群馬県館林市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人 

侍辺(しべ)館(館林市赤生田本町十二社)

 侍辺館は、県道362号線と304号線とが合流する地点の北東側にやや入り込んだところにあった。しかし、ざっと見たところ、それらしい遺構がありそうには見えない。本当に城址なのだろうかと疑問に感じてしまうほどである。

 地元の方に伺ったところ、「畑の奥のお宅をドテンチといって、城跡だという話だ」ということで、城館跡であるということは伝承されているらしい。「ドテンチ」は「土手の内」の転で、かつては土塁が巡らされていたのであろう。土塁はすでに取り払われているが、この土塁については、「自分は80代だが、全く記憶にない」ということであったから、破壊されてしまったのはそうとう古い時代の話なのだと思われる。

 そういうわけで、遺構は残っていないが、西側から東側にかけて、かつて堀としても利用されていた水路が残っている。なんでも「青堀」というそうで、大雨の際には、周辺の土地にたまった水を排水する機能があるという。なぜ「青」なのかよく分からないが、「あおほり」はあるいは「おおほり」の転であるのかもしれない。

 青堀の西側30mほどの所に、南北にやや窪んだ地形が見られ、堀の痕跡のようにも見えなくはないのだが、どうも右手の畑には土を入れて盛った風情があり、この窪んだ地形というのはその時に生じた物ではないかと言う気がする。そんなわけで、遺構というべきものは、この青堀くらいのものであろう。

 また、この周辺の字名は十二社(じゅうにそう)であり、侍辺(しべ)というのはかなり裏側の字名であるという。

 伝承では、藤原秀郷の叔父の「セイサツ」という者の居館であったという。となると、平安時代の居館である。そんな古い城では、遺構を残していないのも仕方のないところであるかもしれない。








青堀。現在も水路として使用されている。




青柳城(館林市青柳町堀ノ内)

 青柳城は、青柳町の龍積寺の北側の「堀ノ内」にあった。現在は数軒の民家の敷地内となっており、ざっと見たところ、遺構などなさそうに見える。それでも寺院の北側を流れる水路はかなり立派で、深さも幅もあり、ただの水路ではないと思わせるものである。

 この水路を城の南側のラインと一致するものとすると、この北側に方100mほどの城館があったと推定される。しかし、水路以外の部分は宅地化が進んでおり、堀も土塁もことごとく破壊されてしまったのであろう。しかし、「堀ノ内」地名を残すことからも、かつて堀によって囲まれた区画が存在していたことは間違いない。

 青柳城は、舞木氏家臣の赤井氏の居館であったという。赤井氏は舞木氏に代わって頭角を現し、のちに大袋城、館林城を築いて、当地の有力豪族となりあがっていく一族である。



















寺院北側を流れる水路。けっこう深さもあり、これがかつての堀のラインの一角を成していたと思われる。




白旗城(館林市羽附旭町白旗山)

 白旗城は、城沼から流れてくる川が東北自動車道の下をくぐる辺りの微高地上にあった。

 この台地部分はかつて、岩松氏が陣を置いた場所と言われている。白旗山というのは、それによって後日付けられた名称なのであろう。また、近くには「馬場」「首洗堰」といった地名も残るということで、城あるいは陣所が置かれていたことは間違いない。

 城址のある部分は、北側は川に臨んだ微高地であり、東西には低地があるので、南側を区画すれば立派な城郭となる。東側の低地は東北自動車道になってしまっているためよく分からないが、西側は、川に降りる通路に沿って、城塁となっているのがなんとなく分かる。「なんとなく」というのは、ヤブが酷すぎるからである。

 下の橋に突き当たる部分の手前には、奥の方に堀跡らしき窪みも見えるが、こちらもヤブが酷くて確認は困難である。そして、それにも増して、この辺り、妙に鳥の生臭い匂いがする。鳥の声も多数しているし、道路には鳥の羽もけっこう落ちている。ヤブの奥に養鶏場があるのかどうかよく分からないが、この臭いだけでも、ヤブの中に入っていく気が失せてしまうほどである。

