群馬県高崎市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人 

北新波砦・満勝寺(高崎市北新波町)

 群馬県指定史跡の北新波(あらなみ)砦は、北新波町の満勝寺のすぐ北西側にあった。国指定史跡としてきれいに整備されており、航空写真を見ると、その形状ははっきりと分かる。航空写真を見るだけでわくわくしてくる。

 高崎市には数多くの平城があるが、そのほとんどはご他聞にもれず、宅地化や耕地整理で湮滅してしまっている。大類城下之城倉賀野城元島名城などといった大規模な平城も多数存在していたと言うのにまったくもって残念な限りである。

 そんな中で、きれいに整備されて残っているのが北新波砦である。上記の通り、航空写真ではっきり視認できるほどきれいな状態になっているのがうれしい。湮滅城郭ばかりまわってきた後、このような城館を訪れると、魂が洗われるような気分である。

 北新波砦の規模は75m四方ほどで、南側に張り出し部分があるのが特徴である。郭の周囲には高さ2mほどの土塁がめぐらされ、張り出し部分の内部は、武者隠しのような空間になっている。

 周囲の堀は幅6mほどあるが、深さはあまりない。本来はもっと深かったのだろうが、埋まってしまっているのだと思われる。

 現在、郭の虎口は東西南北のすべてにあるが、単郭の城館にしては多すぎる。東西の2箇所は幅も狭くなっており、この2箇所は後世に開削されたものではないかと思う。本来は南北2箇所の虎口を有した城館だったのであろう。


 北新波砦の詳しい歴史は未詳だが、15〜16世紀に築かれたものだという。この地域は古来、長野氏発祥の地であることから、長野氏に関連した城館が数多く存在している。北新波砦も長野氏の家臣の居城であったに違いない。

 永禄6年の箕輪城落城の際、討ち死にした武将の中に新波新左衛門がいるが、この人物が北新波砦の城主であったのではないかとも言われる。


 北新波砦に隣接して東南側に満勝寺がある。山崎一氏の図を見ると、この寺院の周囲にはかつて土塁と堀が廻らされ、武装寺院であったらしい。しかし、現在では土塁も堀もすっかり湮滅してしまっている。かろうじて、南側の早瀬川に面する辺りが、なんとなく城館らしい雰囲気を残しているといった程度である。

 満勝寺は、、北新波砦と関連した城館だったと思われる。













南側の張出内部。 北側の城塁。堀はだいぶ埋められているようだ。
館跡内部。 南側の城塁。正面奥に張出部分が見える。
城塁の折れ。 早瀬川沿いに満勝寺を見たところ。




北爪の砦(北城・高崎市北新波町)

 北爪の砦は、県道28号線と10号線とが交差する浜川町交差点の南100mほどの所にあった。航空写真を見てみると、西側の内堀と外堀の跡がくっきりと見えている。右の図は山崎一氏の図と古い航空写真を基にして作成した想像図である。

 北爪砦は、早瀬川を南端の堀として、その北側に堀に囲まれた環郭式二重構造の城館であった。この広瀬川に面する部分は、下の写真の通り、今でも城の堀らしい雰囲気をよく残している。

 しかし、市街地の中にあるので、それ以外の遺構の残存状況は期待が持てない、と思いつつも、集落内を走り回った。予想通りというか、堀らしき痕跡が認められない。それもそのはずで、帰宅してから航空写真を見てみると、住宅地内の道と遺構との間には民家が建て込んでおり、それが堀との間の障壁のようになってしまっていたのである。これでは住宅地の側からでは発見できないはずだ。

 ところが、上に述べている通り、航空写真では堀をはっきり確認することができる。この遺構を見るためには、県道28号線沿いの高崎信用金庫か福ちゃん食堂から裏に回り込めばよさそうである。そうすれば、内堀、外堀の遺構を見ることができるであろう。次回訪れる機会があれば、ぜひ確認してみたい所である。堀跡は一段低い畑になっているように見えている。

 県道の東側にも、民家の奥に「堀跡?」と思われる部分の一部が見えそうなところがあったのだが、こちらは完全に民家の奥なので、勝手に進入することはできない。

 かつては食い違い構造の虎口なども残っていたようであるが、現在、虎口らしきものはまったく見られなくなってしまっている。
 

 北爪の砦の城主等、詳しいことは分からないが、長野氏家臣に北爪氏がいるので、この一族の居館であった可能性が高い。箕輪城の支城の1つであったものと思われる。永禄9年、武田信玄の侵攻によって箕輪城が落城した際、北爪土佐守も討ち死にした。こうして長野氏が滅亡してしまうと、北爪氏も没落したものと思われる。












早瀬川沿いの城塁。




寺の内館(高崎市浜川町町東)

 寺の内館は、北詰の砦の東側600ほどの所、浜川町2131番地辺りにあった。「寺の内」というのは、かつてこの地に「満勝寺」があったという伝承によるものである(満勝寺は、北新波砦に隣接した所にある寺院のことである)。

 右の図は山崎一氏の図と古い航空写真を基にして作成した想像図である。

 こちらも現地を訪れてみたが、耕地整理で完全湮滅してしまったようだ。しかし、ここを発掘した際の様子が『城郭体系』のコラムに書かれている。(ってことは昭和50年代には破壊されてしまったのである。)

 寺の内館の発掘調査は昭和52年に行われた。それによると、

「天仁元年(1108)の浅間山噴火爆裂から5cmの自然堆積があった時点で築城されたもの」
「方106mの内郭を元に、全体の規模は265m四方ほどあった」「外堀は幅8m、深さ3m、中堀は幅5m、深さ2.5m、内堀は幅7m、深さ1mとかなり規模の大きなものであった」
「内堀の内側には土塁があった」「内郭には23棟の建物があった」
「内耳付土鍋、ほうろく、擂鉢、かわらけ、茶碗、石臼、銅線その他が発掘された」
「かつての満勝寺跡と言われているが、寺院の痕跡はなかった」

