群馬県高崎市(旧榛名町)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の城と館』(宮坂武男)

高浜の砦(坂上城・高崎市榛名町高浜字坂上)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 県道29号線と県道137号線とが合流する高浜の交差点のすぐ北側の低い台地が、高浜城のあったところである。明瞭な遺構としては北側の堀が一部残っているのだが、その位置はちょっと分かりにくい。この部分である。

 高浜城は城域がかなり広大なのであるが、車を停めるスペースがないので困ってしまう。あちこち車で走ってみたのだが、どうにもならず、結局東側の高源寺の駐車場に置かせていただいた。高源寺は、高浜城主坂上氏の建立した寺院であるので、城を訪問したついでに、ここに参詣するのもよいだろう。

 唯一の明瞭な遺構の北側堀切は、西側半分が現存している。薬研堀状の底が、西側の低地に向かって延びて竪堀状になっているのがよく分かる。これに連動するように、城内側の土塁も途中から傾斜して竪土塁の形状を成している。

 そこまではいいのだが、城内の郭そのものも傾斜した地形となっている。堀のしっかりとした造作に比べて、内部の加工がやや甘い印象を受ける部分である。

 城内には何段かの段差が見られるが、内部には数件の民家が建てられているので、後世の改変と本来の地形とが混交しており、どこまでを遺構として把握すべきなのかがよく分からない。本来数段の郭が並列していたと思われるのであるが、旧状を想像するのは難しい。もともと何郭ほどの郭が存在していたのであろうか。

 高浜砦の南端部は烏川に臨み、西側には高浜川もある。すぐ真下を国道406号線と県道137号線とが通っており、水陸の交通の要衝となる地点である。城の規模からしても、「砦」というよりは「城」と呼ぶ方がふさわしいくらいのものである。別名を坂上城とよぶらしいが、坂上城という呼称を使用する方が適当のように思う。



 『境目の山城と館』の解説によると、『関八州古戦録』に、高浜砦が武田氏が箕輪城攻撃の際に攻め落とされている記述があるという。武田勢は、まず雉郷城を攻め落とし、次いで高浜砦を攻略したという。

 しかし私の手持ちの『関八州』を見てみても、そのような記述は見受けられなかった。確かに箕輪城攻めの話は出てくるのだが、高浜砦のことは触れられていない。あるいは諸本によって、内容に異動があるのであろうか。






高浜城の東側の城塁。道路はかつての堀跡であろうか。 北側の堀から見て南側の民家敷地内部にある土塁。
北側に残された堀切の跡。薬研状で、西側に竪堀となって落ちている。 左の堀の東側部分は民家となっており、わずかな窪みしか見られない。
城の南端、1郭があったと思われる辺り。 城の南側先端部。「坂上城主建立の高源寺」の案内はあるが、城址表示などは見られない。
東南の橋には神社が祭られている。 高浜城東側の城塁。




御門(みかど)城(久留間の砦・本郷の砦・高崎市榛名町本郷字三角)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 本郷町の景忠寺のある比高10mほどの台地が御門城の跡である。

 御門城の1郭は寺院の境内となっている。普通、寺院というのは誰でも立ち寄れるようになっている場合が多く、城址が寺院となっている時は安心して訪れることができたりするのだが、景忠寺の場合は、入口の門が閉ざされていて、勝手に境内に入ることができないようになっていた。

 というのも、寺院の境内はそのまま本郷保育園の敷地となっているからである。本郷保育園は、景忠寺が経営する保育園なのであろう。近年は保育園の警戒も厳しくなっており、部外者が勝手に進入することなどとてもおぼつかないのである。その代り、寺院周辺には保育園の駐車場が何か所にもあり、車を停めるためにはまったく苦労しない城址である。

 台地は1郭から北側にも続いているが、その間に堀切を入れている。この堀切は半分近くが埋められており、堀底に車庫が建てられて改変もされているが、現状からでも、なんとなく旧状をうかがい知ることは可能である。堀に面した1郭北側には一部土塁も残されている。西側の一部が土橋となって寺院境内と接続している。

