群馬県富岡市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東林書院) 『境目の山城と館』(宮坂武男)

高林(こうりん)城(黒岩城・御殿場・富岡市下黒岩字田中)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 黒岩小学校の北側600mほどの所にそびえる比高80ほどのピーク部周辺が高林城の跡である。

 高林城という字面を見ると「たかばやしじょう」と読みたくなるところだが、実際には意外にも「こうりんじょう」と読むらしい。何かしらの由来があるのであろうか。

 黒岩小学校の北側には黒岩公民館があり、車はそこに停めておくことができる。小学校に続く歩道橋を渡るとその正面奥に城山の頂上がかろうじて見えている。ここからの比高は80mほどである。

 渡った先は墓地になっているが、墓地の間を抜けて行くと、何やら看板のようなものが見えている。近づいてみると、それは小学生が立てた案内板で、スタート地点を示すものであった。いずれにせよ、小学生がこのような看板をつくってくれているというのは何とも微笑ましいことである。どうやら、城址付近には山道が付けられ、小学生のオリエンテーリングの場所になっているらしい。ちなみにこのルートは「イノシシコース」と呼ばれているようで、登り口は他にもいくつかあるようだ。

 山稜は南側の城址まで600mほど長く延びているので、距離はわりあいあるのだが、それほど急斜面ではない。ヤブもなく歩きやすく15分ほどで城址に到達する。

 途中に登山コースを示す案内があり、その先にピーク部が見えていて「あれが城址か」と思いたくなるのであるが、そのピーク部は右の鳥瞰図の北端あたりの箇所である。そこから少し降っていった先に、他の登山道との合流地点があって、そこから先が城域内となる。

 かつてはこの辺りに城の入口の案内もあったらしいが、現在では失われてしまっており、入り口がどこなのか、分かりにくい。

 登城道をそのまままっすぐ進んでいくと、道は切通し状になっていく。この切り通しが城域内に進入した目印となる。右手の上は2郭の城塁となっており、側面攻撃にさらされ、逃げ場がなくなる場所である。

 さらに進んでいくと、道は右手に回り込み、南側の堀切のところに出る。ここから北側に戻って1郭への道が付けられている。

 1郭への導入路は、やや技巧的である。側面下の帯曲輪に登っていくと、竪堀状の通路があり、これが登城道となっている。上がっていくと左側にテラス状の小郭があり、変形した馬出しの機能が付加された一角となっている。そこから側面部を登っていくと1郭になる。ただし、1郭の虎口には特に工夫は見られない。

 1郭は長軸30mほどの楕円形で、西側に低い土塁がある。また郭内部には祠が一基置かれている。ピーク部であるので、物見にはよい場所であるが、多数の兵を置けるほどの広さはない。

 1郭の下には犬走り状の通路が一周している。これが北側の2郭へと接続する。2郭は長軸60mほどあり、城内で最大の郭である。兵を駐屯させておくとすればこの郭であろう。そこそこの人数が籠ることのできる平場となっている。

 2郭の西側から北の先端部にかけては、高さ2mほどのしっかりとした土塁が盛られている。

 このうち、北側の土塁を越えるとその先には堀切があった。堀切の北側は斜面となり、その下の方には土塁を伴った小郭があって、さながら二重堀切のような形状を成している。そこからさらに降ったところが、城址手前の、登城道が合流する地点である。

 以上が城のメインとなる部分であるが、この他にも各方向の尾根に向けて堀切が掘られている。

 1郭西側下の小郭の西側にも堀切があり、その先が竪堀ではなく箱型の堀となっているのが目を引く。そこからも犬走りが付けられ、先の二重堀切の西方の尾根との間にある小さな堀切のところまで続いている。こう見ると、犬走りは二段構えとなっているということである。

 城の南側堀切の底は西側に降っていくちゃんとした道へと接続している。こちら側からの登城道もあったようである。ただし、登り口がどこなのかは確認していない。また、この通路から1郭城塁を見上げると、草の生えていない崖面となっており、往時のままのような切岸をみることができる。

