群馬県渋川市(旧赤城村)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト  城逢人   土の城への衝動

勝保沢城(渋川市赤木町勝保沢110)

 渋川赤城歴史資料館の隣が勝保沢城の跡である。途中、この資料館への案内表示があちこちに出ているので、資料館を目指していけば迷うことはない。

 歴史資料館の駐車場に入るやいなや、目前に、堀に囲まれた城塁のようなものが見えてくる。これが勝保沢城である。やっぱり、一見して城だって分かるような城跡を訪れるのっていいことだ!

 郭は楕円形をしており、長軸80mほどある。横堀が全周していて、その外側には幅広の土塁が巡らされている。この土塁の上が遊歩道になっていて、歩いて一周できるようになっているのがありがたい。そのため藪漕ぎをする必要もないのである。

堀の規模は大きなところで、深さ5m、幅7mほどもある。なかなかしっかりとした遺構物である。虎口は明確ではないが、おそらく南側だったであろうか。城内は平場になっているが、土塁などはなく、単純な構造である。

 郭の南側の土塁上を歩いていくと、さらに南側にも堀があり、この部分が二重堀構造となっていることが分かる。この部分を中心として、さらに大きな郭を有する複郭の城郭であったようである。

 山崎一氏の図を見ると、南側にある宗玄寺が主郭のように描かれており、先に述べた郭は出丸扱いである。宗玄寺の方も訪れてみたのだが、こちらは遺構がほとんど湮滅してしまっており、本当にそちらが主郭部であったのかどうか、確信が持てない。

 宗玄寺が主郭であったというような伝承や史料でもあるのであろうか。普通に考えてみれば、台地先端部にある1の部分こそが主郭であると見てよいはずである。1の部分を中心に郭を配置するというのが一般的な発想であり、こんなところに出丸を置く意味がない。もし宗玄寺が主郭であるとすれば、1は出丸ではなく詰めの城といったものである。

 それに楕円形の1郭に対して、宗玄寺の部分は方形をしており、築城思想がまったく異なっているようである。私は、1が主郭であるとみてよいのではないかと考える。

 勝保沢城の城主は齋藤安元であったという。天正8年、真田昌幸によって攻撃されたと『城郭体系』にはあるが、何を根拠としているのかが不明である。










1郭西側の城塁と堀。 北側の堀。横堀の外側に幅広の土塁があり、それが遊歩道となっていて、一周できるようになっている。
北西の城塁。北側は竪堀になっている。 東側の城塁。
南側の横堀の外側にはさらにもう1本の堀がある。




津久田城(渋川市赤木町津久田)

 津久田城は、赤城北中学校の西200m、利根川に臨む比高30mほどの台地先端部に築かれていた。

 城址は台地縁部のいい位置にあるが、宅地化が進んでしまったようで、現状では遺構はほぼ湮滅状態のようである。それでも戦後直後の航空写真を見ると、右の図のような形状を見て取ることができたので、それを基にした想像図を描いてみた。山崎一氏の図とは一部違ってしまっているのだが、一応参考までに提示しておく。5つほどの郭を配置した大規模な城郭だったようである。残っていれば、かなり見所のある城郭だったことだろう。

 ネットで得た情報によると、台地の一番北西の角辺りの分かりにくいところに案内板が設置されているのだという。しかし、見た所、北西の角には民家が建っている。ここも宅地になってしまったのだろうか。あるいは、宅地の間の畑を抜けていけば、案内板があったのかもしれないが、雨で畑がぬかるんでいたので、そこまで入り込んでいくことはできなかった。北側の縁部には土塁や腰曲輪が残されているらしい。

 津久田城は、戦国時代に白井城の長尾氏によって築かれた城であるという。白井城の有力な支城の1つだったのであろう。津久田城には狩野氏が城代として入り、津久田衆を率いていた。

 『加沢記』によれば、天正10年(1582)、真田昌幸家臣で沼田城代であった矢沢頼綱の率いる「本備金子美濃守、恩田越前守、下沼田豊前守、発知左衛門五郎、中山左衛門尉、武者奉行塚本肥前守、高橋右馬允、都合千余騎」が、「長尾領津久田猫□□要害」を攻めた。しかし、上白井の後詰の勢によって逆襲され、中山右衛門尉ら150余人が打ち取られ、50余人が生け捕りとなって退却したという。150騎も討ち取られるなど、局地戦としては、そうとうの負け戦である。

