群馬県富岡市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東林書院) 『境目の山城と館』(宮坂武男)

高田城(富岡市妙義町下高田本村字城ノ腰)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 富岡ゴルフクラブの駐車場の東側にそびえる比高40mほどの山稜全域が高田城の跡である。

 高田城も高田上の城も、富岡ゴルフクラブの駐車場のすぐ脇にそびえているので、この駐車場を目印にするのが分かりやすい。その間にも山稜があるが、そこは未加工の地山であった。

 北側の山麓に駐車場にアクセスするための取り付け道路があるので、これを探すのが城址探訪のための第1歩となるが、これがなかなか分かりにくい。途中の路地も細く、車も停めておけない。車はどこか離れた所の路肩にでも止めて歩いていくしかない。

 駐車場への取り付け道路は舗装されたちゃんとした道なのであるが、近年では車で通る人もいないようで、途中には竹が倒れて通行不能になっている個所がいくつかあった。この道路を通れれば、途中の「天神」にも駐車スペースがあるのだが、ここに行く手前がどうしようもないほど倒竹だらけになってしまっているので車では到達できない。

 「天神」の手前に北側の城址先端部に入り込む道への分岐点がある。この入口も倒竹だらけになっているので、入口はまったく見えない。しかし、無理やり入り込んでみると、そこは舗装された車道となっていた。

 そこを進んでいくと右手に鋭い城塁が見えている。さらに切通しの堀切状部分に出た。この右手には6郭に進入するための切通し通路があるのだが、こちらも入口がヤブとなっていてなんだかよく分からない。この通路の通過はまず無理なので、切通しの側面部をよじ登っていくしかない。ところで、この堀切状の部分であるが、車道の開削のためのものであり、本来の堀切ではないと思われる。

 上がったところが7郭である。これを進むと東側に堀切の名残のような地形がみられた。台地上は長い間耕作地として使用されていた時代があったようで、堀切も大半が埋められてしまっている。この堀切の痕跡は、上記の切通し道路から10mほどしか離れておらず、これが本来の堀切であるなら、先の切通しとは距離が接近しすぎている。やはり切通しの車道は堀切を利用したものではないということになる。

 その先は6郭で竹ヤブとなっているが、平坦でまとまった広さのある郭である。北側には帯曲輪もある。これを進んでいくと、またもや堀切の名残かと思われる地形のところに出た。残存する部分から見ると、幅8m、深さ6mほどはありそうな大規模な堀切だったようであるが、これも端部以外は埋められてしまっている。

 ここから主郭方向に向けて段々の郭が連続しているのであるが、ヤブがひどくて通過は困難である。私もここの部分を通過するのはあきらめた。主郭の遺構を見るためにはいったん降りて、駐車場への取り付け道路を進んでいって、駐車場の脇からアクセスした方が確実である。

 富岡ゴルフクラブの駐車場の柵に沿って東側に進んでいくと、主郭のある部分が正面に見えてくる。ここから主郭までの比高差はわずか10mほど。この土手を登っていけばあっという間に主郭に到達する。

 主郭は予想外に広く、長軸100m近くもある。周囲には土塁も盛られており、かなりしっかりとした造りである。北東側の下には腰曲輪が造成されているが、そこまでは高さ10mほどの切岸となっており、一見して堅固な様子がうかがえる。土木量も多い。

 1郭の南側に笹曲輪があったという話なのだが、こちらはヤブがひどくて確認しづらい。それでも何とか接近してみたのだが、それらしものを発見することができなかった。というより、1郭のすぐ下がゴルフクラブになってしまっているように思われる。すでにゴルフ場の敷地となって破壊されてしまったものだろうか。

 高田城は、旧妙義町域では最大の城郭であり、主郭等の遺構の規模、鋭さなどから、その築城に際してはかなりの工事量が必要であったはずであり、城主であった高田氏の勢力の強大さを伺うことのできる城郭である。