 この城を見ていて、1つ気になる箇所がある。それは城の東側に展開するかなり広い平場である。こちらの平場は、基本的に自然地形になっているので、郭であるとは認識しがたいのだが、その周囲は切岸状の土手となっており、東側の先端部には腰曲輪のようなものもある。となると、この平場は、未加工ながらも城域内であった可能性もあるのではないだろうか。

 城域だとすると、かなり広すぎる観がある。しかし、ここが村人を避難させる空間だったとするなら、城にとって意味のある場所ということになるだろう。

 このように高林城は小さいながらも技巧的な個所も見られ、城郭としてのポイントを押さえた城郭である。詳しい由来は不明であるが、戦国期の城郭であったと見てよいだろう。

黒岩小学校への歩道橋。右手奥に城址が見えている。これを渡って墓地の中を進んでいくと登城道となる。 墓地の奥にある登城道スタートの案内。小学生が作成しているのが微笑ましい。
登城道をずっと進んでいくと、城塁下を回り込んで南側の堀切の所に出る。ここから1郭への導入路がある。 1郭への通路。竪堀状の通路を登って行くようになっている。両側の上にはテラス状の小郭がある。
1郭内部。祠が一基置かれていた。また、西側は土塁状に高くなっている。 2郭土塁北側の堀切。きれいな形状をしている。この右手の下方には土塁を伴った小郭がある。
祖の堀切から西側に延びた尾根との間にある小規模な堀切。 2郭から見た1郭城塁。2郭はけっこう広く、まとまった人数を籠めておくことができる。
1郭南側下城塁は往時のままの崖面となっていて、とても登れない。 1郭下西側の堀切。この先に箱堀状の遺構がある。
 高林城は、鎌倉時代に上野権守小野朝臣の居城であったと伝えられる。しかし、現在見られる城の形状は戦国期のものであり、鎌倉時代の居城と見るには無理がある。

 戦国期の伝承などが残っていないことから、戦時に際して築かれた城郭であった可能性が高いと思われる。




星田城(富岡市星田上星田字城)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 高田川と鏑側とが合流する地点の、鏑川に臨む比高20mほどの断崖上に星田城が築かれていた。航空写真を見ると城塁の方形の区画がはっきり認識できる。

 そんなわけで場所は分かりやすいのだが、車を停める場所がない。どこか路肩の広いところにでも寄せて、ちょっと停めさせていただくしかないので苦労する。

 星田城の本来の構造がどのようであったのか分からないのであるが、現状からすると、方60mほどの単郭の城館であったと思われる。山崎一氏の図を見ると、外郭らしきラインも見られる。しかし、本当に外郭部があったものかどうか、現状からでは理解しがたい。

 西側には高さ6mほどの土手があり、いかにも城郭らしい雰囲気を見せている。こちら側から見ると、なかなかの城郭であるように想像させてくれる。しかし、全体に、遺構の残存状況はそれほど良好であるとは言えない。

 現状でも城塁の名残はしっかりと認識できるのであるが、堀はまったく残っていない。城塁の高さもかなり低くなっている。土塁を崩して埋めてしまったものであろう。そういうこともあって、土塁は現状では北西部分にのみ、その姿を残している。

 城址の東側には墓地が造成されており、東側からこの墓地にアクセスする道が付けられていた。

 星田城は、形状こそはそれなりに理解できる城なのであるが、遺構の大部分が崩されてしまっているようで、鋭さには欠けている。だからなんだか物足りないような城址である、と感じてしまう。




鏑川の断崖越しに見た星田城。 星田城西側の城塁。こちら側から見ると、なかなか見ごたえがある。
北東側の城塁。堀は埋められてしまっており、城塁の高さはかなり低くなってしまっている。 城内から北西側の土塁を見たところ。上端幅がけっこうある。また、側面部に石積みがあるが、これは後世のものであろうか。
 星田城の歴史についてはまったく分からない。しかし、残存する土塁や城塁などから、しっかりと造成された城郭であったことは想像に難くない。城主の伝承が存在しないことからすると、戦国期、何らかの戦時の際に取り立てられた陣城のようなものであった可能性が高い。




