群馬県玉村町

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人  城郭図鑑

 玉村町は利根川に臨む平野地帯に位置しているということもあってか、古くから環濠集落や屋敷が多く営まれていたところであった。茨城で言えば那珂市のようなものである。那珂市の城館が次々と破壊されているということもあって、玉村町の城館跡の残存状況にはかねてから関心があったが、2015年7月、やっと訪れることができた。しかし、その結果は、時遅し・・・というべきか、城館の多くはすでに消滅してしまった後であり、かろうじて残存している遺構も、特に保存の手は打たれていないという印象を受けた。玉村町は高崎市・前橋市といった都市のベッドタウンということもあってか、どこに行っても新しい住宅街やアパートが立ち並んでいる。こうした開発の波に押され、遺構は次々と破壊されつつある。現在、残されている遺構もいつまで残ってくれているものか、なんとも哀しいことではある。

玉村館・与六屋敷・玉村神社(玉村町下新田・与六分)

 国道354号線沿いに玉村八幡神社があるが、玉村館はその西側、玉村小学校の北側一帯にあった。また、現在の玉村高等学校の敷地が、与六屋敷の跡である。

 玉村館は、現在の玉村小学校の北側にあり、80×100mほどの規模があったようである。しかし、現在では宅地となっており、遺構は完全湮滅である。そこで、山崎一氏の図と古い航空写真を見ながら想像図を描いてみた。1970年代の航空写真を見ると、館の形状はなんとなく理解できる。比較的近年まで、なんらかの形状は残されていたようであるが、上記の通り、現在はすっかり住宅地と化してしまっているが、「御殿」という地名が残っている。南側に食い違いの虎口があったと言われる。

 その西側に玉村神社がある。ここはあくまでも神社であるのだが、玉村氏の最初の居館が営まれた場所であるという伝承を持っている。実際、神社の周囲には現在も、堀といっていいような形状の水路が廻らされており、かつて館であった雰囲気を十分に残している。右の図の3つの館の中で、現在も遺構といえそうなものが残っているのは、意外にも3つの中で一番古いこの神社だけである。

 さらにその西側、現在の玉村高等学校の敷地が与六館の跡と言われているところである。ここは高校の敷地となったのがかなり早い時期のことであったのか、古い航空写真を見ても、城館の形状を推し量ることはできなかった。図は山崎一氏の図に拠ったものである。それによると、単郭ではあるが、随所に折れを見せた、戦国城館風の形状のものであったらしい。北東の隅が直角になっていないが、これは鬼門除けのためであったと考えられる。

 いずれにしても、遺構がなくなってしまっているのが悔やまれるのであった。


 玉村館は、戦国時代に宇津木下綱によって築かれたという。天正8年(1580)、宇津木氏の斡旋により、上杉方であった北条高広が武田方に寝返るという事件があり、その功績により宇津木氏は、那波郡西部281貫文を拝領し、当地域支配のために玉村館を築いた。

 天正10年、武田氏滅亡の後、宇津木下綱は北条氏に仕え、氏久と名前を改めた。氏久は、那波顕宗と共に上杉方となった北条高広による那波城攻撃を撃退し、また北条氏による沼田城攻撃に参加して、福島の地を与えられた。

 天正12年、氏久は、北条氏による金山城攻撃に参加し、これによって金山城は落城し、北条氏の手に落ちた。天正18年、秀吉による小田原の役が起こったが、その頃、玉村郷で反乱が勃発したこともあり、氏久は小田原城籠城に参加できなかった。しかし、このことが幸いして、北条氏の滅亡後も没落することはなく、その後に当地の領主として入った井伊直政に仕えることになり、本領を安堵された。

 慶長5年(1600)関ヶ原合戦後の異動で井伊氏が近江彦根に転封となると、氏久の子泰繁はそれに従い、彦根に移っていった。

 その後、当地域には幕府の代官として伊那備前守が入部した。その子の伊奈半十郎は、玉村館を改修して陣屋として使用したと言われる。

 与六屋敷は、伊那半十郎の家臣であった早川与六の館であったという。ここは、かつての郷士和田与六の屋敷があったところであり、そのため与六分という地名が残されることになったという。

玉村神社南側の堀。 同じく神社東側の堀。




田村屋敷・田口下屋敷・石原屋敷・温井西屋敷・温井東屋敷(玉村町斎田)