 この合戦の舞台となった城郭であるが、文字通り読むと猫城であったということになる。しかし、猫城も猫寄居城も、実際に訪れてみて、真田勢が攻撃目標とするような拠点城郭ではないということが分かった。津久田猫近隣の拠点城郭といった点からすれば、この合戦の舞台は津久田城であったとするのが一番ふさわしい。それに沼田方向から白井長尾氏を目指して攻め寄せてきた場合、まずこの津久田城辺りが戦場となると言うのが地理的に見ても自然である。津久田城の根古屋・要害といったものを「津久田猫□□要害」と標記した可能性がある。あるいは津久田城のことを「猫城」とも呼んでいたのであろうか。

 『加沢記』は真田家臣の加沢氏によって近世初期に書かれた記録であるが、信ぴょう性の高い記事も結構多いので、吾妻地域の戦国史を知る上では非常に便利な本である。昔は本文を手に入れるのも大変な史料なのであったが、近年ではネットで検索すれば本文を見ることもできるし一部は現代語訳も見られる。とても便利な時代になったものである。

堀跡と思われる地形。




津久田砦(渋川市赤木町津久田)

 津久田砦は、赤城ICの北600mほどの所にある、比高70mほどの西側に突き出した山稜先端部に築かれていた。

 城には山麓から登る道もあるようなのだが、地形図を見てみると、東側の関越自動車道の側道脇辺りから入り込んでいけば、尾根伝いに少し降っていくだけで到達できそうである。ということで、城の尾根の付け根部分からアクセスすることにした。

 台地基部の付け根部分までは車で行くことができる。台地上の路肩に車を停めて入口を探す。台地には畑があり、そこから城のある尾根に降っていけるはずである。少しヤブになっているが、注意してみると、尾根が降っている個所が目に入ってくる。そこから早速降りていく。

 すると、下から登ってくる切通しの山道にすぐ合流した。この尾根で間違いなさそうだ。この山道は深く切通されている箇所もあるので、そこだけ一見すると、まるで堀切のようにも見えてしまう。しかし、これは城郭遺構ではなく、あくまでも山道である。

 さらに進んでいくと、切通し道が大きくカーブして斜面に回り込んで降りていく箇所に出る。城に行くためには、その道を降らず、まっすぐにその先の尾根を進んでいけばよい。尾根はヤブも少なくて、わりと歩きやすかった。

 尾根はいったん降っていくが、その先に堀切が見えてきた。どうやら城内に到達したようで、切通し道に合流してから5分ほどと、思ったよりもすぐに到着である。堀切はだいぶ埋まってしまっているのか、斜面はかなり緩やかになってしまっていて鋭さがないが、もともとは深さ3mくらいあったのではないだろうか。堀切の両側面には竪堀は入れておらず、下のテラス状の部分で行き止っている。余り念入りな造作は施されていない。

 その先が城内である。削平もそれほどきちんとされていない長軸30mほどの区画である。意外だったのは、そこに城址標柱が立てられていることであった。このようなマイナーな城館にさえ標柱が立っているということは、旧赤城村では遺跡に対する関心が高かったのであろう。この後、赤城村の他の城館を訪れる際にも期待が持てそうである。

 標柱には「津久田の烽火台」とあった。確かに、単郭で狭い空間しかないこの城は、いかにも烽火台といった雰囲気がある。実際に烽火台であったという伝承等があるのかどうかは不明だが、烽火台ではない砦であったとしても、たいした人数が籠城することもできない、見張り台程度のものであったと思う。













津久田砦に通じる切り通しの通路。 1郭の堀切と土塁。左側が1郭。
「津久田城の烽火台」という標柱が立てられていた。




不動山城(見立城・渋川市赤木町見立)

 不動山城は、刀川小学校に隣接する西側からの比高110mの台地先端部に築かれていた。

 不動山城は、『城郭体系』『群馬県の中世城館』では「見立城」と書かれているが、現地の案内板が不動山城となっていたので、とりあえず現地の意思を尊重して、ここでも不動山城と呼ぶことにする。

 主郭へのアクセス方法は、城の南西から接近して、案内板と標柱を発見するのがよい。ここから1郭までの道が付けられているのである。困るのは近くに車を停める場所がないことで、車は少し離れて、路肩に余裕のあるところを探すしかない。 

 案内板のところから進んでいくと道が土橋状になり、虎口状の部分を抜けて行くようになっている。すぐ右手の郭内部はヤブ状態だが、通路は普通に歩ける。やがて1郭の城塁が見えてくる。

 さらに進んでいくと、1郭城塁に沿うようになり、やがて2郭に出る。左手の下には腰曲輪が見えている。この辺り、西側や北側の斜面は高く急峻である。まさに天然の切岸状態であり、要害の地形であることが分かる。