 これだけの城であるのに、案内板1つもないどころか、全体にヤブに埋まってしまっているのが、何とも残念である。

山麓の集落内部から見た高田城。と思ったのだが、左側の山は間にある「城の腰」であった。平坦に見えるのは、その上にゴルフ場への取り付け道路があるからである。右手奥の山は高田上の城。 その取り付け道路。きちんと舗装されているのだが、途中竹が倒れている所が何ヵ所も放置されており、実際には車で通れない。
1郭内部。南側虎口脇のしっかりとした土塁。 西側の土塁。
2の腰曲輪から1郭城塁を見たところ。高さは8mほどもある。 1郭南側の腰曲輪。
山麓にある7郭の城塁。 7郭との間には切り通しの道路があり、一見堀切に見えるのだが、これは後世の改変のようである。
7郭と6郭との間の堀切跡。途中から埋められてしまっている。 6郭北側側面部には腰曲輪がある。
5郭との間の堀切。かなり大規模だが、これも途中から埋められてしまっている。 6郭内部に進入する切り通しの虎口。
 高田城の城主高田氏の祖先は、源頼光であり、その子孫が甘楽郡菅野荘高田郷に住むようになって高田氏を名乗ったのに始まるという。

 すでに『吾妻鑑』には、高田氏と菅野氏が所領を争い、高田氏が敗訴したという記事が見えており、鎌倉時代からこの地を所領としていたことが確認できる。

 室町時代に入ると、高田氏は関東管領上杉氏に所属し、各地に転戦している。武田晴信が佐久志賀城を攻撃した際には、援軍として城内に入り、落城と共に討ち死にしたという記録がある。

 武田氏の上州侵攻が始まると、高田氏も高田城に拠って抵抗していたが、永禄4年には武田氏に降伏して、以後は武田配下に収まることとなる。

 天正10年、武田氏が滅亡すると、高田氏は上州に進出してきた北条氏に属する。しかし、その北条氏も天正18年の小田原の役によって滅亡してしまう。

 その後の高田氏は、徳川氏に属し、旗本となって300石を領したという。




高田上の城(西城・富岡市妙義町下高田本村西城)高田氏館(字堀ノ内)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 富岡ゴルフクラブの駐車場西側にそびえる比高40mほどの山稜が高田上の城の跡である。上の城といっているが、高田城との比高差はそれほどない。上の城というより、高田城の西側にあるので西城と呼ぶ方が位置的にはふさわしい。

 高田上の城の主郭は富岡ゴルフクラブの駐車場から比高20mほどのところにあるのだが、ゴルフクラブ側からだと、途中に柵があって入り込めないようになっている。そのため、城内にアクセスするには、ゴルフクラブ駐車場入り口あたりから、柵に沿って外側を歩いて行って山に取りつくというのが分かりやすい。

 また、南側の山麓には高太神社があるので、ここからアクセスすることも可能である。たいした高さの山ではないので、神社からでもすぐに登ることができると思う。

 城は山稜を削平して数段の平場を造成したものである。郭は何段かに構成され、そこそこの広さもあるため、それなりの人員を収容することは可能な城であるとはいえる。

 ただし、郭の側面部は切岸加工がしっかりとなされてはいない。削平をおこなっただけで、城塁の造成まで考えていなかったようである。そういう意味では、城全体の鋭さに欠けており、かなり古い時代の城郭であるような印象を受ける。

 南側と西側の尾根続きには堀切が一か所ずつあるが、これも深さは2m程度と小規模なものである。

 高田上の城は遅くとも戦国前期を降るような城郭ではなかったのではないかと思われる。高田城と同時期の城であったとはとても思われず、高田城の西の出城というよりは、高田城が築かれる以前の古い時代の、高田氏の詰めの城であったのではなかろうか。


 高田城同様、高田氏の城郭であったと考えられる。一般的には高田城の西の出城と言われているが、上記の通り、その構造上の特徴から、同時期に存在した出城ではなく、古城というべき城であったと思われる。