高瀬陣屋(富岡市下高瀬)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 高瀬陣屋は上信越自動車道富岡インターの北西400mほどの所にあった。光厳寺の北側の平野部である。遺構は残っていないが200m×100mの長方形の区画が陣屋跡を示している。

 陣屋は平野部に存在していたが、その背後には山稜が控えている。そしてその山稜の間に光厳寺が建立されている。この寺院は、陣屋の背後にあることからして、何らかの関係があったものではなかろうか。寺院のある位置は谷戸式城館を営むのに最適な場所で、防御力もけっこうある。あるいはここに城館が置かれた時代もあったのではなかろうか。

 陣屋の遺構そのものは残されていないが、古い図面によれば、御殿、牢屋、馬屋、作事小屋などが右の図のように配置されていたという。

 北側には街道が通っており、この道を抑えるという機能も有していた。また街道沿いの東側には、家士の屋敷も置かれていたという。



 高瀬陣屋は越後新発田藩の溝口氏の分家が築いた陣屋であった。分家の溝口伊豆守善勝は、所領7千石のうちの2千石を当地に領しており、現地支配のために置かれた陣屋が高瀬陣屋であった。

 陣屋が営まれたのは慶長年間のことであり、100年ほど後に、藩主が陣屋を引き払って江戸に移り、それによって陣屋も廃止されたという。





東側から陣屋跡を見たところ。特に遺構は残されていない。




田篠の内出(富岡市田篠字下田篠)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 鏑川と雄川とが合流するデルタ地帯の北端辺りを内出といい、ここに砦があったのではないかと考えられている。2つの河川に囲まれた区画であるので、防御性が高いことはもちろん、鏑川の水運を掌握することもできる位置にある。位置取りからすれば、城館があったとしても不思議はない場所である。

 しかし、現状では明瞭な遺構を見出すことはできない。寺院のある場所は一段高くなっており、北側の墓地も含めて、まとまった区画となっている。この寺院のある場所が、かつて砦が存在していた場所なのかとひとまず想像することはできるが、確証は持てない。古い航空写真を見ても、それらしい形状を見つけることはできなかった。



 田篠内出の館主等、歴史については未詳である。おそらく戦国期に長野氏に属した村殿の居館であったと思われるが、その氏名などについては分からない。城郭本来の形状についても、分からないとしか言いようがない。












田篠内出北側の段差。一段高いところが砦跡であろうか。




富岡城(富岡市上高尾字城山)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 県道10号線のバイパスが大きく山稜を切り通している部分の東側の比高40mほどの台地先端部が富岡城の跡である。鉄塔が立っているのですぐに場所は分かる。

 富岡氏の居城で、富岡市にある富岡城というくらいだから、よほどしっかりとした城郭なのではないかと想像したくなるところであるが、実際はなんだかよく分からない山城である。それでも「城山」という地名も残っており、城であったことは間違いないはずである。

 城のある山は、かつては西側と細尾根で接続していたと思われるが、現在、県道10号線のバイパスがここを貫通しているために、完全に西側からは分断され、独立した山容のように見えている。

 城の主郭と思われる部分には鉄塔が建てられているので、これが目印になる。鉄塔があるため、そこまで車道も付けられているが、これを車で登っていくと、上で車をターンさせる場所がない。素直に車を下の空き地に停めて歩いて登る方が吉である。

 登っていく途中、北側に2段の腰曲輪状のものが見える。これが唯一の明瞭な遺構と思われるものであるのだが、他の部分が未加工のままであることからして、ここだけに城郭遺構が見られるのはバランスを欠いているようにも思われる。確かに腰曲輪に見える部分ではあるが、鉄塔工事の際に付けられたものという可能性も検討すべきである。

