群馬県高崎市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人  城郭図鑑

下斎田城(高崎市下斎田町)

 下斎田城は国道354号線の下斎田の信号の北側200mほどの所にある。住宅地のちょっと奥にあるので、脇道に入って行かないと分からないが、航空写真を見ると、その形状をはっきりと見ることができる。現在でも遺構は良好に残されている。

 航空写真を基に図を描いてみたが、一軒の民家の敷地内となっているので内部探索はできていない。それでも、内部には土塁の高さがあるように見えるので、水堀と土塁を廻らせた城館であったものと思われる。50m×60mほどの規模である。夏場であったので草に覆われてしまっておりよく分からなかったのであるが、一部には石垣も築かれているようだ(といっても、石垣は後世のものである可能性が高いのではないかと思われる)。

 付近には諏訪神社がある。この周辺は路肩が広くなっているので、ここに車を停めさせてもらい、周辺を歩いてみたのだが、城址を発見するまでには少し時間がかかってしまった。分かってみれば、西側の道路からも見えているのだが、知らないとなかなか気が付かない。館の東側の道路が堀と接しているので、東側の道路からアクセスするのが一番分かりやすいと思う。

 宅地が密集している中にあって、このように見事に見事に水堀を残しているのは奇跡的なことであると言っていい。今後とも存続しててほしいと思う遺構である。


 下斎田城は、戦国期に田口氏によって築かれた城館であるという。玉村町斎田にも田口下屋敷というのがあるが、そこの館主と関連があったものだろうか。近世になっても田口氏は名主階級としてこの地の実力者であった。














東側の堀。しっかりと水が湛えられている。 西側の堀。草でよく分からないが、しっかりと堀が廻らされている。




若宮館(高崎市八幡原町)

 若宮館は、八幡原地区の南端近く、八幡神社の一帯にあった。井野川に望む河岸段丘上であり、西側は断崖地形となっている。

 八幡神社に行くと、南側に堀跡らしきものが見えている。この堀は竪堀となって井野川に落ちていく。なかなか大規模な竪堀である。また、八幡宮の背後には土塁があるが、これも城館と関連するもののように見えるのだが、これは古墳だという説もあるらしい。

 現状では北側と東側の区画が見られないが、かつてはこの方向も区画して、城館を形成していたのだと思われる。

 若宮館の館主等、詳細は未詳である。


 ところで、この神社には駐車スペースが3台分くらいしかない。すでに2台置いてあったので、私が停めていっぱいだったのだが、その後、何台も、車を停めようとしてあきらめて引き返す車がいた。たまたま、集会か何かがあったのだろうか。気になって、あまりゆっくりといることができなかったのであった。




















神社南側の竪堀。下は井野川の断崖である。




八幡原館(高崎市八幡原町)

 八幡腹館は、八幡腹の集落の中心部にあり、今も民家の周囲に水堀を残している。

 館の中心となっているお宅の西側と南側には水堀による区画が明瞭である。ただ、民家の敷地内だということと、周辺の道が狭くて車を停めていられないので、あまりゆっくりと見ることができない。それでも、南側の堀には折れがあることは分かった。かつてはこの堀が四周していたのだと思う。中心部の規模は70m四方ほどである。

 また、それ以外にも、集落の各地には水路が廻らされている。山崎一氏の図によると、南側の水路以外に、東側にも堀があったようで、二重堀の構造となっていた可能性がある。しかし、東側と北側の外堀は、現状では見当たらない。


 八幡原館の城主等歴史については未詳であるが、一種の環濠集落のようなものだったのであろうか。














民家前に残る水堀。





岩鼻陣屋(高崎市岩鼻町)

 岩鼻町の天神神社のあるところが、岩鼻陣屋の跡である。天神社が祭られている所は、かつての櫓台であった。

 陣屋跡の中心部は広場となっている。駐車場もあるので、車で訪れても安心である。降りてみると、天神社の下に案内板が設置されており、そこに初期と後期の岩鼻陣屋の図が書かれている。初期は天神社から北側だけの規模であったようだが、幕末近くになって南側の部分と、大手枡形とが増設されることになった。右の図は案内板の図に基づいたもので、岩鼻陣屋後期の状態を示したものである。陣屋の規模は、当初は80m×70m、後期は70m×200mほどあった。

