群馬県高崎市(旧倉渕村)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の城と館』(宮坂武男)

*参考サイト  山城めぐり

鑰掛(かぎかけ)城(高崎市倉渕町岩氷字尾根山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 変わった名前の城である。「鑰」という字は、この城名で初めて目にしたものであった。当然、パソコンで変換しても出てこないので、単語登録することで入力ができるようになったのであった(パソコンの字も正確にはちょっと違う。実際は右側の旁の内部に口の字を横に4つ並べていたりするのだが、パソコンではそこまで細かく字を作れなかったようである)。

 鑰掛城は、相間川温泉から西方に2.5kmほど林道を入り込んでいった所にある比高160mほどの山稜先端部に築かれていた。目印も何もないが、入り口はこの辺りである。未舗装のけっこう荒れた林道の入口があり、これを進んでいくと、最終的には城内に到達するようになっている。城内には林道が何ヵ所にも造成されているが、林業の作業でも行っていたのであろうか。

 この城は一人では訪れる自信がなかったのであるが、今回は富岡武蔵殿と五郎殿の案内でアクセスすることができたのであった。ありがとうございます。

 山を登っていく途中に大岩があり、その上が細長い平場になっている箇所があった。いかにも「物見台」といった風情の場所であるが、城域からはかなり下方に当たるため、右の鳥瞰図にも描ききれなかった。もしかしたら遺構であるかもしれないので、一応、言及しておく。

 尾根上に出て、南側からアクセスしていくと、まず最初に4郭手前の堀切が眼に入ってくる。自然地形の尾根の上部分を見事にぶった切っている。なかなか見事な堀切で堀底が薬研状ではなく、箱堀になっているのが特徴的である・・・・と書いてみたのだが、よくよく考えてみると、堀切の間に林道が通っているために堀底の形状が改変されてしまったのかもしれない。したがって現状から単純に箱堀と断定するのは早計だという可能性がある。

 4郭内部を進んで行ってみたが、内部はやや平坦ではあるものの、自然地形そのままといった印象で、きちんとした削平は行われていない。基本的に自然の尾根のまま、堀切を入れることで城内に編入した場所、といった程度のものである。

 4郭の先には3郭の堀切がある。こちらは非常に大きなもので、深さは7mほどもある。この城の遺構規模にはさほど期待していなかったのであるが、この堀切の大きさはいい意味で予想を裏切るものであった。これだけの堀切を掘るのにはかなりの人数と手間が必要だったはずである。鑰掛城の加工度は思ったよりも高いもの、と見てもよいであろう。

 その先が3郭であるが、3郭もそれほどちゃんと削平された郭ではなかった。そこから東南側に傾斜した尾根が存在していたようで、それを段々に削平することによって、2段の小郭を展開させている。そしてその先に1郭の堀切が見えてきた。こちらも非常に大規模な堀切である。向こう側に聳える1郭の城塁は高さ10mほどもあろう。

 1郭によじ登ってみる。1郭内部は長軸30mほどであったが、こちらはきちんと削平されており、いかにも城の郭といった状態になっていた。1郭から北側を覗き込むと、そこには5の郭があった。左右に林道が通っているが、この林道はもともとあった通路を利用しているのであろうか。

 1郭の東南側下が2郭である。なぜ、西側の3郭ではなく、こちらを主郭に次ぐ2郭と判断したのかと言うと、この郭も1郭同様にきちんと削平されているからである。3郭などは規模は大きいが、自然地形のままなので、2郭ほどは重要でなかった郭であったものと推測される。

 1郭と2郭との間には堀切が入れられているが、これは他の堀切に比べるとだいぶ小ぶりなもので、他の堀切とは違ってヤブ化しており、あまり明瞭ではなくなってしまっている。

 2郭から先端下に降りていくと、そこには6郭があった。6郭からは尾根が下に降っており、遺構はここまでであると思う。6郭からかなり下方まで降りていった富岡武蔵殿は、「こちらの尾根を登ってくるのが大手道だったようだ」と言っていた。確かに、そういうルートがあってもおかしくない。ただし、直登とあまり変わらないので、かなりきつい登城道である。

 鑰掛城は、単純な構造ながら、大規模な堀切を何本も有しており、それなりに手間隙をかけて築かれた城郭である。上るのは大変であるが、それなりに見所もある城郭なのであった。