西側の堀切。 1郭内部。削平はされているが、切岸加工は不十分である。
2郭から見た1郭城塁。 3郭南側の堀切。小規模なものである。
高田氏館の跡。写真の民家のある辺りである。 高田氏館跡から遠望する高田城と高田上の城。

 高田氏館は、高田川の北側の平野部にあった。

 耕地整理のために、現在は遺構を見ることができないが、『境目の山城と館』には地籍図が掲載されており、それによれば、右の図のような城館であったらしい。長軸100mほどの規模である。

 ここから南側を遠望すると、高田城・高田上の城の両城を遠望することができる。


 高田氏館は、高田氏の初期の居館であったと言われている。後に高田氏は、後期高田氏館へと居所を移転していくことになる。












郷士谷津の砦(筑前屋敷・富岡市妙義町八木連字郷士谷津字城山)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 郷士谷津の砦は、郷士谷津の集落の東南にそびえる比高70mほどの山稜に築かれていた。郷士谷津というのは珍しい名称であるが、城址の北西山麓に同名の地名が残っている。城の家士(郷士)が居住していたところであったものだろうか。

 郷士谷津砦の奥には畑でもあったのであろうか。集落内部を通って、城址の先まで林道が通っている。したがって、城のすぐ側面部まで車で行くことも可能なのだが、運転に不安な人は、どこか山麓近くの路肩が広い辺りに駐車して歩いていくのが無難である。

 城はピーク部を中心に数段の郭を造成した単純な構造のものである。山頂の1郭は長軸20mほどの規模の郭となっている。しかし、もともと傾斜した地形であったものか、2段に削平されている。

 1郭の周囲1mほど下に2郭がある。2郭は削平はしっかりとしているが、1郭からの切岸が低いので、あまり防御性に富んでいる感じはしない。

 1郭の西側背後には帯曲輪状の郭が廻っている。そのさらに下に堀切があり、それが両側の斜面に落ちていく・・・・というと大規模な堀切によって城域が確保されているかのような印象を持ってしまうのであるyが、実際には堀切といっても、深さ1mほどのごく浅いものである。両側に竪堀となって落ちている部分も、竪堀というよりはただの通路といった印象の方が強い。

 竪堀が落ちている北側の下には長く帯曲輪が形成されている。一方南側は、尾根に沿ってさらに4段ほどの腰曲輪が造成されている。

 これだけの城である。遺構規模が小さいので、なんともやわな印象を受ける山城であるというべきだ。あまり造成に手をかける時間がなかったのか、そもそも築城主体の勢力が小さすぎて、たいした工事ができなかったものなのか、いずれにせよ、郷士谷津砦は小規模な遺構によってのみ構成されている城郭である。

 城の北東側の下は「堀切谷津」と呼ばれているようで、そのことからすると、城の東側には大堀切が存在していた可能性がある。ただし、現在はそのような堀切を見ることはできなくなってしまっている。畑への車道の造成に伴って埋められてしまった可能性がある。


北側から遠望する郷士谷津砦のある山。ここからの比高は60mほどである。 城の側面部を通る道路から下の腰曲輪群を見たところ。
4の腰曲輪。 1郭内部。2段構造となっている。
1郭背後の帯曲輪。 その下には堀切があり、両端は竪堀となって落ちているが、ごくごく小規模なものである。
 郷士谷津砦の城主は、高田氏に属していたと思われる稲葉筑前守であったと伝えられる。北方にある筑前上砦も、同じ人物の城郭であったと言われる。




筑前上の砦(富岡市妙義町上高田字山下)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 筑前上の砦は、県道48号線が大きく湾曲する部分の南側、比高70mほどの台地先端部にあった。