 2郭は全面的に墓地となって改変されている。基本的には平坦な地形であるが、北側には腰曲輪があり、それに面する城塁の一部には折れが見られる。

 2郭の南側が大手口と呼ばれている部分である。ここには切通しの通路が開口している。ここが大手門の跡であったということだろう。この切通しは大手門を置くにしてはかなり小規模な観が否めない。大手口の規模がこれくらいだということは、城全体の構造物も、さほど大きくはなかったのであろう。

 大手口から見ると、南東側の民家の脇に土壇状の地形が見えていた。出丸か何かがあったのであろうか。だとしたら、けっこうおもしろい意匠である。

 基本的に、御門城は2郭構造の城郭であった。市街地の中でかなり改変されているとはいえ、側面部の城塁などには要害らしさを見ることができる。とはいえ、平野部に築かれた城館であるから、急峻な山城などと比べたら、防御力は比較にならなかったであろう。


 御門城は、長尾一族の城館であったと言われている。戦国末期、この長尾氏は、箕輪城の長野氏の配下となっており、長尾景忠が城主であったという。この人物がまさに、景忠寺を建立した人物であろう。



景忠寺の入口にある城址標柱。 1郭と2郭との間の堀切跡。
南側の大手虎口・ 1郭北側の堀跡。かなり埋められている。
1郭北側にわずかに残る土塁。 1郭南側の城塁。
 




大久保の砦(石井讃岐館・高崎市榛名町中室田字大久保)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 中室田の大山祇神社の北東側部分が大久保の砦跡と言われているところである。

 現地を訪れてみると、大山祇神社のある位置がなかなかの要害地形であり目立っている。地形なりに三段に造成されている。ただし面積は狭隘であり、神社の建物を置くのがやっと位のスペースしかない。明らかに神社の敷地として造成された部分であるが、往時はここは物見などに利用されていたであろうか。南側の低地から城址方向に進入していく際に、この神社のある高台からは、侵入者を攻撃しやすい。この間の部分が関門として想定されていた可能性は高いであろう。

 実際の館跡と想定されているのは、石井家のある平場である。平場の下は6mほどの石垣になっている。もっとも往時は石垣などなかったであろうが、急峻な土手が館部分を守っていたのに違いない。

 この石井家は城主石井讃岐のご子孫の家系であるようで、そうした意味からも、このお宅のある部分が館の跡であったとみてよさそうである。

 このように南側からの守りには固い大久保砦であるが、北側の山稜部分からは特に防御施設はない。北側からの攻撃は想定外だったのであろうか。そういう意味では、大久保砦は「砦」や「城」というよりは、居住のための「居館」のイメージの方が強い城館である。







大山祇神社の入口。急峻な台地上にある。 石井讃岐の居館があったと言われる部分は、現在も石井家のお宅となっている。




武右衛門屋敷(高崎市榛名町下室田)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 鷹留城の北側を通っている広域農道から、林道を300mほど進んでいった所に武右衛門屋敷の跡がある。林道の入口はこの地点である。入口は割とよさそうな道に見える。しかし、それは入口だけの話である。

 その先は未舗装でかなり狭い道となっている。車でも行けないことはないのだが、林道を走り慣れていない人には運転は厳しい。そういう人は、素直に入口に車を停めて歩いて行った方が無難である。歩いても、入口から屋敷まで5分はかからない。

 途中に道が分かれるところが2か所あるが、その2つ目の箇所の辺りが武右衛門屋敷跡ということになっている。

 屋敷跡といっても、それほど広くもなく、明瞭でもない。それにヤブのために全体構造は把握しがたいものがある。それでも、東側と西側に土塁があるのが見えている。特に西側の土塁はけっこう大きなものである。ただし、西側の土塁の上を進んでいくと、途中から切通しの通路のようになっており、土塁だか何だか分からなくなってしまう。実際のところよく分からない遺構である。

