群馬県高山村

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の山城と館』(宮坂武男)

*参考サイト  岩櫃城興亡史  土の城jへの衝動  儀一の城館旅

中山古城(高山村中山甲)

*鳥瞰図の作成に際しては、『日本城郭体系』、『関東地方の中世城館』、土の城jへの衝動 、儀一の城館旅を参考にした。

 中山古城は、もともとこの地域の豪族の支配拠点として存在していた城郭であり中山城と呼ばれていたのではないかと思われるが、天正後半期に北条氏が近くに中山城という番城を築いたために、こちらは中山古城と呼ばれている。中山古城は比高120mほどの山稜上に築かれている。

 中山古城の登山口は民家の庭先に進入するような道で分かりにくいのであるが、現在は「中山古城→」という案内板(まだ真新しかった)が入口に立てられているので、それにしたがって進んでいけばよい。

 すると道は細くなって2つに分かれるが、右側は舗装路なのでそちらを選択する。カーブを曲がって登っていくとそこに墓地があった。そこから先は未舗装の道路になるので、その辺りの空き地に車は停めさせてもらった。ここからは歩きの山道であるが、けっこう幅広の道なので、四駆だったらかなり上の方まで車で行けるかもしれない。

 山道を歩いていくこと10分ほどで谷戸部のところに出た。この中の一段高いところに祠が2つ祭られている。祭祀的な意味合いのある空間なのであろうか。ここから左右に登っていく道が見えている。

 結論から言うと、どちらから登っても城内に到達できるのだが、中山古城は馬蹄形に城域が形成されているので、左側の尾根から取りついて、ぐるりと城域を歩いて、右側の尾根の下へと戻ってくるというルートで回るのが効率的である。そういうわけで左側のガク岩の方を進む道を選択した。

 左側はガク岩の脇を通って階段状に登っていく。登り切ってみると、そこが3郭であった。人工的な平場となっており、奥には2郭の城塁が見えている。基本的に西尾根の構造は、傾斜地形を削平して数段の郭と切岸を発生させるといったものである。

 3郭から1段上がるとそこは2郭だが、構造的には3郭と同じものである。さらに一段上がるとそこが1郭。どうしてそこが1郭であると判断するかというと、この郭はきちんと削平されているうえに、北側に土塁が盛られており、その背後に堀切を配置するなど、一番しっかりとした構造になっているからである。

 その上が4郭である。地勢的には4郭の方が高い位置にあり通常はこちらを主郭とすべき場所なのだが、こちらは平場とはいえ傾斜しており、基本的に自然地形のままである。加工度から言って、ここを主郭とするのは当たらないと思う。

 4郭の背後が尾根続きになっている、そこで、尾根との間に堀切を入れて分断を図っている。4郭の外側下には帯曲輪を設け、その帯曲輪と背後の山稜との間を分断するようになっている。ちなみにこの帯曲輪は東側の山稜に沿って、郭の東側下に長く延びており、一部は横堀状になっている。

 4郭から東側の尾根にかけては、郭というよりは自然地形の尾根が次第に降っているといった状態である。しかし、傾斜はさほど急ではないので、郭としての利用もある程度は可能かもしれない。そして東側先端部になると、平坦な地形になるので、そこは削平された郭と見てよいものとなっている。ここまでの傾斜した部分も、東側下には横堀状の帯曲輪を造成しているので、城内であることには間違いない。

 以上は主な遺構であるが、この2つの尾根に囲まれた谷戸内部にも段々の平場がいくつか認められる。尾根上と谷戸内部の両方を利用した山城であったと思われる。

 古城という名称の通り、そんなに新しい設計を感じさせない城郭であるが、戦国初期の豪族の居城としたら、まずまずのものである。


 『加沢記』には永禄9年、真田幸隆が中山城に忍びを潜入させて、放火させようとしたという話がある。忍は宴席に進入したが、結局放火はせずに、馬鎧を盗み取って帰ったという。

中山古城の入口。民家の庭先に入るような雰囲気で躊躇しそうだが、現在は案内板が立てられている。 谷戸部から3郭に登っていく階段。途中にガク岩がある。
3郭内部。正面は2郭城塁。ヤブが切り払われていた。 2郭内部。
1郭内部。背後に土塁がある。 1郭背後の堀切。
4郭を見たところ。自然地形のままである。 4郭背後の堀切。
5郭と山稜部分との間を分断する堀切。 6郭は自然のままの傾斜地形である。
6郭東下側面部の帯曲輪。一部は横堀状になっている。 谷戸内部に祭られている2つの祠。
 中山古城は、武蔵児玉党の阿佐美氏によって築かれ、阿佐美氏はここに居住して中山氏を名乗るようになったという。

 戦国期になり、吾妻地域は岩櫃城の斎藤憲広によって一円支配されるようになる。中山地域も斎藤氏の勢力下となり、中山城には斎藤憲行が入城する。中山氏はその頃には駆逐されてしまったようである。