 台地の先端部であるので、城館を営むのにはふさわしい場所であるが、城址一帯は大規模畑地となっており、遺構はすでに失われてしまっているようである。

 ただし、県道との交差点辺りから南側に向かって一直線に延びている道が、両側の畑よりも一段低くなっており、なんとなく堀の跡のように思われる。ここに堀を掘れば、西側の先端部が独立した区画となるので、城館の構造上自然なものである。その場合、砦の規模は長軸80mほどとなる。ただし、この通路が本当に堀の跡であるのかは分からない。

 縁部には山林化している個所もあるので、その辺りに何か残されている可能性があるが、今回は確認していない。










西側の城塁と思われる箇所。 畑の中を通る東側の通路は堀の跡のように見える。
 高田氏に属した稲葉筑前守の居館であったという伝承が残されている。南側の郷士谷津砦も同人物の居城であったと言われ、下の平野地帯を南北の高所から見守っていたと思われる。




諸戸城(坊山・富岡市妙義町諸戸字坊山)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 諸戸城は吾妻神社の背後にそびえる比高60mほどの山稜に築かれていた。周囲が切り立った斜面に囲まれた険しい山稜である。

 城を訪問するにはとにかく吾妻神社を探すのがよい。この神社はナビの地図には載っていなかったのだが、山麓を通っていれば、鳥居が見えてくるので場所に迷うことはない。

 そこから神社まで車道が付いているので、車で進入することが可能である。ただし、駐車場は車1台分くらいのスペースしかない。

 社殿の脇に案内板が建っているのが遠目に見えてきたので、「意外にも案内板が設置されている城址なのか」と思ったのだが、実際の所それは城の案内板ではなく、社殿背後にある市指定文化財の大杉についてのものであった。富岡市内にはいいお城がたくさん残されているというのに、案内板が設置されているものはあまりないのが残念である。

 この背後の鋭い山稜の上が城址であるということはすぐに分かる。神社からの比高は50mほどであろうか。そこで登ろうとしたのであるが、登城道らしきものは見当たらない。案内もないので、どこから登っていけばよいのか迷ってしまうところである。結論から言うと、1郭の南西側が虎口であったと思われるので、大手の登城道は神社の西側の尾根を経由して1郭西側に向かうものであったと考えられる。したがって、神社から西側の尾根に取りつくのが正規ルートだったのではないだろうか。また、そうして登るのが一番登りやすいと思う。

 西側の尾根は最初は急斜面直登で厳しいが、尾根にさえ出れば、後はスムーズに歩ける道となっている。尾根沿いに進んでいくと、やがて1郭の南端部に出た。そこには堀切が掘られて分断されている。

 1郭内部に登るにはここから左手に回り込む。1郭の南西部に接続して、切通し状の部分がある。これが虎口の遺構であると思われる。西側からこの切通し部分が通って進入するのが、本来の大手ルートであったろう。

 この切通し虎口の西側にも堀切が掘られている。この堀切から西側にもやや加工された部分が見られるのだが、加工は部分的であり、明確に城内であるとは言いがたい。

 1郭に上がってみると、そこは長軸40mほどの細長い区画となっていた。基本的に郭と呼べるのはここだけで、単郭の城郭であったようである。北側には低い土塁が盛られ、ここにも虎口状になった部分が見られる。

 西側堀切から北西側の堀切のところまで犬走り状の通路が残されている。そうして城の北側の下まで来ると、そこに林道が付けられているのが分かる。この林道、軽トラなら登ってこられそうな道なのであるが、登り口がどこにあるのかは分からない。城を通り越してさらに北西側に延びているので、城に接続するためのものではなく、北西側の山稜で山仕事をするために付けられたもののようである。。

 しかし、この林道によって遺構がかなり破壊されてしまっている。『境目の山城と館』の図を見ると、1郭から北西部には土塁状に延びている区画があり、その両側側面を犬走り状の道が通っていることになっているが、現状では林道しかなく、先端部の堀切も脇に残欠が見られる程度である。

 城の東側はさらに破壊が進んでいる。1郭北東側は、直下の堀切のさらに先にも堀切があり、2段堀切のような形状をしていたようなのだが、外側の堀切は埋められて土盛りされ、その脇に板を置いて土止めにしている。