 長禄3年(1459)10月15日、古河公方足利成氏と関東管領上杉房顕・越後守護上杉房定らは、羽附原の周辺で合戦を行った。館林インターのそばにある宝秀寺には、この合戦の供養碑が建てられているが、それによると、この戦いは関東を2分しての戦いであり、館林地域では最大の激戦であったという。戦死者は公方方だけでも2000人以上に及んだというが、この数は実際はどうだったであろうか。

 この合戦の際に、上杉方の岩松氏が陣取ったのが、この場所であったという。








北側の川に架かる橋から見た城址方向。正面奥のヤブの中に堀跡らしきものもありそうだ。




北大島城(館林市下早川田町寄居)

 北大島城は大島町の南端部、十二社権現神社のある微高地上に築かれていた。

 十二社権現神社のある北大島地区は、周囲の水田に比べると微高地にあり、この集落一帯が北大島城の跡であると言われる。かつては周囲を沼沢地に囲まれ、確かに島のような地形であったものだろう。集落北側を流れる川は、現在は用水路となっているが、古い航空写真を見てみると、右の図のような、もっとしっかりとした規模の川であったようである。

 十二社権現社のある部分が、かつての主郭に当たる箇所であろう。東南には櫓台のような土壇もある。また、西側の民家との間の窪みは、かつての堀の名残だと思われる。この周辺が「寄居」という地名である。

 その他にも集落内を探索してみれば何かの遺構が残存している可能性もあるが、民家の敷地内になっていることと、それ以外の部分もヤブがひどくて、夏場では探索してみる気分にもなれない。。

 北大島城の歴史等詳細は未詳だが、天正13年(1585)、北条氏が館林城を攻撃した際に、片見因幡守師方が、ここ北大島城に陣取ったと言われる。









神社と西側の民家との間の窪みは、かつての堀の跡ではないだろうか。右手は櫓台のようにも見える。




植村屋敷・磯ヶ原城(館林市下早川田町)

 下早川田町の春昌寺が上村屋敷の跡である。また、その東南600mほどの、常楽寺・熊野神社のある微高地が磯ヶ原城の跡である。

植村家次は、家康の嫡男、信康の小姓であった。ところが天正7年(1579)、信康は織田信長から武田氏との内通を疑われ、自刃させられてしまう。そのため、植村氏も家禄を失い、流浪の旅に出ることになった。

小田原の役後、榊原康政の推挙により再び徳川家康に仕えることになった植村家次は、邑楽郡で500石を与えられ、現在の春昌寺の地に居館を営んだ。春昌寺には家次の墓所もある。

家次の子、家政は、徳川秀忠の小姓となり(親子2代で小姓になっていることから、植村氏はかなり美形の家柄であったのだろう)1500石を賜った、さらに家光に仕えた後にも次々と累進して、しまいには大和高取25000石の大名となった。大和に転封後、館跡は春昌寺となった。


磯ヶ原城は、北大島城の西側に向かい合うような位置にあった。北大島城と同様、かつては島状の地形であったものと思われる。また「磯ヶ原」という地名から、城沼が当時はこの付近まで延びていたのではないだろうか。

現在、明確な遺構は見られないが、周囲を囲んでいる水路が、かつての堀のラインを示している可能性がある。

 磯ヶ原城は磯原正儀の城であったという。




春昌寺前面にある水路は、かつての堀の名残であろう。 磯ヶ浜城の北側の水路はかつての堀のラインを思わせる。




大袋城・青山屋敷(館林市花山町)

 城沼に囲まれた微高地上に大袋城は築かれていた。また、その南西300m、富士嶽神社の西側には青山屋敷があった。

城沼が天然の水堀を成すという絶好の立地であり、城郭を営むのにふさわしい場所で、典型的な要害地形である。しかし、現在は宅地化が進んでおり遺構は見られなくなってしまっている。山崎一氏の図と古い航空写真を基にしたラフを描いておくが、中央の谷戸部をはさんで本丸と二の丸とが並列する2郭構造の城館であったようである。