 2郭から1郭へも通路は付けられているのだが、1郭内部はヤブになってしまっていた。しかし、ここまでに見てきた部分からだけでも、不動山城がかなり防御力のある城郭であったことが分かる。1郭は「二城」と呼ばれているというが、これは「御城」がなまったものであろう。

 山崎一氏の図を見てみると、1郭から東側にかけて長く堀切が入れられていることになっているのだが、こちらは未確認である。ヤブもひどいのだが、何しろこの日は雨に降られてしまっていて、さすがに雨が降っている状態でヤブをかき分けていくのは避けざるをえなかったのである。この次に訪れる機会があったら、ぜひとも確認してみたい堀である。

 引き返して、今度は小学校の方向から城内にアクセスを試みる。こちら側は小学校の建設や耕作化によってだいぶ手を加えられているのだが、それでも、小学校のある部分と城内を区画する堀の跡は確認できる。しかし、こちらもヤブのためすべてを確認できたわけではない。

 こちらの方向からも城内に向かう道があるようで、その入り口辺りに案内板2が立てられている。しかし、こちらはヤブが酷くて、とてもではないが、案内板のあるところにさえ到達することができなかった。冬場にでもならなければ探索は難しそうである。もっとも雨さえ降っていなければ、夏場でも果敢に飛び込んでいったかもしれないのだが・・・。

 不動山城は利根川を挟んで対岸にあたる白井城の主要な支城の1つであった。かつて白井城が攻撃された際に、白井城主は2度も不動山城に避難したことがあったという。戦国時代には武田・上杉の軍勢を迎え撃ったこともあるそうだが、天正18年の小田原の役後に廃城となった。

 

南西の角にある案内板1と標柱。ここから1郭まで通路が付けられている。 土橋状通路脇の城塁。
2郭から1郭城塁を見たところ。 1郭内部。ヤブである。
小学校との間にある堀跡。 小学校の側にある案内板2。ヤブで埋もれてしまっている。




猫城(渋川市赤木町敷島根古)

 猫城は、西側に向かって突き出した比高110mほどの山稜上に築かれていた。JR敷島駅の東南600mほどの位置である。猫の集落を見下ろす山稜で、山麓からも目立っており、なるほど城を築きたくなるような山である。

 アクセス方法であるが、地形図を見てみたら、東側の山稜付け根の付近を林道が通っている。この林道から尾根伝いに進んでいけば、たいして登ることもなく城内に入れそうである。というわけで、山稜付け根からのコースを選択することにした。林道と言っても舗装されたちゃんとした車道なので、運転するのにも不安がない道である。すると、予定通り、基部部分に到達した。この辺りである。うまい具合に先に進んでいく山道も見えている。これが登城道なのかもしれないと思ったのだが、いかんせん、入口からヤブ状態である。

 晴れていればどうということもないヤブなのであったが、この日は天気予報に裏切られ、けっこうな雨が降ってしまっている。雨の中濡れたヤブの中を数百mほどの距離歩いていくほどタフではない。というわけで、このルートはあきらめることにした。

 実は、簡単に当初のルートをあきらめてしまったのには理由がある。というのも、ここに来るまでの途中、山中方向に向かっている古い作業道の入り口のようなものを見つけていたからである。そちらからなら雨でもアクセスできるかもしれない、とっさにそう考えた。ということで、今度はそちらを目指すことにする。入口はこの辺りである。

 道の脇に車を停めて、作業道を登り始める。しかし、こちらもすぐにヤブになってしまっていて、とてもではないが城址まで到達できそうにない。そこで、道を進むのはあきらめて、その辺りから山の斜面を直登することにした。

 結構急な斜面を傘を片手に持ちながら登るのはなかなか大変である。しかし、幸いなことに、山の斜面にはあまりヤブがない。登ること5分ほどで尾根部分に到達した。

 そして尾根を進むとすぐに切岸が見えてきた。それを越えた所がすでに1郭である。長軸20mほどの楕円形の郭となっている。と言っても、削平されただけの平場で、他にはこれと言って目立った遺構はない。先の切岸というのも、高さ2m程度のもので、それだけをもって尾根部分と区画しているのである。通常ならば堀切を入れる所であるのに、それもない。天然の地形に頼り、ほとんどj人工の手を入れていない山城であったようである。

 それでもここにも城址標柱が立てられていたので、少なくとも場所を間違えていないという確信を持てるのはありがたい。

 城址標柱には「猫(根古)城」とあった。「猫」というのは変わった地名であるが、これは「根古屋」の転であるという説があるようで、本来ならば根古屋城というべき城であるということを、標柱も主張しているわけである。