 そのさらに東側にも少なくとも2か所の堀切があったらしいのだが、これもかろうじて痕跡的が見られる程度になってしまっている。

 諸戸城は、それほど規模の大きな城郭ではないが、各方向を堀切でしっかりと分断していることと、虎口がきちんと形成されていることから、戦国期の山城であったと思われる。

南側から見た諸戸城。ここからの比高は60mほど。 山麓にある吾妻神社。背後には市指定文化財の大杉がある。
城に向かう尾根には林道が付けられており、遺構もかなり破壊されてしまっている。写真の部分も堀切を埋めて側面部に木を置いている。 1郭東側下の堀切。
1郭内部。 1郭南側の堀切。
1郭西側に隣接する虎口の跡と思われる箇所。 その虎口の西側には堀切がある。
1郭北側の堀切。 さらに北側の尾根に残る堀切の痕跡。
 諸戸城の城主等、歴史については未詳である。高田氏の支配領域にあることから、高田氏に所属した人物の城郭であったと見るのが一般的な解釈である。一方、小規模ながら、各所に堀切を入れ虎口もしっかりとしているといった構造から、戦国期、何かの戦乱の際に一時的に取り立てられた城郭であった可能性もある。




行沢城(富岡市妙義町行沢字上村)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 行沢城は、行沢の集落に臨む比高20mほどの山稜先端部にあった。

 城への登り口はこの辺りの民家の間にある。この民家も、下の道路からは一段高い位置にあり、山麓居館などを置くのにふさわしい場所である。地名も「屋敷前」である。行沢城の内部はそれほど広くないので、平素はこの山麓の居館部で生活していたのではないだろうか。

 この間の通路を通り抜けていくと、その上の平場に出ることができる。その上は山林となっているので、どこが城址なのか見当が付きにくいが、かなり右手の低地の部分がそれである。

 私は平場に出てすぐに山稜に取りついてしまったため、遺構のない山稜部分の上の方に行ってしまった。城は東南に延びた山稜のうち、かなり低地にあるので、斜面があるところに出くわしたら、とにかく右手に降っていけば城址に到達する。

 斜面を降っていくとすぐに堀切が目に入ってくる。深さ6m、幅8mほどの堀切である。この堀切のところから3郭に向かって、南北の城塁側面部に犬走り状の通路が付けられている。

 2郭は10m四方ほどの小規模な郭である。周囲には土塁が見られるが、実際の印象としては、土塁というよりも、中央部が擂鉢状に窪んでいるといった印象である。

 2郭の東側にも堀切がある。こちらの堀切は2郭西側の堀切に比べるとやや小ぶりなものである。この上が1郭で、側面部はしっかりと切岸加工されていた。1郭内部に上がってみると、西側にはしっかりとした土塁がある。内部は2段になっており、東西に長く20mほどあった。

 1郭の東側の下が3郭である。さらにその下に4郭があるが、4郭には水道施設のようなものが設置されている。

 というようなこともあり、4郭に直接登ってくる道があるようで、こちら側からアクセスした方が分かりやすいのかもしれない。こちら側の登り口は確認していないのであるが、地図を見ると道が描かれている。登り口はこの辺りのはずである。

 行沢城は小規模ながら、それなりにしっかりと造成された城郭である。高田氏の家臣の詰めの城であったものだろう。

 

東側から見た行沢城。ここからの比高は30mほど。 2郭西側の堀切。
2郭内部。やや擂鉢状に窪んだ郭である。 1郭との間の堀切。
1郭西側の土塁。 4郭には水道施設らしきものが建てられている。
 行沢城の城主は、高田小次郎の家臣であった田村山城守であったと言われている。城址の北東山麓には東光寺という寺院があるが、ここには田村氏関連と伝わる板碑や五輪塔などが残されている。田村氏の菩提寺であったのだろう。