 屋敷跡の南側に、1つだけポツンと墓石が置かれていた。城主に関連するものなのであろうか。


 武右衛門屋敷に関して、歴史等詳細は不明である。しかし、武右衛門屋敷というくらいであるから、武右衛門という人物がいたことは確かなのであろう。

 鷹留城
のすぐ北側に位置することから、鷹留城と何らかの関連があった施設だったのではないかと考えられる。




武右衛門屋敷東側の土塁と通路。 西側の土塁。




室田の内出(高崎市榛名町下室田字下町)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 市立下室田小学校のすぐ南側が、室田の内出である。この辺りは旧榛名町の市街中心部に当たっているため、早くから民家が建て込んでいたらしい。そのため、明瞭な遺構はなくなってしまっている。

 ただし、南側に回り込んでみると、館跡と思われる部分が一段高くなっていることが分かる。おそらくこれが館の南側のラインを示しているのではないかと思われる。また、西側にも城塁ラインの名残かと思われる道路があり、何となく館の規模をうかがい知ることができる。

 南側を流れる滑川も、城の守りの一部となっていたであろう。


 室田の内出について、歴史等詳細は不明であるが、中村氏の居館であったという説がある。










わずかに南側に見られる段差が、館跡の痕跡を残している。




駒寄の内出(高崎市榛名町下室田字駒寄)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 駒寄の諏訪神社一帯が、駒寄の内出である。

 駒寄の諏訪神社の辺りを「内出」と呼ぶ。「内出」は城郭関連地形である。『境目の山城と館』には「当地域で内出とは砦のことを指す」と書いてあり、内出=城館と判断しているようである。

 しかし、内出を即、城館と判断してよいのだろうか。確かに「内出」地名を持つ城館というのは全国各地に存在している。

 そもそも内出というのは、「打出」ともいい、検地を最初に始める場所のことを示すものであり、城館とは関連がない。だが、領主が検地を自分の居館の近くから始めることも多かったようで、それで城館近くに内出地名が残るようになったものであるという話を以前に聞いたことがある。つまり、「状況によっては城館の近くにある地名」というわけで、これがそのまま城館を示すものとまでは言えない。

 しかし、群馬では「内出」=「砦」というのであるから、何かそういう特殊性を持った言葉になっているのかもしれない。

 さて、実際に内出地名が残るのは、諏訪神社の南西側下の部分である。諏訪神社が居館跡だとすれば、まさにその近くで「検地の打ち出しを行う場所」といってもいい位置である。

 諏訪神社が館跡であると想定される。神社の東側を通っている道は、堀跡であるという伝承もあるようで、そうなれば、諏訪神社のある場所は、まさに「堀之内」ということになる。

 もっとも、すぐ北側にはもっと高い台地があるので、要害性の観点からは理想的な場所ではない。とはいえ、ある程度古い時代の居館であれば、このように高地に寄り添った位置取りをしていても、特に不可解であるとは言えない。


 駒寄の内出の館主等、詳細は未詳である。「駒寄」は牧場関連の施設を示す名称で、鷹留城の牧場がこの辺りにあり、それを監視する施設であった可能性はある。

諏訪神社の東側の道路は、堀跡だと言われている。




宮沢の内出(高崎市榛名町宮沢字下宮沢)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 下宮沢の長光寺とその東側が宮沢の内出である。

 内出の地は、西側の台地縁部近くにある。こちらは比高10mほどの急峻な土手になっているので、これを防御の要とするのは合理性がある。この縁部が館の中心であったろうか。

 その縁部のみならず、東側の寺院のある一帯が、館跡だったのではないかと想像する。もっとも、現在では土塁や堀は認められない。周囲には水路がいくつかあるが、これらが、あるいはかつての堀のラインの名残を留めているのかもしれない。