かつてこの地域は羽継氏によって支配されていた。しかし上杉禅秀の乱によって羽継氏が没落していくと、代わって勢力をもたげてきたのは青柳城にいた赤井氏であった。

 大袋城を築いたのは、この赤井氏であったという。『松陰私語』には、文明4年(1472)、太田道灌・長尾景信らが、70余日をかけてこの城を攻撃し、降伏させたといった記事がある。このことで、この城の要害性に疑問を感じることになったのか、後に赤井照光は、館林城を築いて、そちらに本拠を移すことになる。

大袋城の南300mほどのところに青山屋敷があった。こちらも現在では遺構が隠滅してしまっているので、山崎一氏の図と古い航空写真を基にしたラフを掲示しておく。二重の堀をめぐらせた城館であった。

青山氏は、赤井氏の家臣であったという。江戸時代に入ってからは名主となり、近世においてもこの地域の有力者であったらしい。ちなみに青山家に伝わる文書の中に「享徳年間に、赤井氏が館林城を築いて大袋城から居城を移した」ということを示しているものがあるという。




















城沼を挟んで北側から遠望した大袋城跡。沼に突き出した微高地上である。




蛇屋敷(館林市足次町堀ノ内)

 蛇屋敷は、県道223号線沿い、第9小学校の北西300mほどの所にあった。

蛇屋敷というのはいかにも奇妙な名称で、蛇のいるような屋敷には住みたくないと思ってしまうのだが、一説によると、「へび」は「兵部」の転であり、この地域にはよく見られる地名の1つであるという。となると、○○兵部という者の居館であったのだろうか。「堀ノ内」地名を残している場所である。

現在は宅地が密集し、館の遺構は隠滅してしまっているが、道路のラインなどから、なんとなく形状を想像することはできる。古い航空写真を見ても宅地が密集していることから、環濠集落のようなものであったかもしれない。方200mほどの規模であった。

山崎一氏の図と古い航空写真から想像した図を提示しておく。

 蛇屋敷は、金子内膳の居館であったという。










城域内を流れる水路は、かつての館と関連するものではないかと思われる。




高根城(館林市高根町)

 高根城は、高根町の源清寺周辺にあった。

根地区は、沼沢地隊に臨む微高地にあり、城館を営むのにふさわしい場所である。地形的には城館らしさを残しているが、明瞭な遺構はない。

山崎一氏の図を見ると、源清寺の背後に土塁と堀とが描かれている。ということで源清寺の背後に回り込んでみると、確かに土塁らしきものが見える。しかし、これは土塁ではなく、ただの土手であった。源清寺は集落のある台地よりも低い位置にあるので、土手を背にするような地取りになっているのである。

となると、根城は谷戸式城館のように、背後の高い位置に堀を巡らせた城館だったのであろうか。しかし、それはどうにも不自然である。どう考えても、背後の高台の方が城館を営むのにふさわしい位置である。また、北側の道路から台地内部に入る箇所には食い違いの稜線も見られる。どうも、台地上の方が城館跡だったのではないかと想像したくなるところである。

根城の歴史等、詳細は不明であるが、館林城の支城であったと言われる。










源清寺の背後の土手は一見、土塁のようにも見えるが、実際はただの土手である。 北側から見た城址方向。住宅街となっている高台こそが城址としてふさわしい場所である。




木戸館(館林市木戸)

 木戸館は、木戸町の赤城神社のあるところにあったという。

 赤城神社のあるところは、西側の多々良川に臨む微高地上にあるので、北・南・東の三方向に区画を入れれば、館が成立する。山崎一氏の図を見てみると、実際、神社の北と南に堀が描かれているが、現在ではいずれも痕跡が認められなくなってしまっている。

 神社背後の土手が遺構であれば、なかなか立派な土塁ということになるのだが、これは後世の堤であり、南北に長く延びている。

 木戸館は木戸忠朝の居城であったという。












神社背後の土手。これが遺構であったなら、そうとう立派なものであるが、これはただの堤防である。
























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