群馬県高崎市(旧群馬町)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人 

三ツ寺遺跡(高崎市三ツ寺)

 三ツ寺遺跡は高崎市立群馬南中学校のすぐ西側にあった。発掘後埋め戻されてしまったのか、現在では明確な遺構は見ることができなくなってしまっている。なお、背後の新幹線高架の壁に遺跡の案内板が設置されている。

 現地案内板の図を参考にしてラフ図を描いてみた。一辺が86mほどの方形の区画で、2箇所に出枡形のような張り出し部と、4箇所に、まるで新府城のような出構えを備えている。一見して技巧的な城館といった印象を受ける。

 ところが、この遺跡は今から1600年以上前の5世紀後半の豪族の居館であるという。古墳時代の城館である。かつて、「このような技巧的な構造が現れるのは戦国末期」というような荒削りな縄張り論が展開されていたこともあったが、実際には、戦国時代をさかのぼること1000年以上の地方の豪族に、同様の技巧的構造物を構築する意識があったのである。画一的な縄張り論だけでは、城館の歴史を正しく認識することができないということを改めて思い知らせてくれる遺跡でもある。

 確かに、こうした構造は技巧的なものであるかもしれないが、思いつくのに、それほど難しいものではないと思う。古墳時代の人間が、同様の防御構造物を発想したとしても、それほど不思議なことではないのではないか。それにしても、復元した状態で保存してくれたら、実に見ごたえのある遺跡であったのだろうが、残念ながら、現状では想像を働かせてみることしかできない。埋め戻すことによって恒久的な保存を図ったのであろう。ま、破壊されるよりはよほどいい。それでも、遺構の南西部分は、新幹線の高架によって破壊されてしまったものと思われる。


 三ツ寺遺跡は1980年代初頭の、上越新幹線の高架建設のための発掘調査によって発見されたものである。往時は、堀底に古墳と同様の葺石が敷き詰められていたのだという。当時の豪族の勢力が強大なものであったことを想像するにあまりある。堀幅も、20〜30mほどと、中世豪族の居館の堀とは比べ物にならないほどの規模のものである。

 この地域には巨大な前方後円墳がいくつも残されているが、その主の居館の形状についてはよく分かっていなかった。この遺跡が発掘されて初めて、「巨大古墳を造成する勢力のあった豪族の居館の形状」というものが明らかになったのだという。









三ツ寺屋敷の辺り。すでに遺跡は埋め戻されてしまったらしい。




北谷遺跡(引間城・高崎市引間)

 2005年に国の史跡に指定された北谷遺跡は、冷水交差点の南西200mほどのところにあった。国指定史跡とはいえ、途中の道や入口に案内板がないので、どこが遺跡なのかよく分からない。せめて入口にだけでも案内がほしいところである。

 現地案内板を参考にしてラフ図を描いてみた。現状では、堀の一部を除いて遺跡は埋め戻されてしまっているようで、右の図にあるような技巧的な部分は見当たらない。三ツ寺遺跡と同様、発掘復元保存ではなく、埋め戻すことによって恒久的な保存を図ったものなのだろう。

 北谷(きたやつ)遺跡も、三ツ寺遺跡と同様に、古墳時代の豪族の居館の跡である。三ツ寺遺跡と同様に出構えのような張り出し部分が何箇所かに設置されていて、なかなか技巧的、というか戦闘的な居館であった。4つの角には土橋による接続部分があるが、このままでは、防御的に心もとない。実際には、もう少し明確に分断されていたのではないかと想像したくなる所であるが、実際の所、どうだったのであろう。

 館の規模は90m四方ほどと、三ツ寺遺跡と同様の規模で、堀幅も30mほどある。堀の深さは3mほど。堀底や出構えなどの張り出し部には、表面に葺石を貼り付けていた。堀幅が広大なのは、水利権を象徴するためのもので、溜め池としての要素もあったのであろう。


 残念ながら館主がどのような人物であったか知ることはできないが、古代毛の国の支配者たる豪族の1人であったものだろう。



















北側の城塁。




保渡田城(高崎市保渡田)

 保渡田の公会堂のある辺りが、保渡田城の本丸であったと言われる。

 保渡田城は、なかなかすばらしい城郭であったようだが、早い時期から宅地化が進行してしまったようで、現状では遺構はほぼ壊滅状態である。そこで、山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像図を描いてみたが、実際はどのようなものであったのだろうか。古い航空写真でも、城塁形状をほとんど把握できなかったので、ほぼ山崎一氏の図に頼ってしまっている。

 保渡田公会堂には天主山と呼ばれる櫓台がかろうじて残されているということだが、今回は確認できなかった。いずれ時間のある時に、もっとじっくりと歩いてみたいと思う。




 保渡田城は、永禄年間に、武田信玄の家臣、内藤昌豊によって築かれた。箕輪城を落城させた後、信玄は当地域支配のため内藤昌豊を箕輪城代として派遣したが、政豊は箕輪城を出て、保渡田に新城を築いた。箕輪城という実に立派な城郭があるのに、わざわざ新城を築いた理由がよく分からないが、箕輪城の出城として、当地域を直接支配する代官所のようなものを設置したかったのかもしれない。