 田口下屋敷は観音寺の北東側にあり、現在も水堀をよく残している。観音寺の南側には田村屋敷が、西側には温井東屋敷温井西屋敷があった。複数の環濠屋敷が並んでいる地域で、環濠集落の一種であったと見ることができる。

 この中で現在も最も遺構をよく残しているのが、田口下屋敷である。ここは民家の敷地内となっているが、観音寺と隣接する西側から北側、そして東側にかけての三方向に、現在も水を湛えた堀を残している。山崎一氏の図を見ると、さらに外郭部も存在し、二重の堀をめぐらせた城館であったらしい。確かに古い航空写真を見ると、外郭のラインもなんとなく見えている。内角の部分は方40mほどの規模である。

 田口屋敷は、当地の郷士であった田口氏の居館で、永禄年間に田口俊政が移り住んだという。ただし、当屋敷の中には文永年間の板碑が残されているというので、かなり古い時代から居館が営まれていた場所であったと思われる。隣接する下斎田城の田口氏と関連がある氏族であったろうか。

 観音寺をはさんで南側には田村屋敷があった。北側に折れのある城塁を配置した単郭の城館である。こちらは内部を県道24号線が横断しており、住宅地によって破壊されてしまっている。とはいえ、古い航空写真ではその形状をうかがい知ることができる。今回は探索し忘れてしまったのだが、県道をはさんだ南側には、水堀の一部が残されているらしい。それも幅の広いもので、当地域の城館の中でも最も規模の大きな堀であったという。

 田村屋敷は、田村甚衛門、治右衛門の居館であったと伝えられる。現在も御子孫がお住まいになり、うどん屋さんを経営しているという。

 観音寺の西側には、温井西屋敷と温井東屋敷とが並立していた。しかし、こちらも宅地開発によって、遺構のほとんどは湮滅してしまったようである。かろうじて温井東屋敷の西側の堀跡を痕跡として認めることができるが、それくらいである。地元の方に伺った所(70歳くらいのお年寄りである)、「青い屋根の家の北側に堀が残っている」とのことであった。青い家というのはまさに温井東屋敷のあるお宅のことである。しかし敷地内部にあるのか、道路沿いから北側の堀を見つけることはできなかった。

 温井屋敷は、温井弥兵衛という者の居館であったと言われる。
 
 ちなみにこの方に、これらの屋敷跡について伺った所、「詳しいことはインターネットに載っているから、中世の館であったことは間違いない。インターネットを見てみるといいよ」と教えてくださった。ネットで玉村町の城館のことを詳しく解説しているのは、私の見たところ、城逢人群馬県の城館(城郭図鑑)の2つであった。確かにそれぞれの屋敷についての探訪録が書かれている。とはいえ、地元の方ならではの現地情報を伺いたかったのに「ネットで調べてみるといいよ」と逆に言われてしまう時代になってしまっているのは本末転倒な気もする。

 だが、それも時代というものなのであろう。ネットでの情報が知らず知らずのうちに絶対視されてしまい、地元の方までもそれを鵜呑みにするようになってしまうのである。私自身、地元の方に生の情報を改めて伺いたいと思ってお話を聞こうと思ったのに、地元の方から「ネットのこのページを見るといいよ」と言われ、自分のホームページを紹介されたことが何度もある。ネットで情報を発信するのにも、気をつけなければいけないなあと改めて感じた次第である。

 温井両屋敷の南側には石原屋敷があったというが、こちらはまったく痕跡も認められなかった。石原屋敷は当地の郷士石原氏の居館であった。今でも内部には、建武2年、永和2年の板碑があるといい、古くから居館が営まれていた場所であったことが想像される。


観音寺墓地と田口下屋敷との間に残る水堀。 田口下屋敷東側の堀。草が繁茂しているが、しっかりと水も残っている。
温井東屋敷西側の堀跡。北側にも堀が残ると言われたが、分からなかった。




上福島砦(玉村町福島)

 上福島砦は、県道24号線が北側に大きくカーブして福島橋に向かうあたりの西側一帯にあった。セブンイレブンのあるところが城址の中心の一部である。また、東側の天満宮もかつての城内の一部で、かろうじて当時の面影を残している。

 現在では宅地開発が進んでいて、遺構はほぼ湮滅状態にあるので、山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像図を描いてみた。一見して分かるとおり、もともとあった2つの環濠屋敷を中心に、外郭部を造成して、城郭として改造したような形状のものであった。古い航空写真を見ると、1と2の郭は、屋敷の敷地としてなんとなく形状を留めている。