堀ノ内館(富岡市妙義町諸戸字堀ノ内)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 妙義小学校の北側の比高10mほどの微高地が堀ノ内と呼ばれており、城館があった所ではないかと考えられている。

 随応寺、若宮八幡宮も含めて、一段高い場所にあるため、村殿の館を置くには適当な場所であると考えられるが、台地上が「堀ノ内」というのも不思議な話である。

 『城郭体系』では、妙義小学校のある位置に館があったとある。確かに古い時代の館は、そのような低地に置かれる場合が多かったと考えられる。小学校の南側には水路もあり、なんとなく、城館らしい雰囲気を残していたりする。


 堀ノ内の名称のみで、城館を推定しているだけであるので、館主などは未詳である。高田氏に属した人物の館であったろうか。






東側にある随応寺。 南側下の通路。この上が「堀ノ内」である。




石山屋敷(石山氏館・お堀の屋敷・富岡市妙義町諸戸字日影)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 諸戸川に臨む比高10mほどの台地が石山屋敷の跡である。

 しかし、現状では遺構はほとんどなくなっており、かつての形状もはっきりとは分からない。主郭部分は民家となっているので、内部探索もしていない。

 それでも台地縁部辺りにはわずかに堀跡の名残が見られるという。

 そこから西側に進んだ、公会堂の辺りが「乾門」という地名である。また、南に100mほど行った所には「南門」という地名が残っている。そうしたことからすると、もともとはかなり大きな屋敷であった可能性がある。


 石山屋敷というくらいであるから、館主は石山氏であったというべきだろう。石山氏の来歴について、詳しいことは未詳であるが、当地の村殿であった人物であろうか。










屋敷西側の畑。右手奥の先端部分に堀跡らしき痕跡が残る。




殿谷戸(とのかいど)の砦(富岡市妙義町岳字殿谷戸)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 県道191号線の南側、大中川に臨む比高8mほどの微高地が殿谷戸の砦跡である。ここにはかつて地蔵院という寺院があったというが、現在ではその寺院もなく、墓地だけが残されている。

 館跡と目される部分は、大中川に臨む微高地であり、周囲には高さ3mほどの土手がある。この土手に囲まれた部分が館跡だったのではなかったかと想像されるのだが、寺院跡でもあり、寺院に伴うものである可能性も考慮すべきである。

 殿谷戸というくらいなので、村殿の館があった所である見てよい。ただ、谷間でもないのに「谷戸」という地名になっているのが不思議である。この場合は、谷への入口を指しているのであろうか。


 殿谷戸砦の城主名は不明であるが、高田氏の領域内であったことからすると、高田氏の配下にいた人物であった可能性がある。










北側から見た地蔵院跡。 その北側の土手。こちらも城塁のように見えてしまう。上に標柱が立っているが、城とは関係のないものであった。




古立館(田村氏館・富岡市妙義町古立字上村)

*ラフ図の作成に際しては『境目の山城と館』を参考にした。

 古立館は、妙義カントリークラブの北端下、高田川に臨む比高15mほどの微高地にあった。

 館跡は、河川から見るとそこそこ高い位置にあり、高田川のみならず、2本の小川によって南北が分断されている。さらに屋敷上と屋敷前との間には切り通しの道路があり、これがかつての堀切の跡の名残を留めており、台地続きの部分をここで区画していたのではないかと思われる。

 屋敷前、屋敷下と言った地名が示す通り、台地の北側先端部辺りが田村氏の居館であったのではないかと考えられる。居館を置くにはまずまずの場所である。この北側の地点に湧水点があり、そこから流れ出る水が、高田川に流れ込んでいる。


 古立館は、戦国期に高田氏の家臣であったかと想像される田村氏の館の跡であった。行沢城の城主も田村氏であると言われ、そちらの田村氏と同族であったろう。







北側から古立の城塁を見たところ。 南側の堀跡と思われる部分。
































大竹屋旅館