 『総社記』によれば、天正17年7月11日、当時の城主内藤外記は、前橋城主の中川武蔵守に攻められ、善竜寺で自刃したという。天正17年まで武田遺臣がこの城を維持していたというのも、意外な話だが、結局、北条方勢力に攻められてしまったということなのだろうか。

 これ以後、保渡田城は、廃城となった。


















集落内を流れる小川はかつての堀の名残であろう。




菅谷城(高崎市菅谷字堀ノ内)

 菅谷城は、菅谷地区の浄眼寺の東側一帯にあった。菅谷公民館の辺りが主郭部であったものだろうか。周囲は民家が密集しており、城はほぼ壊滅状態にある。一部、遺構が残っているとの情報もあるが、どこなのかよく分からなかった。また、浄眼寺には、城主長野吉業の顕彰碑が建てられているとのことである。


 菅谷城は箕輪城主で著名な長野業正の長男吉業によって築かれた城館である。吉業は、天文15年の河越夜戦に出陣して、重傷を負った。そのため現役を退くこととなり、実弟の業盛に家督と箕輪城を譲って菅谷城を築き、ここに隠遁生活を送ったといわれる。ただし、吉業は河越夜戦で戦死したとの説もあるようで、となると菅谷城は吉業の居城ではなかったということになる。
 
 その後も菅谷城は、箕輪城の有力支城であったと思われるが、永禄9年、武田信玄の攻撃によって箕輪城が落城すると、菅谷城も同じように落城したと考えられる。



























中里屋敷(代官屋敷・高崎市中里)

 中里地区の中心部、唐沢川沿いの所に中里屋敷はあった。屋敷跡と思われる部分は民家の敷地となっている。

 現状では遺構はよく分からなくなってしまっているが、山崎一氏の図と古い航空写真を参考にしてみると、だいたい、右の図のような城館であったらしい。方150mほどの規模である。

 中里屋敷の歴史等については未詳であるが、代官屋敷と言う別名があることからすると、近世jの代官屋敷か何かなのであろうか。


 川を挟んで東側の民家の裏に広大なヤブがあり、周囲が土手状になっており、あやしい地形であるのだが、中里屋敷と関係があるのかどうかは不明。















中里屋敷周辺の水路。




花城寺館・元井出館(高崎市井出)

 花城寺館は、二子山古墳の南100mほどの所にあった。かつて、この辺りに旧河川の流路があり、川がクランクしている地形を利用して館は築かれていたが、現在では、大規模耕地整理が行われたため、河川の流路そのものも変わってしまい、まったく、その面影を失ってしまった。

 元井出館は、井野川がクランクする地点の北側に築かれていた。こちらは川の形状そのものは残っている。花城寺館の南西200mほどの位置関係にある。

 いずれも現在は完全湮滅状態となってしまっているので、山崎一氏の図と古い航空写真を基にした想像図を描いておく。1960年代の航空写真を見てみると、なんとなく城館の形状を理解することができる。いずれも単郭方形の城館であったようである。


 花城寺館・元井出館の城主等、歴史については未詳であるが、周辺の他の城館と同様、長野氏に関連するものであった可能性が高い。。


 上記の通りで、城館の遺構はまったく失われてしまっているが、付近には巨大な古墳や「かみつけの国博物館」などもあるので、ついでに訪れてみるとよいだろう。特に八幡山古墳の方は、古墳表面に貼り付けられていた葺き石までも再現され、堀の形状も見事に復元されている。遊歩道が付けられているので、散歩にもよい。

 この八幡山古墳には、堀の中に小さな円墳が4つ気付かれている。衛星的な配置で、まるで出城のようにも見える。こうしたものを配置した古墳というのを初めて見た。ともあれ、近くに訪れたら、ぜひ訪れてみたい古墳である。










館跡は湮滅しているが、すぐ近くには見どころのある古墳があるので、ぜひ立ち寄ってみたい。上は二子山古墳。 こちらは八幡山古墳。石が貼り付けられ遊歩道も付けられている。石室内部にも入れるようになっていた。




中泉の砦(高崎市中泉)

 中泉の金剛寺の東側一帯が、中泉の砦の跡である。

 『城郭体系』にも「消滅した」とあり、かなり早い時期に湮滅してしまったもののようである。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基にした想像図を描いてみた。方100mほどの規模で、単郭ながら、何箇所かに張り出し部を持った城館であったようである。


 中泉砦は、箕輪城の支城の1つであったという。














金剛寺。この東隣に砦があったらしい。




金古城(高崎市金古字内林)

 金古城(これで「かねこ」と読むのは珍しい)は、上蟹沢川と、南側の支流とに挟まれた段丘上にあった。

 というので探してみたのだが、場所がよく分からなかった。というわけで、実際には見当違いのところを探し回っていたようである。参考までに山崎一氏の図を元にしたラフを描いておく。城址には城塀山と呼ばれる狼煙台が残っているということである。2つの古墳の間を堀で繋いで城域を確保していたらしい。


 金古城は、金古家長の居城であった。
































大竹屋旅館