登って行く途中にあった物見台のような地形。下は巨大岩盤である。城本体よりはかなり下部にあるため、上の鳥瞰図には描かれていない。 西側の尾根伝いにアクセスすると、最初に見えてくる4郭手前の堀切。深さ4mほどあり、箱堀となっている。4郭は削平されておらず、自然地形のままである。
さらに進んて行くと見えてきた3郭の堀切。これは大きい! 深さ7m、幅10mほどもある。やはり箱堀状で、堀底幅がけっこうある。3郭もあまりきちんと削平されていない。 その南側の下は二重竪堀のような形状となっているのだが、鋭さを欠いており、ただの自然地形なのかもしれない。
4郭から段郭を下がって行くと1郭の堀切が見えてきた。これまたでかい! 深さ10m近くもある。 1郭の堀切を側面部から見てみた。
1郭内部。ここはきちんと削平されたスペースになっていた。 1郭から下の5郭を見降ろしたところ。
1郭と2郭との間の堀切だが、こちらはけっこうヤブで、写真では分かりづらい。 2郭先端下の6郭。
 鍵掛城について、その歴史はまったく不明である。街道からも集落からもかなり奥に引っ込んだところにあるので、地元勢力の拠点というよりは、地元住民の避難所だったのではないか、というような印象を持った。

 箕輪初心さんは、箕輪地域と佐久地域とを結ぶ狼煙の中継所として、この地に狼煙台を設置する必要があり、鑰掛城は、武田氏による狼煙台ではないか、というように想定している。

 この山間部を利用した狼煙ルートが存在していたとすれば、ここにそのための拠点があったとしても不思議ではなく、なるほどと思う意見である。

 ただ、この城は一言で狼煙台と片づけてしまう規模の城郭ではない。相応の人員が籠城することを想定した構えである。もっとも、発想を変えて、それだけの規模の城郭が狼煙の中継地点としての機能をも有していたというように考えれば矛盾はないのかもしれない。

 となると、鑰掛城は武田の番城であったということになるが、それについては、確たる根拠がないので、これからもう少し調べてみたいと思う。




天狗山砦(高崎市倉渕町川浦字古城)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 天狗山砦は、東善寺の西1kmほどの所にそびえている比高120mの天狗山に築かれていた。遠くからでもいかにも目立つ山で、近くまでくれば、どれが天狗山であるかはすぐに分かる。

 県道35号線を走っていると、この辺りから切り通しの登り坂が見えてくる。ここが砦の登り口である。駐車場はないが、近くの路肩に余裕のあるところに車を停めて登り始める。

 山頂には神社が祭られているため、上まで参道が付けられている。上記の入口のところから畑の中を山の方に通って行く道が見えているが、これをまっすぐに進んでいけば、参道に入ることができる。ただし、山の周囲には柵が廻らされており、登るためには柵を開けなければならない。柵は開けたら、必ずきちんと閉めるようにしよう。

 柵を抜けて進むと正面に山の斜面が見えてきており、これを直登するのが参道ということになる。参道とはいっても、急斜面をただ登っていくだけなので、かなり厳しい道である。もう少し規模の大きな神社であったなら、石段を構築するはずの参道である。

 上がったところが東側の尾根部分となる。尾根の上は比較的平坦であるので、郭として利用していた可能性が高い箇所である。ただし、縁部分は自然地形のままで、人工的な切岸加工は特に見られない。

 これを進んでいくと緩斜面の登りとなる。この途中にわずかに切岸による段差が造作され、テラス状の小郭が2段ほどある。これを抜けて行くと、神社のある山頂部が見えてくる。

 山頂の1郭は長軸15mほどで、かなり狭い空間である。この規模では大人数を収容することは不可能で、天狗岩砦が、籠城のための要害というよりは、烽火台か物見の施設であったことを物語っている。

 1郭の周囲には浅い土塁が見られる。神社があるので、そのためのものとも考えられなくはないが、山頂部を削平した際に、縁部を削り残したために生じたものと見るのがよさそうである。

 1郭の北側と西側の下にもテラス状の郭がある。このうち、西側は尾根続きとなり、間に浅い堀切がある。現状では深さ1m程度の小規模なものとなっている。その先の尾根は自然地形のままである。

 天狗岩砦は、北側にある明神山砦よりもさらに小規模で、烽火台、あるいは物見台として構築された連絡用のつなぎの城であったと思われる。

北側の東禅寺辺りから遠望した天狗山。いかにも目立っている山なのですぐ分かる。 神社参道の入口。この先をひたすらまっすぐ進んでいけば参道に到着する。ただし、途中に柵がある。
東側の尾根を利用した平場。右手の奥に主郭部が何となく見えている。 西側の尾根から、堀切越しに神社のある主郭を見たところ。堀切は、現状では深さ1m程度である。
1郭内部。天狗を祭った神社がある。周囲には低い土塁が廻っている。 神社参道を上から見下ろしたところ。両側に杉並木が植えられている。急斜面直登である。
 天狗山砦の歴史について、史料等には表れてこず、詳細は不明である。しかし、狼煙や物見を主体とした城郭であることから、戦時において繋ぎの城として活用されたものと思われる。