 ただ、寺院の東側や北側は、寺院よりももっと高い地勢にあり、こちらがわから攻撃されたらひとたまりもない位置関係である。

 駒寄の内出の項目でも述べているが、古い時代の居館であったら、そういう地取りをしていたとしても、さほど不思議ではない。谷戸式居館とまでは言わないまでも、背後に高地がそびえている居館というのは、古い時代にはいくらでもあったのである。


 宮沢の内出は、長野氏に仕えた清水家の居館であったと言われている。







長光寺は一段高い位置にある。この西側の台地端部分が内出である。




御岳山の砦(高崎市榛名町上里見御岳山・安中市下秋間)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 高崎市と安中市との境界に比高210mの御岳山があるが、ここが砦であったと言われている。南側の県道211号線の雉郷峠を北側に少し降ったこの位置に御岳山への登り口がある。

 この道は車でも十分通れる道であり、入り口に「御岳山入口」の案内表示が立てられているが、車両通行禁止になっていることもあるようなので注意が必要だ。その場合は、ここから歩いて登ることになる。歩いたとしてもたいした距離ではないので、10分もあれば山頂に到達できると思われる。

 御岳山の山頂部分は削平されており、そこにはたくさんの石碑が建てられていた。なるほど、信仰の山なのだなあと思うところであるが、石碑が乱立しすぎていて、何を祭っているのやら分からない。

 石碑群の前面に「小里公園の案内」が建てられていた。しかし、北側の入口には「古里公園」と記された標柱が立てられていた。「小里公園」と「古里公園」のどちらが正しい名称なのであろう。

 山頂部はそれほど広くはないが、とにかく眺望がいい。東西にエッジ状に延びた山稜であるので、北側も南側も遠くまで見晴るかすことができる。この1郭から西側や東側の一段下にも郭が造成されている。西側の一番低い部分は鞍部となっていて、天然の堀切であったかのようにも見える。

 また、東側の下には東屋の設置されている平場もあり、こちらには多少なりともまとまったスペースがある。もし車で来ることができたとしたら、この2郭が駐車場として利用できる。

 御岳山の砦は、大規模ではないが、非常に目立つ位置にあり眺望も利いているので、狼煙台、物見台などとして活用するには適地であると思う。


御岳山から北側平野部を遠望したところ。すこぶる眺望が良い。 北側下の小郭から見た1郭。
山頂部分。たくさんの石碑が乱立している。 2郭にある東屋。駐車スペースもある。




神戸(ごうど)の砦(高崎市榛名町神戸)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 神戸の戸榛名神社のある比高50mほどの台地に神戸の砦があったという。榛名神社というのは他にもあるが、戸榛名神社というのはどういう意味なのであろう。榛名神社の戸張(入口)に当たる場所に祭られている、といった意味合いでもあるのだろうか。

 神戸の台地は、かなり要害地形である。台地続きの北側以外は比高40mほどもある急峻な土手に囲まれており、守りやすい場所である。この土手を貫いて現在は新幹線が通っており、近くまで来るとその高架の大きさにも圧倒される。

 車で台地上に登っていくと、登り切った辺りに、堀状の地形を見つけることができる。「城の遺構か?」と思ってしまいたくなるところなのだが、実際にはこれは「旧大野道」といい、旧道であったようだ。台地を上がってくる部分が切通しになっているので、堀のように見えたというわけだ。

 この台地は上記のような地形であるので、このうちのどこに城館があっても不思議ではないのだが、台地そのものはけっこう広大であるので、城館が置かれたのは、このうちの一部であったと思われる。

 台地内奥部には戸榛名神社があり、この場所が城館跡と目されている。神社に行ってみると、周囲には土塁のようなものが見られる。しかし、これは神社に伴うものであり、城郭関連遺構ではないであろう。

 『境目の山城と館』の図を見ると、この神社の下の西側に堀の一部が描かれている。というわけで、その部分を確認しようと思ったのだが・・・この一帯、ヤブがあまりにもひどくて、堀跡が残っているのかどうか、確認できなかった。というわけで、神社周辺に確実に城館遺構と思われるものを確認することはできなかった。