 東側にあった天満宮は、一種の櫓台のようなものだったであろうか。天満宮のあるところだけが、現在も櫓台のようにして道路脇に残されている。これがあるいは唯一の遺構であるのかもしれない。


 居館の造営は古く、鎌倉時代に那波越前とその子の伊予が居住したとも、那波一族の福島氏が居住したとも言われている。というか、那波氏の一族が当地に居住して福島氏を名乗るようになったのではないだろか。

 環濠屋敷を取り込んで外郭部が形成されたのは戦国時代のことではなかったかと思われる。天正年間に当地を支配した宇津木氏に関連した城郭であった可能性が高いと思われるのだが、正確なところは分からない。。














福島の公民館があるので、ここに車を停めて歩くとよい。この南側一帯が城址であった。




玉村城・南玉(なんぎょく)館(玉村町南玉)

 金蔵寺の南側に町指定文化財の五輪塔があるが、その東南一帯が玉村城の跡であった。また、その東南100ほどの所には南玉館の跡があった。この五輪塔は文安5年(1448)の銘があるもので、夫婦のものが揃って仲良く並んで建てられている(妻の塔は文安6年の銘)。

 いずれの城館も、現在では遺構はほぼ湮滅状態にある。そこで、古い航空写真と山崎一氏の図を基にして想像図を描いてみた。

 玉村城は50m×100mほどの東西に細長い形状をしており、数軒の民家の敷地となっている。変わっているのは、城塁のラインが、道路沿いではなく、民家の庭先にあるということである。航空写真を見ると、その形状をなんとなくうかがい知ることができるのであるが、特に南側のラインは民家の庭先内部にわずかな段差となって一部は残されているようにも見える。

 玉村城は玉村氏の居館であったとも、金原氏の居館であったとも言われるが、詳しいことはよく分からない。

 南玉館は玉村城の東南にあり、付属の施設だったと思われる城館である。こちらも遺構は失われているようであるが、航空写真を見ると、民家の敷地内に微妙な段差として城塁のラインの一部がかろうじて残っているようにも見える。しかし、民家の内部であるので、外側からでは分かりにくい。












玉村城の北西部の墓地にある町指定文化財の五輪塔。




川井城(玉村町川井字堀ノ内)

 川井城は、滝川に臨む北側の段丘上にあった。滝川と烏川との合流点の近くである。現在、かろうじて櫓台らしきものだけが残されており、その上に八千矛神社が祭られている。玉村町の城址にしては珍しく、途中の道路に案内表示が出ているために、迷わずに到達することができる。

 八千矛神社のある高台が櫓台の様相を示しているが、その他には遺構らしきものは見受けられない。かつては4郭構造の城郭であり、堀が廻らされていたらしいが、滝川の堤防が造成された際に、堀も埋められてしまったようである。仕方がないので、山崎一氏の図を基にしたラフを掲載しておく。

 八千矛神社は本来、齋藤氏の守護神として摩利支天が祭られていた所である。慶応4年の神仏判然令によって八千矛神社となったが、地元では現在でも「摩利支天様」と呼ばれて信仰されていると、現地案内板に書いてあった(ちなみに玉村町の城址で、城址案内が設置されていたのはここだけである)。

 八千矛神社の手前に、その案内板が立てられている。ところが、この案内板の真正面に、神社再建の碑が建てられてしまっている。真正面に石碑が立っているために案内板を正面から撮影することができなくなってしまっているのであった。もう少し、建て方を考えてほしかった所である。


 川井城の城主は『平家物語』で有名な齋藤別当実盛の子孫である齋藤氏であった。齋藤氏は利根川対岸の金窪城の城主でもあり、金窪城主齋藤定盛の弟であった齋藤石見守基盛の居城であったという。

 天正10年、滝川一益と北条氏政との間で神流川の合戦が行われたが、その際に、川井城は滝川勢によって攻め落とされたという。ちなみに、この城の北西1500mほどの所に、滝川一益が陣を置いたと言われる軍配山古墳がある。

 その後、箕輪城に属した清水時重の子孫清水邦政が、齋藤定盛の長女を娶り、川井城を譲り受けることになった。






途中の道路に案内板があるので迷うことはない。 わずかに残された櫓台には八千矛神社が建てられている。ここに案内板もある。





茂木館・下茂木館・後箇屋敷(玉村町茂木・下茂木・後箇)

