群馬県渋川市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト  城逢人   土の城への衝動

渋川寄居城(渋川市渋川字寄居)

 渋川寄居城は、渋川市の中心近く、正蓮寺のあるところに築かれていた。

渋川の町は住宅が建て込んでいるうえに一方通行の道が多く、車で走っていて運転しにくい所である。それでも城のある部分は、高台になっており、南北の両側に川が流れていて天然の堀を形成している。城館を置くのにふさわしい場所であるといっていい。

 正蓮寺を見つけるのには苦労した。というのも、この辺りには寺院がいくつもあるのだが、なぜか私の車のナビには正蓮寺だけが載っていなかったのである。そこで、あたりを付けて付近をぐるぐる走り回ったのだが、上記の通り道が細いので、運転していてちっとも楽しくないのである。それでも走り回っているうちにやっと正蓮寺を発見することができて一安心。周辺の道路には車を停められそうなスペースもなかったのだが、さいわい正蓮寺には駐車場もあったので、そこに置かせていただいた。

 着いたのは北西側の入り口で、駐車場から一段高いところに山門があるのだが、これが寺院にしては珍しい冠木門であり、城址公園の入り口のような趣がある。また、その脇を北側の川が流れている。川の幅はそれほどでもないのだが、岸の両脇に石垣が積まれていて、斜度90度の登攀不可能な城壁となっている。なるほど、これが天然の堀となるわけである(石垣は遺構ではないと思うが)。

 先の山門から境内に入っていく途中に城址碑が立てられていた。それによれば、渋川城において、元亀3年(1572)に武田軍と白井長尾軍との戦いが行われ、長尾軍が武田軍を打ち破って首級40を取ったとのことである。

 周囲の宅地化が進んでいるということもあってか、南北の堀以外に目立った遺構を見ることはなかったが、この川だけでも、城址であった雰囲気を知るには十分なものであった。





正蓮寺の山門。見るからに城址公園のような山門である。 その脇を流れる川が天然の堀であった。幅はさほどでもないが、土手の石垣が高い!




行幸田(みゆきだ)城(渋川市行幸田)

 行幸田城は、行幸田地区の西側にそびえる比高90mほどの山稜上の平場に築かれていた。

 行幸田城へ行くにはけっこう山登りをしなければならなさそうなので、なんとも気が重い。このところ山城に行っていなかったということもあるのだが、それよりも、この日雨が降っていたので、あまり山には入りたくなかったのである。そんなこともあって最初からテンションが上がらない。

 それでも城址の東側山麓に進んでいくと、山に入っていきそうな道がある。車を入口脇に停めて、城を目指して山道を進んでいく。途中、平場のようなものが何か所か見えて、よじ登ってみたりしたのだが、それらはすべて墓地であった。どういうわけか、けっこうな山中にまで墓地が造られているのである。平場は郭に見えてしまうので、何とも紛らわしいことである。

 そうして夕暮れのように薄暗い山道を進んでいったのだが、だんだんヤブになってきた。雨でヤブには入れない。そのうち自分が今どの辺にいるのかもわからなくなってしまったのであきらめて引き返すことにした。後で地形図を見たら、そのまま進んでいけば城址まで到達できたと思うのだが、なにぶん、雨ではどうしようもない。

 いったん車へ戻って作戦を練り直す。地形図を見ると、北側から山稜の付け根に登っていく道があり、そこまで車で行ければ、城址まで間近いのではないかと思われる。山稜に登っていく林道が、車で走れる道なのかどうか不明だが、とりあえず、その林道に向かってみることにする。

 その道に入り込んでみると、意外にも舗装された立派な道なのであった。これなら安心して城の付け根部分にまで入っていけそうである。それにしても、どうして山中にこんなちゃんとした道が付けられているのか、なんとも不思議である。しかし、その道を進んでいくと理解できた。台地上にはかなり広大な平場があり、そこが耕作地になっているのである。この地域は、山かと思っていても、上には広大な平場があるテーブルマウンテン状の地形が珍しくなく、そこが耕作地や宅地になっていたりするのである。この道路はその耕作地に向かうためのものであった。

 途中、城方向に分岐するあたりの路肩に車を停めて歩き始める。ちょうど、城のある方向に向かって平坦な山道が付けられている。

 というわけでそれを進んでいったのだが、この道もけっこう草が生えている。といっても膝までくらいの草だから、普通ならどうということもないのだが、何度も言っている通り、今日は雨が降っている。長靴を履いていたわけでもないので(この日の予報は曇りで、雨は想定外だったから長靴なんか用意していない)、たちまちズボンの裾とスニーカーが濡れてグジョグジョになってしまった。

 それでもなんとか鉄塔の立つ平場の手前まで来た。鉄塔の建っている部分が主郭のはずである。ところが・・・その先は胸くらいまであるヤブになっていて、とても入れたものではなかった。すぐ先には松林も見えていて、遺構がありそうに見えたのだが、残念! この天気ではこれ以上進むことはかなわない。

 というわけで、肝心の遺構のある部分を見ていない。右の図は山崎一氏の図を基にした想像図である。先端部分には堀切のような地形もあるようだが、主郭部はただ広いだけの郭であり、明確な遺構はない。