中尾城(高崎市倉渕町水沼字中尾)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 中尾城は、県道33号線の南側に見える比高20mほどの、東側に延びた細長い台地に築かれていた。中尾公民館のすぐ南側である。東側はヤブもなく、城本来のもののような切岸がよく見えている。

北側側面部の切岸はいかにも城塁らしく見えており、なかなか堅固そうな印象を受ける。

 城域の西側が切通しの道路によって分断されているが、ここがもともとの堀切の跡であった可能性があるだろう。ただし、城内側ではなく反対の西側の方が高くなっているので、西側に敵が陣取ってしまうと、城内は丸見えとなる。この切通しの端に瀧澤家の墓所がある。

 この切通しから城内に入りこもうとしたのだが、あまりにもヤブがひどいので断念した。そこで、南側の斜面を降っていったら、先端近くなって、台地に登る道が付けられていルのを発見。そこから上がってみることにした。

 上がるとそこは先端近くの平場であったのだが、けっこう傾斜した地形である。そこから緩斜面を西側に進んでいくと、塚が1つあり、これが土塁のように見える。

 そこから先は竹藪になっているが、進入してみると、塚から続く細長い尾根状の地形と、その下の腰曲輪状の地形とがある。腰曲輪状の部分はやはり傾斜している。その先が広い区画となっているようだが、ヤブがひどくて進入できない。

 このように中尾城は、側面部の城塁に城郭らしさを見せているものの、内部は傾斜地形となっており、明確な城郭遺構にも欠けている。城郭としてははなはだ完成されておらず、あるいは未完成の城郭であったのかもしれない。



 中尾城について、歴史等、詳細は不明である。碓井方面から地蔵峠を通って、倉渕に抜ける街道沿いにあることから、この街道の要衝として活用された城郭であった可能性が高い。








中尾城の東端部分を見たところ。コンパクトにまとまって見える。 北側の城塁。木も生えておらず、往時のままであると思われる。
城内にあるどういん塚。 竹やぶになっている腰曲輪は傾斜した地形になっている。




小栗上野介屋敷(高崎市倉渕町権田字観音山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 小栗上野介屋敷は、国道406号線沿いにある比高50mほどの観音山の上に展開する台地にあった。台地上には駐車場や案内板なども設置されており、車で上がることもできるのだが、その入り口が分かりにくい。登り口の車道の入口はここである。

 観音山は尾根続きの東側を除く三方向が急峻な斜面に囲まれており、その上に兵站部が存在するというテーブルマウンテンのような地形となっている。山頂部は長軸200mほどもあり、けっこうな広さである。この規模であれば、かなりの人数が籠城することもできる。

 このように平坦部があるとはいえ、下の街道から登ってくるのはけっこうな手間である。山麓の平野部に屋敷を置かず、このような山上にわざわざ建てたというのは、いざという時には、ここに籠城することも想定していたのではなかったのかと思いたくなるような地取りである。小栗上野介は、新政府軍に捕縛され、ろくに取り調べもないまま反逆罪で斬首されてしまうことになるのだが、それには、この屋敷の要害性も絡んでいた可能性がある。

 細い車道を登り切ったところには駐車場の案内があった。看板のあるところの平場がそのスペースである。しかし、そこが駐車場にみえなかったので、最初は、先の方まで行き過ぎてしまった。

 さらに進むと道は下り坂になり、そこに「小栗邸はこの下です」と書かれた案内がある。そこで坂道を降っていくと、そこに平坦部があった。これが小栗屋敷の跡であるらしい。

 印象的だったのは、入口に水路があり、大量の水が流れているということであった。これだけの水量が確保できれば、大人数による籠城の際も水に困ることはまずあるまい。籠城を意識した屋敷構築であったという印象はますます強くなる。

 この水路の先を見てみると、水は小さな滝となって上から落ちてきているのであった。この滝は、かつては庭園の一部となっていたのであろう。

 その脇に案内板と標柱が立てられていた。市指定の史跡となっているため、現地での案内は親切である。しかし、登り口に案内表示がない。ひょっとしたら見落としたたのであろうか。入口に案内がなければ、現地までたどり着くのに迷ってしまうのではないかと思う。ぜひ入口にも案内を設置していただきたいものだ。

 小栗上野介は幕臣として各種の奉行を歴任し、近代工業化や幕府財政の立て直しに尽力したが、薩長との主戦論が退けられたため、ここ権田村に隠棲した。

 明治新政府軍が進攻してした際には、武装解除に応じて恭順していたが、慶応4年4月4日、新政府軍に捕縛され、翌日、烏川の水沼川原において斬首されてしまった。権田村に隠棲してからの小栗には、新政府軍と事を構える気はなく、処刑の理由は言いがかりに近いものであった。

 墓は東善寺にある。

小栗邸跡の内部。 脇には滝が流れ落ちていた。豊富できれいな水流である。































大竹屋旅館