 茂木館は滝川に臨む南側の低地に築かれており、現在も堀や土塁を残している。後箇屋敷はその西側300mほどのところにあった。また、下茂木館は、法蓮寺に隣接する北東側にあった。

 茂木館の南側を除く三方向には、現在も水堀が廻らされている。民家の敷地内となっているので内部探索はできないが、一辺50mほどの規模であった。滝川堤防沿いから見てみると、北東の角の部分にヤブがなく、その形状をうかがい知ることができる。堀はあるが土塁は見られない。

 茂木館は田口氏の居館であったと言われる。田口氏は南北朝時代に宗良親王の親征に伴って当地に入部し、居館を営むことになった。田口氏はもともとは山城国の武士粟田口氏であったという。

 茂木館の西方の後箇屋敷は、一回り規模が小さい方形館であった。かつては堀が廻らされていたらしいが、現在では民家の敷地内にわずかな段差がその名残をとどめているくらいである。山崎一氏の図を基にした想像図を描いてみた。館主は不明である。

 この南方には天正10年の神流川合戦の際に滝川一益が陣所とした軍配山古墳がある。







 下茂木館は下茂木地区の、法蓮寺の北東側に隣接して存在していた。堀に囲まれた方形館であるが、現在は宅地化により、わずかな段差を残して、ほとんど湮滅状態にある。右の図は、山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像してみたものである。方100mほどの規模であった。

 下茂木館は。川井城の齋藤氏の居館であったという。形状からして川井城の方が新しい様相を見せているから、川井城が築かれる前の齋藤氏の居館であったものだろうか。また、茂木館の田口氏の居館であったともいう。齋藤氏も田口氏も古くからの当地域の郷士であり、いずれに属した城館であったのか、確定的なことは言えないようである。



















茂木館北側を流れる滝川。この南側に館の堀が残されている。 北側の堀。土塁もあるようだ。
北東の角辺りの堀。




観照寺屋敷・町田屋敷・社会体育館(玉村町上飯島・下新田)

 上之手交差点の北東側にある観照寺が、観照寺屋敷の跡であり、西側と北側には現在も堀が残されている。玉村ショッピングセンターを挟んで、その西側一帯が町田屋敷の跡である。また、城かどうかは分からないが、その南側の社会体育館の周囲には中世城郭と見まごうような土塁が廻らされているので、一応ここでも紹介しておく。

 観照寺の山門はなかなか瀟洒な建物であり、いかにも中世城館の雰囲気を醸し出している。また、山門の左手には町指定史跡の板碑が残されている。一番古いものは弘長2年(1262)年の銘があり、鎌倉時代のものである。観照寺館がいかに古い時代から営まれていた居館であったかが想像される。

 本堂の西側に入り込んでみると、左手にはヤブがある。そのヤブをちょっと掻き分けてみると、そこには水堀の跡が残されていた。水堀は西側から北側に直角に回りこんでいる。北側の部分は両脇を石列で加工されているが、現在も水が湛えられていた。ただし、東側に墓地が造成されてしまったせいか、途中から先が埋め立てられてしまっている。50m四方ほどの規模であった。

観照寺屋敷は、鎌倉時代に玉村太郎の居館であり、後に寺院が営まれた場所である。


 ショッピングセンターを挟んで西側に町田屋敷が営まれていた。こちらは宅地が密集しており、現在では遺構は湮滅してしまっているようである。かつては二重の堀に囲まれた居館であったようで、山崎一氏の図と古い航空写真から想像すると、だいたい右の図のような形状をしていたらしい。町田氏の居館であったと言われる。


 町田屋敷から南下すると、一見して「中世城館の土塁?」と思いたくなるような土塁が延びているのがいやでも眼に入ってくる。社会体育館の敷地を囲んでいる土塁である。

 この場所は遺跡地図にも印が付けられていないので、城郭遺構ではなく、あくまでも体育館の建設によって造成されたものと見るべきなのだろう。とはいえ、体育館の造成に際して、どうしてこのような土塁を造ったものなのであろうか。城郭遺構ではないとしても、この地域のどの城郭よりも、ぱっと見て遺構らしく見えてしまうものである。知らなかったら「城館跡を再利用したもの」としか思えないであろう。





町指定文化財となっている観照寺の板碑。 観照寺の山門。中世城館のものと言ってもいいような風情がある。
西側の堀。 北側の堀。
社会体育館を囲んでいる土塁。一見して、中世城館のように見えてしまう土塁である。 内側から見た土塁。