 東側の土手jは往時のままであると思われ、水堀跡と思われる水路も残っている。しかし、北・西・南の三方向については、遺構は湮滅してしまったようである。


 現地案内板によれば、岩鼻陣屋の歴史は以下の通り

1 寛政5年(1793)、江戸幕府により岩鼻代官所が設置される。初代代官として、吉川栄左衛門と近藤和四郎が任命された。この芳川氏の墓は、隣接する観音寺内にある。

2 文政・万延年間(1818〜1861) 代官所が拡張される。 

3 慶応元年(1865) 木村甲斐守が関東郡代として着任。幕府直轄領、旗本領、寺社領等と武蔵6郡を支配した。

4 慶応4年(1868) 幕府の倒壊と共に、新政府は岩鼻県を設置し、大音龍太郎が初代の県知事となる。

5 明治4年(1871) 群馬県が成立し、岩鼻県は廃止される。県庁機能は群馬県に移管された。








天神社の祭られている櫓台。下に案内板がある。 東側の城塁と水堀跡。




木部城・心洞寺(高崎市木部町堀ノ内)

 木部城は、安楽寺の北側一帯にあった。かつての鏑川を北側の守りとした二重構造の城館が存在していたが、現在は宅地化のために失われてしまったようだ。そこで、山崎一氏の図と古い航空写真を基にした想像図を描いてみた。

 主郭部であったかと思われる部分も民家となっている。その家の前に、石碑が建っていたので、城址標柱かと思って近づいて見ると、そこには「堀之内組式子中」と記してあった。城址標柱ではないが、「堀ノ内」とあるので、ここが城址であったらしいことは一応理解できる。

 周辺を歩いてみたところ、民家の庭の奥に「堀跡?」と思われる窪みが遠目に見られた箇所があったのだが、私有地内のため、実際に堀跡なのかどうか、確認できてはいない。航空写真を見てみると、現在も堀跡のように見える細長い畑が見られる箇所もある。丹念に探せば、まだ遺構は残っているのかもしれない。


 木部城の城主は木部氏であった。木部氏は、源範頼の孫であった吉見氏の子孫であると言われる。一説によると、木部氏はもともとは石見国木部にいて木部氏を名乗っていたが、上野に移住してきたため、当地を木部と呼ぶようになったという。地名から苗字が派生するのが一般的だが、逆に苗字から地名が派生したという珍しい例であるという。

 しかし、武蔵猪俣党にも木部氏がおり、こちらの出身である可能性も否定しきれず、結局いずれが祖先であるのかは、はっきりしていない。木部氏は後に改易されてしまっているので、正しく歴史が継承されていなかったのかもしれない。

 戦国期の木部城主であった木部駿河守範虎は、箕輪城主長野業正の娘婿で、箕輪衆の一員であった。永禄9年に武田信玄の攻撃で長野氏が滅亡すると、木部氏は武田氏に仕えた。

 その後の木部氏の運命は転変とする。武田氏が滅亡した後は滝川一益に仕えるが、本能寺の変ですぐに滝川氏は没落。続いて北条氏に仕えるが、北条氏も小田原の役で滅亡。さらにその後、木部氏は徳川秀忠に仕え幕府旗本となったが、曾孫は不祥事を起こして改易となったという。どうも苦労の多い一族なのであった。


 木部集落北側にある心洞寺は、木部城主の菩提寺であるが、この寺院の前面には土塁が残っており、かつての城館であったことを思わせる。『関東地方の中世城館』ではこちらを「木部氏館」としている。木部氏の本来の館がこちらであったとしたら、木部城の方は、戦国期に新たに築き直されたものであったのかもしれない。





木部城本丸前辺りに建てられた「堀之内組式子中」の碑。 心洞寺入口に立つ石碑。
山門脇に残る土塁。




木部北城(高崎市木部町)

 木部地区北側にある玄頂寺が木部北城の跡であるという。

 玄頂寺の北側に回ってみると、玄頂寺がやや高い位置にあることが分かる。また北側には、堀跡かと思われる水路がある。

 南側の山門の西側には、城塁状の土手が残されている。そしてその内側には堀状の細長い池もある。しかし、この位置からすると、城塁の内側に堀があるということになる。となると、この堀状のものは城郭遺構ではなく後世の池なのかもしれない。であるなら、その脇の土塁や城塁も怪しいということになってしまうが、そこはなんとも言えない。