 山の上も、面積はけっこうあるが、全体に自然地形のままで、削平も不十分であ。切岸加工もされていない。本当にここが城址なのか、疑問に感じるほどである。

 山崎一氏の図を見ると、堀切跡らしき印が3か所に付けられているのだが、他は未加工に描かれている。山崎氏が描いた時点ですでに堀切が失われてしまっていたとすると、堀切はそうとう古い時代に埋められてしまったものなのだろうか。

 少しでも堀切の痕跡が見えないかと思ったのだが、堀切のありそうな部分は笹藪がひどすぎてさっぱり分からなかった。また、一番西側の堀切跡の部分は、県道バイパスの切通しによって完全に湮滅してしまっている。

 富岡城のある城山はその名称とはうらはらに、ほとんどが未加工の地山であった。山城であったとしても、相当古い時代に、一時的にしか使用されなかった城郭であったように思われる。遺構的にはあまり見るべきものがない城郭である。


南側から遠望した富岡城。比高30mほどの山稜である。 西側の尾根続きの部分は切り通しの道路となって削り取られている。
1郭内部。傾斜した地形である。 1郭先端下にある腰曲輪。
 永享の乱後、関東公方持氏の遺児たちは、結城城に籠城して幕府方と敵対したが、激戦の末、結城城は落城した。城から脱出した結城氏の一部は上野に落ち延び、富岡に在住して富岡氏を名乗るようになった。

 その富岡氏の居城がここであったのではないかと言われているが、詳しいことはよく分からない。

 というより、結城合戦で落ち延びた富岡氏が居城としたのは小泉城であるというのが通説である。小泉城の富岡氏との関係はどうなっているのだろうか。

 1つ想像してみるなら、富岡まで落ち延びてきた結城氏は富岡氏を名乗り、一時的にこの城に滞在していたが、その後大泉に移り、小泉城の城主となった、といったところであろうか。だとしたら富岡城は仮の寓居であり、ほとんど城郭加工を施さない城館であった可能性が高いということになる。ちゃんと史料を当たれば、もう少し正確なことが分かるかもしれない。




十王山烽火台(富岡市上高尾)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 富岡城の西側、県道10号線の切り通しの西側の台地の東南先端部辺りが十王山烽火台の跡である。

 十王山烽火台は、現在は県道10号線のバイパス工事のために富岡城とは分断されているが、本来は富岡城とは尾根続きであり、富岡城の出丸であった部分ではないかとも思われる。

 城址は現在「城山公園」となっている。しかし、この「城山」地名は、もともと十王山烽火台にちなむものではなく、もはや分断されてしまった東側の富岡城にちなむものであったろう。したがって、ここを城山公園と呼ぶのは、正確には誤っているというべきであろう。

 地図を見てみると、城山公園には西側から登っていけそうな車道が付けられている。ということで、当初、ここを車で登って行こうと思ったのだが、実際に進入しようとしてみると、ここは小型車でも厳しい道で、車で進むのはかなり難しい。そんなわけで来るまでの通行はあきらめた。城山公園山麓にはかなり広い駐車場があるので、素直に車を駐車場に停めて歩いて登るのが無難である。

 山頂まで遊歩道が付けられているため、それを登っていけばよいから、たいした手間ではない。斜面はそれほど急峻ではなく、そこに桜の木がたくさん植えられている。駐車場の広さからすると、花見の頃にはお客さんがたくさん来るのであろう。

 桜の木以外、草はよく刈られていてヤブがなく見通しがよい。ところが意外なことに斜面の途中には「マムシ注意」の看板があった。マムシなど、日本のどこの山にでもいる可能性があるので珍しくもなんともないのだが、こんな草むらのない斜面では、マムシといえども不安を感じて出てこないのではないだろうか。

 登ってみるとベンチが置いてあったが、なるほど眺望が非常に利いている。確かにここで烽火を上げれば、かなり遠くからでも見ることができるであろう。しかし、山上には道路と民家があるだけで、あまり公園という感じはしない。どこが公園本体なのかもよく分からない公園である。