 といったことが挙げられる。右の図の西方に、内堀、外堀が展開していたようである。

 寺の内館は、かなりの規模の城館であったようで、長野氏に属する有力な豪族の居館であったものと推測される。『城郭体系』では、柴屋軒宗長が『東路の津登』に記している松田加賀守の館がここではないか、と推測している。














館跡付近の水路。




並榎城(高崎市上並榎町)

 並榎城は、烏川に臨む、上並榎町の西端の河岸段丘上に築かれていた。城址の先端部近くをJR信越本線の線路が分断している。それでも航空写真を見てみると、かつての城の構造を想像することは可能である。右のラフ図は、山崎一氏の図と古い航空写真とを参考にしたものである。

 台地先端部近くを南北に細長く掘り切って本丸を形成している。二ノ丸は本丸を囲むようにして配置され、西側は段丘の崖、東側は佐賀野川を天然の堀としている。この堀は現在は埋められてしまっているが、西側の台地に降りる部分だけが切り通し状になっている(Aの部分)。

 二ノ丸の北側に折れのある堀を入れ、その北側が三ノ丸である。三ノ丸の北側にも折れのある堀を入れて城域を区画している。この堀は、東側半分は佐賀野川の流れとなりそのまま残っているが、西側半分は埋められてしまっている。ただし、こちらも、台地に降りる道路となっているので、端部分は切り通しとなっている。

 このような感じであり、現状で残っているのは、佐賀野川の流れを利用した部分と、図のAの所に通じる堀切だけである。特に線路より北側の部分は宅地が密集しており、遺構は残存しようもないといったところである。

 線路の南側部分は畑となっており、城郭らしい雰囲気をかろうじて残している。したがって、城址に行くには、この畑を目指すことになる。本丸のすぐ真下には烏川緑地運動公園があり、車を停めるスペースもあるので、ここから歩いてアクセスするのが分かりやすい。

 私も上記のようにアクセスしようと思ったのだが、何を勘違いしたのか、ナビは北側の住宅街を経由するルートで案内してきた。そこで住宅街の中を通って本丸を目指したのだが、道が狭くて走りにくかった。線路を渡って畑の脇に車を停めたのだが、このルートはお勧めできない。


 並榎城の城主は、和田氏の騎馬衆であった並榎将監・庄九郎であったという。並榎氏は武蔵児玉党の一族であった阿佐美氏の出身であるという。

 ただし、『長野業政家臣録』には飯塚忠則居住とあり、飯塚氏の居城であったとされる。飯塚氏と言えば、市内に飯塚城という城館があり、そちらと混同しているとも考えられるが、この記録が真実であるとすれば、和田氏家臣内で配置換えがあったのかもしれない。
















本丸と二ノ丸との間の堀切跡。




禰津陣屋(高崎市下豊岡町)

 下豊岡町の常安寺が、禰津陣屋の跡である。遺構はあまり見られないが、山門脇の石垣と水路が、かつての堀の跡なのではないかと思う。

 祢津陣屋は、小田原役後の天正18年に豊岡1万石に封ぜられた禰津甚平信直の『陣屋であった。信直はもともとは信州小県郡の禰津神社の神官の子であったが、天正10年に真田昌幸の攻撃を受けて領地を失って放浪、徳川家康に仕えた人物である。小田原の役後、家康は関八州250万石に転封したので、それにともなって禰津信直も所領を得たというわけである。

 その後、慶長11年、禰津氏は三の倉に転封となり、禰津陣屋は廃城となった。陣屋が存続したのは16年間ほどに過ぎなかった。











常安寺前の水路と石垣。




八幡神社(高崎市八幡町)

 上野一宮である八幡神社は、比高10mほどの台地先端部にあり、なかなかの要害地形である。その背後に回り込んでみると、城郭遺構ともいうべき堀が眼に入ってくる。

 堀の幅は7mほど、深さも3mほどあり、なかなかの規模のものである。この堀が東西に100mほどに渡って延びているのである。この八幡神社は単なる神社ではなく、武装神社といったものだったのではないだろうか。

 しかし、誰がいつ、この遺構を構築したのかについては、はっきりしたことは分からない。
















八幡神社背後にある堀。深さ3m、幅7mほどの大きなものである。 堀の東端部分。




住吉城(高崎市我嶺町住吉字城山)

 住吉城は、烏川とその支流とが交流する間の、まさに要害地形に築かれていた。現在、遺構らしきものは認められないが、堤防の上のスナックの前に城址碑が建てられている。城址碑の位置はこの場所である。

 城址のあるところはまさに「洲の股」といった地形で、城を構築するにはふさわしい地形である。両サイドの川は、防御の要を成すと共に、水運を抑えうる位置でもある。

 「遺構は見られない」と書いたが、後でネットで検索してみたら、郵便局のそばに土塁と堀跡が一部残されているとあった。ちゃんと歩けば遺構と遭遇できそうだ。おそらく右の図の県道10号と水路の交わる辺りだと思う。


 住吉城は住吉玄蕃によって築かれた城であるという。箕輪城の支城の1つであった。また、後には清水正智が在城した。永禄9年、武田信玄によって箕輪城が攻撃された際、清水正智も討ち死にしたといわれる。この後、住吉城も廃城となったのであろう。














堤防上のスナックの前にある城址碑。
























大竹屋旅館