 木部北城は木部城の支城であったと考えられる。玄頂寺には南北朝期のものと言われている古い五輪塔があるので、寺院は古い時代から存在し、ある時期、武装化したということなのかもしれない。











山門脇の城塁。内側には水堀状の池がある。




山名館(高崎市山名町)

 県道173号線の南側にある光台寺が、山名氏の居館の跡である。

 山名氏といえば、室町時代に最盛期には一族で12か国の守護となり、最大勢力を誇った一族である。12か国は全国の国数の6分の1に当たるので「六分一殿」と呼ばれたりしていた。その山名氏の勢力圏は主に中国地方に集中していたので、山名氏と言えば中国の大名、といった印象があるのだが、その出身地は、群馬県の山名なのであった。鎌倉幕府に仕えていた当初はここに居住していたのであろう。

 山名氏の先祖は新田義重の子義範で、この地を拝領して山名氏を名乗るようになった。山名義範は、源頼朝に仕え、一の谷などの平家追討戦で活躍して、後に伊豆守を拝領することとなった。

 山名一族は、新田氏の有力氏族であったが、足利氏と親交があったようで、南北朝の騒乱の際には、足利尊氏に従って転戦した。そのため、室町幕府において大きな勢力を占めるようになってく行くのである。


 その館は光台寺の境内となっているが、現状ではあまり城館らしさを残しているとは言いがたい。というのも、光台寺は南側から見ると低地にあるので、見下ろすような位置にあるからである。しかし、南側には水路が流れ、これがかつての水堀の名残であったと思われる。

 光台寺の山門の前には案内板も設置されている。

山門脇の案内板と水堀跡。




和田下之城(高崎市下之城町)

 その名も下之城町の中心部一帯が和田下之城の跡であり、北側にある小公園に城址碑と案内板が設置されている。お盆の磁器に訪れたので、公園には盆踊りの提灯が多数ぶら下がっていた。小さいながらも、地元の人たちは、盆踊りに集まってくるのであろう。

 和田下之城は、和田城(現在の高崎城)主で、当地域の支配者であった和田氏によって築かれたものである。和田城の有力支城の1つとして整備されてきた城郭であった。

 しかし、現状では宅地化が進み、遺構らしきものはほとんど失われてしまっている。そこで山崎一氏の図・現地案内板の図と古い航空写真を基に想像図を描いてみた。

 下之城は、本丸を中心にした環郭式構造の平城であり、本丸の東西には細長い馬出状の郭が設置されていた。本丸の北側にも細長い通路状の郭が設置されている。城全体の東側を大手として、こちら側に城下集落(根小屋)が営まれていた。

 『城郭体系』の執筆当時(昭和50年頃)にはすでに遺構のほとんどは失われてしまっていたようで「北帯曲輪に番城山と呼ばれる高さ2.5mの土居が残っていたが、近年崩されてしまった」とあり、当時でも遺構は湮滅状態であったことが分かる。それでも公園周囲を流れている水路は、かつての堀跡であった面影をかろうじて残している。


 武田信玄の上野侵攻の際、和田氏は信玄に協力的であったようで、戦後、和田正盛は、旧領200貫文に加えて、2704貫文を与えたという。当時としてはかなりの勢力となったわけである。

 和田氏は、武田氏、北条氏と仕え、小田原の役で北条氏が滅亡すると、上杉景勝に仕えた。しかし、関ケ原合戦後に再び浪人して、今度は最上義光の家臣となり、2795石で鶴岡城代となった。

 その最上氏もやがて改易されてしまうので、和田氏はまたもや浪人することとなってしまうのであった。





小さな公園の奥に建つ城址碑。 本丸堀の名残。




倉賀野西城(高崎市倉賀野町)

 倉賀野西城は、倉賀野町の林西寺の南側にあったという。しかし、この地域は宅地化が著しいので、遺構の残存は望むべくもない。山崎一氏の図から想像するに、図の赤いラインが城址であったらしい。方100mほどの単郭の城館であったようだ。