 その後、武田氏の命により真田幸隆が吾妻地域に侵攻してくる。斎藤氏は真田氏にじわじわと抑え込まれ、岩櫃城も落城する。一族は武山城(嶽山城)に籠城するが、最後は嶽山城も落城し、斎藤一族は滅亡する。その後の吾妻地域は真田氏の支配下となる。

 しかし、天正10年代には北条氏が当地域に侵攻してきて中山城を築いて番城とする。その頃には中山古城はその役割を終えて、廃城となっていたのではないかと思われる。




役原城(高山村尻高字役原)

*ラフ図の作成に際しては『関東地方の中世城館』を参考にした。

 役原城は、役原の集落の北部にあった。役原の集落は、南側の国道からはかなり山奥に入り込んだところにある。集落までは山中の道をくねくねと走って行くのだが、その途中には「熊に注意」の看板が立てられていたりする。集落に向かっていく道に熊が出るとは恐れ入ったものだ。それだけ、山の中であるということでもあろう。

 やがて森林が開けてきて集落が見えてきた。山中の集落というと、まるで隠れ里のようなイメージがあるのだが、かつてはこの集落内部を街道が通っていたのであろうか。

 民家の立ち並ぶ間を抜けていくと、城塁かと思われる高さ5mほどの土手と、堀として利用されていたと思われる水路が流れている。それを進んでいった所の東側の民家脇に城址標柱と案内板とが設置されていた。マイナーな城館と思っていたので、案内板があること自体が意外であった。

 案内板には「これが立っている所が本丸である」とあった。ところが、案内板が立っているのは、西側の台地の下方の低地である。地形的に考えれば、案内板のあるところではなく、西側の土手の上の方が城館を築くべき場所である。実際、西側の土手上を歩いてみると、土塁や堀跡と思われるものが散見される。

 しかし、山崎一氏の図面を見てみると、実際に案内板の建てられている東側の低地の地形と図面が一致している。ということは、東側の低地の方が城館跡で合っているということである。しかし、なんとなく違和感を感じる。

 城址と思われる箇所は民家の敷地内となっており、具体的な遺構というものは残っていなさそうに思われるが、山崎氏の図と航空写真から想像すると、右の図のような形状の城館が存在していたのではないかと思われる。


 白井城の長尾景春の3男であった重儀は、尻高城を築いて尻高重儀と名乗った。重儀は、息子に家督を譲った後、役原城に入城した。つまり、役原城は、尻高氏の隠居城であったということである。名桜年間のことであったという。




役原城の城址標柱と案内板。しかし、こちらは低地で、城址らしくない地形である。 西側の堀跡と城塁らしくみえるもの。こちらの方がどう見ても城館跡らしく見える。上には土塁も見られる。




戸室城(並木城・高山村尻高字元宿)

*ラフ図の作成に際しては『関東地方の中世城館』を参考にした。

 戸室城は泉龍寺の南300mほどの所にあった。途中に戸室城に関する道案内はないが、「尻高城→」という表示がいくつかあり、それに従って台地に上がって行ったところが城址ということになる。肝心の尻高城は、これよりもっと山奥に進入していった所にある。

 戸室城はその山麓に当たる台地上に築かれていた。台地の東側には、いかにも城塁らしき土手と、その下の堀跡らしい水田が残っている。また、台地のさらに一段高い部分が主郭であったと思われるのだが、北側の区画などは失われており、堀や土塁と言った明瞭な遺構は存在していない。それでも、山崎一氏の図は、現状とほぼ同じ地形を示しており、山崎氏の当時から、現状のような地形のみが残されていたのだと思われる。

 後で帰宅してから改めてネットで調べてみたら、戸室城は並木城とも言い、役原城と同様の城址標柱と案内板(並木城)が立てられているようである。高山村は城館遺構に対して、わりと親切な対応をしているようだ。





 戸室城は、尻高氏の居館であったという。尻高城を詰の城としていた尻高氏は、平素、ここに居住していた。










東側の城塁。手前の水田は堀の名残であろうか。




丸屋敷(高山村中山字丸)

*ラフ図の作成に際しては『関東地方の中世城館』を参考にした。

 丸屋敷は中山神社の南西側一帯にあった。かつての小川が南側に凸型に出張っている部分の北側に存在していたようで、山崎一氏の図から想像すると、右の図のような城館であったようだ。

 耕地整理によって城館は失われ、現在の小川も右の図のような凸部を持っていないが、古い航空写真を見ると、山崎氏の図の通りの形状の小川を見ることができる。その北側が城址であったはずだが、堀のラインは一部かすかに認められるものの、全体形状を把握することはできなかった。かなり早い時期に失われてしまったものと見える。



 丸屋敷は中山実高の館であったという。










南方から丸屋敷辺りを見たところ。遺構は消滅してしまったようだ。































大竹屋旅館