原屋敷・秋山屋敷・木暮屋敷(玉村町上之手)

 原屋敷は、群馬県立女子大学の南側200mほどのところにあった。この街道沿いには複数の屋敷跡が並んでおり、原屋敷の東100mほどのところに重田屋敷、さらにその200mほど東側に秋山屋敷、そしてその100mほど東側に木暮屋敷があった。いずれも宅地化が進んでいて、遺構は湮滅状態にあるので、山崎一氏の図と古い航空写真を基に想像図を描いてみた。

 原屋敷は、当地域の屋敷群の中でも規模の大きなものの1つで、80m×130mほどの規模があったという。部分的に堀跡と想像させる水田があったりするが、現状では構造はよく分からない。ただ、単純な方形館ではなかったようである。原嘉門の居館であったと言われる。

 そのすぐ東側に隣接して重田屋敷があった。古い航空写真を見てみると、なんとなく形状が分かるような気がするが、やはり現状では湮滅してしまっており、溝が堀のラインをかろうじて示しているだけである。重田氏の居館であったと考えられる。

 重田屋敷の南側の道路に沿うようにして、秋山屋敷と木暮屋敷とが営まれていた。しかし、いずれも現状ではまったく分からない状況になってしまっている。それぞれ、秋山氏、木暮氏の居館であったと伝えられる。

 秋山屋敷は「立野」という地名を残しているので、相応の規模を有した城館であったものと推測される。また、木暮屋敷には一部だけ、堀跡の痕跡が見られるらしいが、今回は確認できていない。









遺構はほとんど見られないが、低地の水田がかろうじて堀跡らしく見えないこともない。




新井屋敷(玉村町上之手新井)

 新井屋敷は、原屋敷の南西300mほどの所にあり、現在も南側を除く三方向に水堀をよく残している。玉村町の城館の中でも、遺構をよく残しているほうである。

 方50mほどの規模の城館である。民家の敷地内となっているため、内部探索はしていないが、東側の水堀は生簀に利用されているようで、現在でもかなりの水量を湛えた堀の様相を示している。西側と北側はヤブ化が進み、規模も半分ほど埋められてしまっているようであるが、それでも水が湛えられ、一見して堀の跡であることが瞭然である。貴重な遺構であるので、今後とも存続していってほしいものだが、周囲の宅地化が進行しているので、ちょっと心配である。


 新井屋敷は、新井氏の居館であったという。









新井屋敷東側の堀。生簀として使用されているようだ。 西側の堀。よく残されているが、幅の半分ほどは道路のために埋め立てられてしまっているようだ。




八幡原城(玉村町八幡原城)

 八幡腹城は、烏川に臨む北側の河岸段丘上に築かれていたという。この段丘は比高8mほどの高さがあり、水路が通る掘割的な谷戸が見られる。遺跡地図によると、この西側が城域であったようで、関越自動車道を挟んで西側にまで範囲が及んでいる。しかし、宅地化が進んでいることもあり、旧状はよく分からない。台地上には古い墓石などがいくつかあるが、これが城館跡を示しているのかもしれない。堀のように見える区画もあるのだが、ヤブがひどい上に民家の敷地内であるので、きちんと確認できない。

 谷戸部分から東側の台地に上がりこんでいくと、Aの土壇のような高まりが眼に入ってくる。土壇の上には墓地が営まれている。また、その北側には、一部土塁を残すBの民家がある。これらも城館と関連するものなのであろうか。はっきりしない。
 
 また、古い航空写真を見ると、段丘の下の川原に、右の図のような折れを伴った水路が見えている。川沿いの低地であるから、城郭遺構と見るのは誤っている可能性が高いが、それでもその形状がちょっと気になるので、一応図化してみることにした。


 八幡原城の歴史について詳しいことは分からない。ただ、安達氏の居館が営まれていたという伝承地の1つであるから、水陸の交通の要衝を成し、鎌倉時代から城館が営まれていた場所であったと推定される。

 しかし、「城」という地名が残されていることから、戦国時代にも改修されて用いられていた可能性がある。遺跡地図の範囲を見ても、東西500m、南北150mほどもあり、かなり規模の大きな城館であった可能性はある。







烏川に臨む南側土手部分。正面の高架は関越自動車道である。 東西の間を分ける谷戸部分。
東側の台地にあるBの土塁。
























大竹屋旅館