 山上の東南端に古墳らしきものがあり、これを烽火台として利用していたものと思われる。城郭遺構らしきものといえばこれだけである。「城山公園」という名称に惹かれて訪れると、空振りしてしまう城館である。

 山稜から北側の下には削平地が数段広がっている。これらを郭とすれば、けっこうな面積を有する城郭ということになるのであるが、これらは城郭遺構ではなく、後世の畑作に伴うものであろう。ようするに、本当に古墳利用の烽火台だけの施設であったようである。

 となると、富岡城の付属施設というよりは、純粋に烽火台として設置された場所であったという解釈がよさそうである。

城山公園。桜の木がたくさん植えられている。ヤブがなく気持ち以外井遊歩道だ。 山上から遠望する富岡市街。なるほど、眺望もよく、烽火を挙げるにはよい場所である。
東南角にある、古墳を利用した狼煙台。
 十王山烽火台は、小幡氏の烽火台であったと言われている。




金毘羅山砦(物見山・富岡市下黒岩字新田)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 富岡機械金属工業団地の北側にそびえる比高70mほどの金毘羅山が金毘羅山砦の跡である。

 この山は本来は物見山と呼ばれていたようであるが、後に金毘羅神社が勧請されることとなり、それ以後、金毘羅山と呼ばれるようになったのだという。

 この金毘羅社への参道は南側山麓に付けられているようだが、現在城址のすぐ東側を市道が通っており、そこからアクセスするのが手っ取り早い。カーブのところには車を停めておけるスペースもある。

 ここから山頂までの比高は30mほどなので、登ればすぐである。山道に入り込んでみると、右手に平場があり、やや虎口状の構造となっている。しかし、山頂からはかなり距離があるので、これが遺構であるのかどうかはよく分からない。

 さらに山道を登っていくと、南側から登ってくる参道と合流した。合流した先が切通し状になってカーブしているが、これを遺構と見るべきなのだろうか、悩ましいところである。

 それを登るとやや傾斜した平場となり、その先に金毘羅神社の祭られた土壇が見えてきた。ここが砦の中心部分である。

 神社の祭られている土壇は、櫓台や烽火台とするには小さなものである。これはもともとの城郭遺構というよりは、金毘羅神社の勧請に伴って造成されたものと見るべきものである。

 神社の背後には平場が広がっているが、ここが主郭と目される場所である。周囲には腰曲輪状の地形も見られるが、切岸の高さはあまりなく、それほど堅固ではない。急造された砦といったものであろうか。

 金毘羅山砦は、砦というよりも神社そのものといった方がぴったりくる。現状では「城」というほどの鋭さを感じることはできない。しかし、かつて物見山といっていたくらいであるから、物見のための砦があったことは間違いないのであろう。ただし、現在見られる遺構は、神社の勧請に伴って造成された部分もある程度含まれていると思われるので注意が必要である。



東南側から遠望する金毘羅神社のある物見山。確かに目立つ山である。 山頂にある金毘羅神社。
東側下の腰曲輪から、金毘羅社のある土壇方向を見たところ。
 城主等、歴史については不明である。物見山の地名から、かつて物見のための砦が置かれたところであったと想像できるだけである。




黒川城(富岡市黒川字雨の宮)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 もみじ平総合公園の南600m、不動尊の上の比高20mほどの台地先端部が黒川城の跡である。

 城の南側のすぐ下には不動尊があり、そこから城址方向に道が付けられている。道は、南端部下あたりにもあり、どちらを通ってもすぐに城内に登ることができる。

 図面によっては、これらの登城道を横堀のように表現しているものもあるが、これらはあくまでも道であって、横堀ではなかったと思う。もっとも、図面にすれば横堀らしくなってしまうのはその構造上、致し方のないところではあるが。

 城内は単郭であるが、しっかりと削平されている。城内に入っていくと、西側に御嶽社のある土塁があるのが目を引く。ただし、土塁の外側には堀が残されておらず、一見して城址のような雰囲気を醸し出すに至ってはいない。