 本来ならば、今通ってきた台地基部の部分に堀切を入れるべきなのだが、それがないところを見ると、そうとう古い時代の簡素な山城であったものか。もしくは城内はかつて桑畑として利用されていたというので、その際に埋められてしまったのかもしれない。とすれば、かなり古い時代に堀は埋められてしまったことになる。

 行幸田城は、小林出羽守の居城であった。小林氏はもともとは武蔵七党の1つである秩父党高山氏の出身であったということ以外、城の歴史についてはよく分からない。

 城の歴史と関係あるのかどうかは不明だが、「行幸(みゆき)」といえば、天皇の外出を指す言葉である。あるいは昔、天皇がここに来たというような伝承があり、それが地名になって残っているのであろうか。何らかの由緒があるのであろう。

東南側から遠望する行幸田城。ここからの比高は100mほど。 1郭内部内。ただひたすらヤブのため、夏場では踏破できない。鉄塔が建っている。




有馬城(渋川市有馬)

 有馬城は、若伊香保神社の西側にそびえる比高60mほどの台地先端部に築かれていた。

右の図は山崎一氏の図を基にした想像図である。台地縁を利用した城郭で、注目すべきなのは、大手と思われる西側に角馬出しを有していることである。なかなか見どころがありそうな城郭であり期待が膨らむ。

 しかし、事前に航空写真を見てみた所、すでに遺構があったと思われる部分は会社や宅地、畑となってしまっていて、遺構らしきものの影は見えない。それでも実際に行けば何か見つかるかもしれない。ということで、車で台地上まで上がってみた。

 これだけの城であるから何か痕跡でもあるのではないかと期待しつつ周辺を歩いてみたのだが、遺構らしきものを見ることはできなかった。どうやらすでに破壊されてしまったらしい。なかなか技巧的な城郭であっただけになんとも残念なことである。

 台地に登る現在の車道の北側に、古い車道があり、そこから主郭部へ行く道もあるので、そこを進んでみたのだが、主郭部もまるまる畑となっていた。それも耕作されていないのか、半分以上は背丈ほどもあるヤブ状態である。遺構を見るどころではない。

 方針を変えて、台地縁部を確認してみることにした。といっても台地上からはヤブがひどくて縁部まで接近できない。というか、雨の降る中、ヤブをかき分けて進んでいく気にはなれない。晴れて入れば、突破できたかもしれないのだが・・・・。

 そこで、下の若伊香保神社まで車で戻り、神社背後から土手をよじ登ってみることにした。こちらの方がヤブは少ないから、傘を持って接近できるかもしれない。ところがこちらも苦労することに・・・・。手持ちの図面では、若伊香保神社のすぐ上が城址のようになっていたのだが、実際は違った。急斜面を50mほども登らなくてはならないのである。雨の降る中、これはきつい!

 それでも何とか主郭下の腰曲輪と主郭の城塁が見える所まではたどり着いた。一応、残存遺構らしきものを見ることはできたわけである。しかし、そこから主郭に上がろうにも、こちらもまたヤブがひどくて無理なのであった。

 結局確認できたのはこの部分だけなのだが、あまりメリハリの利いた遺構ではなかった。となると、全体的に鋭い構造の城郭ではなかったのかもしれない。当初の想像からすれば、かなり期待外れの城である。もっとも、雨が降っていなければ、もう少しちゃんと見て回ることができたのかもしれないのだが・・・・。

 有馬城については、歴史等が不明である。角馬出しまで備えた技巧的な城郭だというのに、意外な気がする。あるいは臨時に築かれた陣城として、一時的にしか使用されなかった城郭であるのかもしれない。

有馬城東側城塁下の腰曲輪。ヤブの上に雨で薄暗く、ちゃんと撮影できない。 1郭東側の城塁。




剣城(渋川市半田)

 剣城は、八木原駅の南400mほどの所に築かれていた。現在、畑地と宅地になって遺構は消滅してしまっているが、「剣城」とか「大門」とかいった名前のアパートが建っているのは、城址にちなんだものなのであろう。

それにしても「剣城」とは、また鋭い名前の城郭もあったものだ。「草薙の太刀」のように、何らかの太刀に関する由来があったのではないかと想像するが、実際の所、どんないわれがあるのか分からない。

 剣城の遺構がないかどうか、探してみたのだが、すっかり宅地化されてしまっており、遺構は壊滅状態のようである。そこで山崎一氏の図と古い航空写真とを参考にして想像図を描いてみた。単郭方形ながら、虎口付近に枡形に近いような構造を有していた城館であったらしい。石垣も描かれているのだが、これは後世のものだったのであろうか。

 城址には個人が立てた標柱もあるとのことであったが、これも発見できなかった。といっても、私が見たネットの写真は10年近くも前のものであり、その時点で字がかすれ腐食しかけている様子であった。今となっては、すでに失われてしまったと考える方が自然である。

 剣城は鎌倉時代初期に比企氏によって築かれたものだという。比企氏といえば、武蔵比企郡出身の古い豪族であるが、この地域にも所領を有していたのであろうか。比企氏は将軍の外祖父として鎌倉時代に大きな勢力を得ていたので、各地に所領を得る機会があったのかもしれない。

 戦国期には長尾氏によって利用されていたというから、枡形状の地形や石垣などは、その際に改修されたものであった可能性がある。




剣城跡。住宅街と化していて遺構は見られない。































大竹屋旅館