 となると、神社のある部分が実際に城館の跡といえるかどうかも心もとないのであるが、一応、ここが城館跡であると推測するしかない状況である。


 神戸砦は、宮司であった桜沢伊賀守の居館であったという。桜沢氏は箕輪城の長野氏に属していた。
 

台地の内部を新幹線の高架が通っている。 堀跡?と思ってしまったのだが、旧大野道の跡のようで、かつての参道であったものだろう。




三ツ子沢の砦(高崎市榛名町三ツ子沢)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 三ツ子沢の諏訪神社の一帯が三ツ子沢の砦の跡であるという。

 三ツ子沢とはまた、珍しい地名である。三つ子に関する何らかの伝承でもあるのだろうか。、また、沢とはどの箇所を指しているのであろう。北側に川が流れているので、その辺りのことなのであろうか。

 諏訪神社のある辺りが城館であったと考えられている。中央部を切通しの道路が通っており、これが堀を示しているようにも見える。居館を置くには十分な場所である。

 諏訪神社の他にも、その南西側に、やはり切通しの通路が見られる。これらも堀と見られなくはなく、すると三ツ子沢の館は、かなり広大に展開していたものとも考えられる。


 三ツ子沢砦は、新井氏、もしくは清水氏の居館であったと言われているが、詳しいことはよく分からない。






諏訪神社のある部分が砦跡だったのではないかという。周辺には他にも切り通し状になっているところがある。




白岩の砦(高崎市榛名町白岩)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 白岩の砦は、旧三郷町との境界近く、県道137号線沿いで、長谷寺の北200mほどの所にあった。

 白岩砦のある位置は、谷戸部に挟まれた低地である。この地にはかつて入野坊と呼ばれる寺院があったようで、現在は館跡の上方の部分にこれが移されている。

 現在の入野城の北側は背後が山稜となっている。そのため、これを天然の防塁と見立てたのであろうか。山稜上から攻撃されたらひとたまりもないが、こちらからの接近は想定外のようである。

 館の西側には川が流れており、これが天然の堀であったと思われる。また、館のすぐそばを川が流れているというのは、水量確保の観点からも、水源を抑えるという意味合いからも、理想的なことであったろう。

 館の南側は県道137号線を挟んで、土手になっている。北側は低地が奥まで続いている。

 城としての明確な遺構はなく、防御性も万全ではないが、古い時代の居館を営む場所としては、確かにありそうな位置である。


 白岩砦は、浜名氏の居館であったと言われている。






砦跡の西側を流れるその名も小堀川。




遠北の陣城(高崎市榛名町高浜字遠北)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 高浜交差点の北側900m、JR久留間の施設がある一帯が遠北の陣城の跡であるという。

 現在では明確な遺構は残されていないが、山崎一氏の図を見ると、かつての教育会館跡地の北側と南側には堀が存在していたようである。東側にも堀があったはずだが、それは山崎氏の図面にも記載されていないので、そうとう古い時代に失われてしまったものであろう。

 南北の堀の間の距離は50mほどで、陣城としてはいささか小ぶりだが、本陣の区画がこれであると想定すれば、そのようなものであるかもしれない。

 北側の堀は、アパートの敷地になってしまっており、まったく痕跡も認められなくなっているが、南側部分については、教育会館敷地との段差が、かろうじて堀跡の痕跡のように見えている。


 陣城というくらいだから、何らかの合戦に際して構築されたものであると思う。伝承では、永禄年間に武田信玄が箕輪城の長野氏を攻撃した際に、ここに陣を置いたのであるという。『関八州古戦録』には、箕輪城攻撃を目途とした武田勢が、高浜砦を落とし、さらに白岩砦を攻撃したといった記述があるというが、その際の前線基地として築かれたのが、この陣城であったと想定される。

 一時的な構築物であったとしたら、それほど大規模な堀を掘ることもできないであろうし、自然と失われてしまったのも無理はないと言える。









南側の堀跡と言われている部分。
























大竹屋旅館