 しかし、『城郭体系』を見ると、「近年破壊された」とあるので、本来あった堀切は後の耕作化か何かで失われてしまっていると見るべきなのであろう。『城郭体系』が「近年」というのだから、破壊されたのは昭和50年代初期のことであったと思われる。

 御嶽社のある土塁には登り道がなかったが、よじ登ってみるとそこに御嶽社の石碑が建てられていた。その手前にはいい感じの表情のお地蔵さんも鎮座している。御嶽社と関係のあるお地蔵さんなのであろうか。

 これだけの単郭の城である。単郭で小規模であるが、古い時代のものであれば、この程度のものを居城とするということもあったのであろう。




御岳社のある土塁の背後。やや窪んでいるようにもみえ、堀切が存在していた可能性がある。 土塁上の御岳社。優しそうなお地蔵さんが鎮座している。
 黒川城は、平安時代末期に渋谷次郎高重の居城であったというから、実に古い時代の城館である。ただし、平安末期の城館が、このような形状で、このような地取りにあったのかどうかということについては、疑問もある。渋谷氏についても詳しいことは不明である。




平賀城(富岡市中沢字平賀)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 平賀城は上信越自動車道によって真っ二つに分断されており、googlemapの地図を見ると、吉田城跡(廃城)と示されている。吉田城という別称は、参考した資料には掲載されていないが、何にちなんだ名称なのであろう。

 現在、明確な遺構はないが、航空写真ではその形状がはっきりと認識できる。

 もともと平地の微高地であった城館のせいか、耕地整理や宅地化で遺構のほとんどは失われてしまっている。また、主郭部は上記の通り、上信越自動車道によってほとんど破壊されている。だが、航空写真を見れば、全体の形状は把握できる。

 平城のため、高い切岸などはなかったようである。平坦ながら、周辺に幅のある水堀を配置することによって要害性を高めていたのであろう。

 現在の道路は堀の跡であると思われ、東西に4つほどの郭が配置されていたのではないかと想定できる。


 平賀城の城主は、平賀入道真斎であったと伝わる。平賀氏は元は佐久平賀城の平賀氏の一族であったとのことだが、どういう契機からか当地にやってきて、箕輪衆に属していたという。

 長野氏滅亡後、当地域は武田方に降った小幡氏の支配下に収まることになるが、その際に平賀氏がどういう動向を示していたのかは不明である。










2郭北側の城塁。手前の水田は堀の跡である。 4郭南側の城塁。




原城(富岡市南蛇井字火打原・堀添)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 原城は、鏑川に臨む比高20mほどの河岸段丘上に築かれていた。

 原城というと、どこにでもありそうな城の名称であるが、ここの地名は南蛇井(なんじゃい)である。どうして城の名称が南蛇井城ではなく原城になっているのであろうか。城主も南蛇井氏であったというから、ここは「なんじゃい城」と呼ぶ方がふさわしいのではないかと思う。「南蛇井」はとても珍しい地名であり、そちらの名称の方が日本で唯一無二の貴重な城名になるのではないだろうか。

 城のあった場所は河岸段丘上であり、城を営むにはふさわしい場所であるが、現状では遺構は認められない、微妙な段差がいくつか見られるには見られるのだが、城館としての形状をトレースできるほどではない。山崎氏の図を見ても、形状は描かれていないくらいだから、よほど古い時代に破壊されてしまったものだろう。あるいはもともとたいして遺構などを伴わない屋敷だったのかもしれない。

 「南蛇井氏の居館は、火打原、堀添という地名のところにあった」というので、まさに右のラフ図の中である。堀添というのは堀の脇を示す地名であろうが、火打原というのはどういう意味なのだろう。炊事場でもあったということなのであろうか。


 南蛇井氏は、永禄4年の武田氏の侵攻に際して武田氏に降り、起請文を提出している。その際に武田氏の家臣となったのである。しかし、その後の動向については明らかではない。











城内に見られる段差。
























大竹屋旅館