を「下城」と呼ぶのは、西平城の平素の居館であったと言われることによる。城主は小間氏であった。小間氏は、小幡氏に属した武将であったと伝えられる。









東側の野上川に臨む土手。天然の切岸である。 北側の小間氏墓との間にある堀切跡。
1郭の土塁。 1郭の土塁を内部から見たところ。内側に石垣が取り付けられている。また虎口も見える。




一の宮氏館(富岡市一の宮)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 社会教育会館のある比高30mほどの台地全体が一宮氏の館跡である。社会教育会館は地図にも掲載されているので、これを目印にして進んでいくとよい。

 社会教育会館にも隣の神社にも駐車場はあるので、とりあえず車を停めるには困らない。社会教育会館の和風建造物は、無料で内部見学ができると案内板にあり、これを見学するのもよいであろう。

 肝心の遺構のうち最も明瞭なものは、社会教育会館の東側、渡り廊下でつながったところの下にある。そこに深さ3m、幅8mほどの規模の堀切が残っている。

 この堀切を奥に進んでいくと、右手の郭の上には土塁が残っているのが分かる。この土塁が残っている部分が主郭だったのではないだろうか。

 土塁に上がってみると、この土塁のさらに北側下には小規模な横堀が形成されているのが分かる(ただし、切った木がたくさん捨てられているので、その形状を把握しにくい)。そして横堀のさらに下には帯曲輪が形成されている。北側からの防備にかなり意を注いでいる構造である。

 1郭の東側は段差になっており、そこは何かの作業場になっているのでかなり改変されてしまっているようである。その東側にさらに一段下の郭があり、その先に古墳がある。金真塚と呼ばれている古墳である。

 この古墳の手前の部分、山崎氏や宮坂氏の図面ではいずれも堀切に描かれているのだが、現状ではどう見ても堀切であったとは思われない。もし窪みがあったとすれば、周溝墓の溝のようなものだったのではないだろうか。

 明瞭に遺構が分かる部分はこのくらいで、後は本来の地形は分かりにくくなっている。1郭北側の部分の厳重な構造からすると、おそらくかつてはもっとそれなりの遺構が存在していたのではないかと思われるのであるが、改変も進んでいるために、現状では何とも言えない。

 西側の神社との間の通路が切通し状になっており、これが城域の西限を示すものだったのではないかと思われる。


 隣接する貫前神社の神官は尾崎氏であり、この尾崎氏の居館であった。しかし、後に神官は一宮氏に代わり、館主も同様に交代したと考えられる。 

社会教育会館。内部は無料で見学できる。 1郭西側の堀切。上に渡り廊下が建てられている。
1郭北側の土塁。この右側に小規模な横堀があり、その下には帯曲輪がある。 東側先端部にある古墳。その手前はとても堀切だとは思えない。




弥勒屋敷(富岡市一の宮)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 一宮氏館の台地続きの西側800m、畑の中に土塁が残っている所があるが、これが弥勒屋敷の中心部分である。

 弥勒屋敷の跡は宅地および一面の畑となっているのだが、耕地整理も行われているようで、明瞭な遺構は限定的になってしまっている。

 一番目立つのは、主郭の西側にあった思われる高さ3mほどの土塁である。現在もここは明瞭に残っており、この上には五輪塔が祭られていた。

 この辺りが主郭であったと思われ、堀跡らしきくぼみを一部に見ることができるが、畑の中ではすっかり消滅してしまっている。したがって、どこまで堀が続いていたのかはよく分からない。

 この部分から西側に進んだところにも窪んだ地形がみられる。こちらは明らかに堀跡と思われる形状であるが、これまたかなり埋められてしまったようで、浅くなってしまっている。しかし幅もけっこうあり、本来はかなり大きな堀だったのではないかと思われる。

 このように遺構の大部分は失われてしまっている弥勒屋敷であるが、現在見られる堀の規模からすると、それなりに規模の大きなな城館だったのではないかと思われる。単に「屋敷」というよりは、ちゃんとした城館であった可能性が高い。


 弥勒屋敷の館主等は明らかではない。かつてここに弥勒寺があったことから弥勒屋敷と呼ばれているだけであり、本来は別の名称で呼ばれていた屋敷であったと思われる。

北側の城塁。2段になっている。 土塁(右)と主郭(左)との間の堀切C。
西側に残る堀切Aもかなり浅くなってしまっている。 土塁の上には五輪塔が祭られている。




原の内出(丹波屋敷・富岡市原字内出)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 原の八幡宮の東側の比高10ほどの微高地が内出と呼ばれ、砦のあった所と考えられている。

 とはいえ、現在、明確な遺構を見ることはできない。内出の辺りは下の道路よりも高くなっており、何段かに削平された地形になっているが、どこが館の跡なのかはっきりしない。

 しかし、ここは横尾丹波守の屋敷跡と言われ、打出の東方には横尾家の墓所があったりするので、横尾氏の館があったことは間違いないのだと思われる。そこで、横尾丹波守の墓を探しに、この墓所に行ってみた。ところが、どの墓が丹波守の墓であるのか分からなかった。

 西側の八幡神社も、横尾氏の武運を願って建立されているものなのであろうか。


 横尾丹波守は武田氏に属して上田原合戦に臨んだが、敗走した後に当地に居館を築いたという。





内出南側の城塁。 横尾家の墓所。この中に横尾丹波守の墓があるらしいのだが、どれだかよく分からなかった。




蚊沼の内出(富岡市上蚊沼字内出)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 蚊沼の昌福寺の北側が内出と呼ばれ、砦があった所と考えられている。現在、明瞭な城郭遺構は認められないが、地形的には城館を置くのにふさわしい場所である。

 まず、打出の北側には、高さ20mほどの細長い山稜があり、これが天然の防御壁となっている。さらにその北側には池や水路があって、これが堀の機能を果たしていた。昌福寺のある場所や内出は、下方の道路よりも一段高い位置にあり、城館を置くのにふさわしい位置にある。

 といったこともあり、城館を置きたくなるような場所である。内出の北側の道路は堀の跡であったというので、中央部に堀が入れられているような具合であったらしい。

 『城郭体系』には「堀切跡が残る」とあるが、sれはこの部分のことであったろうか。その堀切もすでに消滅してしまったようで、現在では見られない。

 それにしても「蚊沼」というのは、あまりいい地名だとは言えないよなあ。蚊が棲んでいる沼では、ここに住んでいるだけで、ヤブ蚊の襲撃にあって、あちこち腫れあがってしまいそうな雰囲気である。どうしてそんな地名を付けてしまったものなのだろうか。もう少し健康的な地名の方が住んでいて心地よいと思う。


 蚊沼内出の館主等、歴史については未詳である。長野氏に属していた村殿の居館であった可能性が高いが、その姓名はよく分からない。







昌福寺のある場所も高くなっており、郭であったと思われる。




































大竹屋旅館