 しかし、私はそれには違和感を感じる。根古屋は基本的には山麓に設置されていたはずのものであり、ここがそうであるとは思われない。だいいち、城内にはまとまった平場が1郭にしかないので、小屋掛けするようなスペースすらほとんどないのである。この城ではまとまった人数が籠城することも難しいであろう。

 『加沢記』に天正10年に真田勢が長尾氏の猫城を攻めたという記述があるが(巻4 猫城責並びに中山右衛門討死 牧弥六郎礼儀之事)、天正年間に長尾勢の立てこもるような城であるとも思われない。『加沢記』の猫城というのは、この城のことではないであろう。現在のところ、この合戦の舞台は津久田城こそがふさわしいと私は考えている。

 天正106月、長尾領津久田猫□□要害には一井齋の家臣牧和泉守がいたという(□の部分は不明)。

 猫城には人工的造作の跡はほとんど認められず、城というよりも物見台程度のものであったというべきである。津久田砦も似たようなものであったが、あちらと同様に烽火台であった可能性もあるであろう。

北側から遠望する猫城。こちらから尾根筋を進む道もあるがヤブであった。 1郭城塁。切岸だけで、堀切はない。
1郭にあった標柱。郭内部ではなく、斜面に立てられている。




猫寄居(渋川市赤木町敷島寄居)

 猫寄居は、JR上越線敷島駅のすぐ南側にあった。

 現状では明確な城郭遺構はなくなってしまっているが、航空写真を見ても分かるように、街道に面しているうえに天然の切岸や川に囲まれたまとまった空間となっており、城館を置くのにはふさわしい位置である。
 

 『加沢記』には天正10年、真田勢が長尾氏攻撃のため一井齋の家臣牧和泉守が守る「津久田猫□□要害に攻め寄せたという記事が見られるが(巻4 猫城責並びに中山右衛門討死 牧弥六郎礼儀之事)、その際の猫城というのは、猫城よりは、この猫寄居城の方がふさわしい。猫城の方は、長尾氏の軍勢が籠城できるようなちゃんとした城郭ではないのである。

 しかし、この合戦が行われた城が真田の攻撃目標たるべき拠点城郭であること、「津久田猫□□要害」といった標記からすると、この時の合戦の舞台はむしろ津久田城であった可能性が一番高いのではないかと考えられる。

 通説通り、猫寄居は猫地区の地侍の寄居(集結地)であったというのが適切な解釈のようだ。。














敷島駅方向から見た猫寄居。独立した高台となっている。




鳥山屋敷(渋川市赤木町見立)

 鳥山屋敷は、渋川赤城歴史資料館の南西600mほどの所にあり、中央部を県道151号線が通っている。

 現在は明確な遺構と思われるものは見当たらなくなってしまっているのだが、城郭を置きそうな地形だけは現在でも確認できる。幅30mほどの高台部分が東西に200mほどに渡って延びており、かつてはこれを区画する堀切があったものと思われる。現在、切通しの通路が2本ほどみられるが、これが堀のラインと一致しているのかどうかは不明である。山崎一氏の図を見てみると、以前は数本の堀切が残っていたようである。

 鳥山屋敷の城主等、歴史については未詳である。

















鳥山屋敷北側の城塁。




三原田城(渋川市赤木町三原田)

 三原田城は、国道353号線の南側にある興禅寺とその西側一帯にあった。

 山崎一氏の図を見ると、中央を通る道の西側に右の図のような堀のラインが描かれており、こちらが城の中枢部であったかと思われる。そこで、その辺りを探してみたのだが、残念ながら明確に遺構として残存しているものを見つけることはできなかった。微妙な段差などはあるのだが、いずれも遺構として確認できるほどのものではなかった。

 東側の寺院のあるところにも城館に関連する施設があったのではないかと思われる。寺院に向かうと、折れをともなった石垣と塀のラインが見えており、まるで近世の陣屋(城郭というほどの規模ではないので)のような雰囲気が味わえる。かといってこれが城郭のラインであったかどうかは分からない。寺院の背後の方が一段高くなっているので、寺院を主郭とするのにも無理がありそうである。考えても見れば、全体として傾斜した地形の中に城郭を築いたことそのこと自体、ちょっと無理がありそうである。

 古い航空写真を見てみたのだが、古くから集落があったようで、堀のラインを確認することはできなかった。あるいは集落そのものが城郭的構造となった環濠集落のような形状の城館であったのかもしれない。


 三原田城は、三原田義高が築いた城で、天正年間には永井実綱が在城していたという。







興禅寺の土手はまるで近世陣屋の城塁のようである。
























大竹屋旅館