群馬県高崎市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人 

大類城(高崎市宿大類町)

 大類城は、宿大類町の熊野神社の東側一帯にあった。羽鳥自動車工場の前の道に城址碑が建てられている。


 大類城は戦国最盛期の城郭であり、かなりの規模を持った城であったようだが、平地城館の運命というべきか、ここもほとんど壊滅状態になってしまっているのであった。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基に描いてみた想像図が右のものである。

 周囲には畑地もけっこうあり、もっと遺構が残っていてもよさそうなものであるが、早い時期に耕地整理が行われたものであろう。土塁を崩して堀をすっかり埋めてしまったものと思われる。かろうじて城の雰囲気を残しているのは、慈願寺の南側を流れる川くらいのものであろうか。この川が城全体の南側の防御の郭を成す水堀であった。

 大類城は、本丸を中心とした環郭式の城郭で、原邸、安中屋敷、判形といった独立した環濠屋敷をも取り込むことによって、その規模を拡張していったものである。


 大類には大類氏という一族がいたが、そちらの居館は大類館であり、こちらはあくまでも戦国期に要塞として取り立てられたものであると言われている。『城郭体系』によれば、「下之城・飯塚城とともに、和田城の三方に配置された支城の1つ」であり、その創建は「箕輪城落城以後のものであり、和田氏が築き、新後閑右京介が城代として在城、天正18年に廃された」とする。


 ところで、大類と聞いて思い出すのは、昔の城郭研究者の大類伸である。子供の頃、「大類」なんて珍しい苗字だと思っていたものだが、この土地の出身だったんだろうなあ。この人が監修した『日本城郭事典』が、小学生の時の私の愛読書の1つであったから、「大類」と聞いただけで、なんとも懐かしい気分になってしまうのであった。

 私が子供の頃、城郭関係の本の著者と言えば、鳥羽正雄、大類伸、西ヶ谷恭弘の3名くらいしかいなかったのであった。それから思うと、現在はお城関係のことを研究している人は飛躍的に増えているなあ・・・・。




本丸跡に建つ城址碑。しかし、遺構はない・・・。 城域南側を区画する川。




大類館(高崎市南大類町)

 大類館は、大類中学校の東南600mほどの所にあった。北側を流れる川が湾曲している部分を利用して築かれた城館であった。ただし、この流路は現在は直線的に改修されてしまっているので、城址の北側の何割かはこの改修によって破壊されてしまっている。主郭を中心として、二重の堀を廻らせた城郭であったようである。

 右の図は山崎一氏の図と古い航空写真を基に作成した想像図である。

 川の南側の部分の方も宅地化が進んでいて、遺構の大部分は失われてしまっているようである。それでも、城の中心部であったかと思われる箇所は、現在も竹やぶとなって残っており、脇には堀と土塁と思われる構造物も見えている。ただし、私有地内部なのであまりきちんと見学することはできない。堀と土塁もかなり埋まってしまっているようで、痕跡的な状態である。


 大類館は、当地の豪族であった大類氏の居館であったと考えられる。大類氏は武蔵児玉党の一族で、平治の乱の際に、源義朝に属して戦った大類太郎の名前が『吾妻鏡』に見られるというから、非常に古い一族である。

 その後も、南北朝の騒乱期に足利尊氏に従って薩田山で戦死した大類孫太郎行光や、結城合戦の際に幕府軍に参加した大類中務丞兄弟など、歴史の要所要所でその存在を示している。上杉謙信関東侵攻の際の『関東幕注文』にも、大類弥六郎の名前が見えるという。

 しかし、戦国期になり、和田氏の勢力が伸長してくると大類氏は次第に圧迫され、和田氏に取って代わられたものと思われる。




城址北側を流れる川。流路が変えられ、かつての城域の北端部を削っている。 土塁と堀跡?




大類寄居(高崎市柴崎町寄居)

 大類寄居は、国道354号線旧道と県道183号線とが合流する柴崎町交差点のすぐ東南側にあった。

 『城郭体系』によると「近年堀を埋められて宅地となった」とあるので、昭和50年代初期に堀を埋めてしまったらしい。したがって、現在は見る影もないが、山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像図を描いてみた。

 現在は明確な遺構はなくなってしまっているが、航空写真を見ても分かるとおり、城館の形状は現在でもだいたい理解できる。特に城館の周囲に廻らされていた水路は現在も健在であり、なんとなく堀らしい雰囲気を留めている。中心部の館は60m四方ほどの規模であったと思われる。


 大類寄居は、柴崎地衆の寄居であったという。












かつての水堀跡の水路。




隼人屋敷(高崎市柴崎町隼人)

 隼人屋敷は、柴崎交差点の西500mほどの所にあった。

 こちらも、宅地化されてしまい、遺構は完全に消滅してしまった。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基にして描いたのが右の想像図である。単郭の居館の周囲にさらに水路をめぐらせるような構造であったらしい。中心部の規模は、大類寄居と同様、方60mほどの規模であったと思われる。


 隼人屋敷は、那波浪人原隼人の居館であったというが、この人物について、詳しいことは未詳である。原隼人といえば、一般的には武田家臣の原昌胤のことであるが、彼のことなのであろうか。原昌胤は上野国の取次ぎ衆となっているので、あるいはその関連でこの地に屋敷を設るといったことがあったのだろうか。

 しかし、原昌胤が那波浪人であったと言うのも変なので、やはり同名の別人なのであろう。








隼人屋敷周辺の水路。水堀に利用されていた可能性がある。




元島名城・打出(高崎市元島名町)

 元島名城は、関越自動車道高崎ICの南側の元島名集落一帯にあった。眼聖寺の南側から井野川にかけての範囲が南北の城域である。また、下井野川橋の北東側が元島名内出である。

 ご他聞にもれず、こちらも遺構はほぼ壊滅状態にあるので、山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像図を描いてみた。山崎氏の図ではもっと複雑な堀が廻らされており、周囲に展開していた環濠屋敷をも融合して城郭化したものと思われる。ただし、現状と照らし合わせてみても、旧状がどうであったか、どうにもイメージをつかみにくい。

 井野川に注ぐ2つの流れがあり、その流れを東西の堀のラインとして、その間に堀で区画した郭を配置するといった構造であったと思われる。この水路も変えられ、大規模な土地改良も行われているので、旧状を忍ぶよすがとなるものはほとんどない。丹念に歩いてみれば、堀跡などを見つけることもできるかもしれないが、今回はそこまで時間がなかったので、分からなかった。機会があれば探してみることjにしよう。

 元島名打出には民家の周囲に段差が見られるが、これが館の遺構といえるのかもしれない。打出の入口に当たる井野川橋の脇に立派な石碑が建てられていたので、「もしかして元島名城の碑?」かと思って近寄ってみたのだが、それは淡い期待に終わってしまう。石碑は戦死者を祭った顕彰碑なのであった。


 元島名城は、長井政実によって築かれたという。長井氏は武蔵御嶽城の城主であったが、武田信玄に従って軍功を立て、その褒賞として当地を与えられ、居城として築いたのが元島名城であったという。永禄年間のことである。(本島名にあるので、元島名城と書いているのだが、本来は島名城というべきかもしれない。)

 もっとも城主が島名氏であったという伝承もあるようだから、それ以前に島名氏の居館というものが存在していた可能性もある。

 天正10年、武田氏が滅亡すると、長井氏も没落したと言われる。その後、北条氏がこの城を利用したかどうかは定かではない。




















井野川対岸から城址方向を見たところ。 内出のある高台。
























大竹屋旅館