 林西寺の南側の道路は、やや低い位置にあり、あるいはこれが堀のラインを示すのかもしれない。また、東側にはかつての堀のラインに沿って水路が通っているので、これがかつての堀の名残であると思われる。しかし、これ以外に、それらしいものを見ることはできなかった。


 倉賀野西城は、倉賀野城の西方を守る出城の1つであったと考えられるが、形状からすると、単なる豪族の居館であったようにも思われる。












東側の水堀跡。




朝日長者屋敷・万福寺(高崎市倉賀野町)

 倉賀野地区の南西部に、大鶴巻古墳という見事な前方後円墳があるが、その南側の河岸段丘南端部が万福寺の跡である。

 万福寺という名称ではただの寺院であるが、なぜか『関東地方の中世城館』には城館として採用されている。確かに周囲は川に囲まれた断崖となっているので、城館を構築するには絶好の要害地形である。武装寺院の一種であったのだろうか。

 いずれにせよ、万福寺跡は、一面の団地となってしまっているので、現在では遺構と思われるものは消滅してしまっている。


 朝日長者屋敷は、小鶴巻古墳の北側に隣接して存在していたが、現在は「ひだまりの社」という福祉施設になってしまい完全湮滅してしまった。山崎一氏の図から想像するに方70mほどの単郭の城館であったと思われる。右側のラインが「く」の字型に窪んだ形状を成していた。


 城館とは関係ないが、これらの城館跡の近くには、大鶴巻古墳という実に見事な前方後円墳がある。よく保存されているので、一見に値する。古墳の周囲には幅広の水堀もあり、わざわざ館など築かなくても、古墳そのものを利用すれば、簡単に城郭が営めるのではないかと思うくらいである。しかし、古墳を利用しなかったのには、何か宗教的な理由があるのかもしれない。

 ただし、古墳に隣接して城館が築かれているのには、多少の防御的要素を古墳に求めている、といってもいいと思う。






万福寺の城塁。烏川に臨む断崖である。 隣接する大鶴巻古墳は大規模で見どころが多い古墳である。




上稲荷前屋敷(高崎市倉賀野町)

 上稲荷前屋敷は、安楽寺の北200mほどのところにあったが、住宅街となり完全湮滅してしまっている。右の図は山崎一氏の図を基にして想像してみたものである。

 住宅街の中を走り回ってみると、ところどころに水路があるが、これが堀のラインと多少は関わりあっているのかもしれない。それにしても、道はどこも細いので、小さな車でないと、角を曲がる際にボディを傷つけてしまいそうだ。(実際、角には車がこすった跡が見られる。)


 上稲荷前屋敷の館主等、歴史について詳細は未詳だが、位置から考えて、倉賀野城主に属した人物の屋敷であった可能性が高いと思われる。
















永泉寺(高崎市倉賀野町)

 倉賀野駅のすぐ北西にある永泉寺の前面には堀跡と思われるものがあり、かつては武装寺院であったかと思われる。

 群馬県:歴史・観光・見所というホームページの解説によると、永泉寺の創建は天正元年(1573)、倉賀野城主、金井淡路守秀景が開基となり、自らの菩提寺にしたのが始まりであったという。戦国時代最盛期であるから、その際に寺院の周囲に堀を掘るなどの加工を施しいざという際には倉賀野城の出城として活用しようとしていたのではないだろうか。

 境内には、この金井淡路守(倉賀野秀景)の墓がある。金井氏は、小田原の役の際に討ち死にしたのだという。後には金井氏の奥方もここに葬られるのだが、その際に怪異な現象が起きたという。上記のホームページから引用すると、

「秀景の奥方が死去した際も永泉寺の境内に葬られましたが、その際、石仏風の霊石が出現しました。不思議な事にその石を移動しても、再び同じ所に戻ってくるので何時しか「幽霊石」と呼ばれるようになり現在は祠に収められ信仰の対象となっています。

 又、古くから境内には「ムジナ」の一家が棲みかとして住み着いていたと云われ、明治時代初期に倉賀野に鉄道が敷かれた際は、余りの騒音から「ムジナ」一家が腹を立て、汽車を止めるべく永泉寺の住職や小僧、黒い化け物などに姿を変え様々な悪さをして妨害したと伝えられています。」

 後半の話は「平成狸合戦ぽんぽこ」を思わせるような内容である(^^)。






山門脇の水堀跡。


























大竹屋旅館