群馬県邑楽町

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人 

鶉城(茂木館・邑楽町鶉)

 鶉町の長良神社の北西部一帯が鶉城の跡であったという。鶉城は鶉地区にあるため鶉城と呼ばれているが、茂木氏の居館であったため茂木館という別称もある。鶉城という城は別に存在しているので、こちらは茂木館と呼んで区別したほうがよいかもしれない。館跡には現在も城主の御子孫であろうか、茂木家畜医院があるが、その辺りが、かつての主要部であったと思われる。

 矢場川に臨む微高地上に築かれた居館である。かつて主郭部の周囲には堀があったようだが、現在ではほぼ失われてしまっている。下の写真のヤブの中に堀がありそうな気配があるが、夏場なのと民家の敷地に隣接しているので、内部探索はしていない。

 さらに山崎一氏の図を見ると、その周囲の道路が外郭のラインであったように描かれており、右のラフもそれに従ってみたのだが、実際に外郭部がこのように存在していたかどうか、ちょっとあやしいのではないかと思う。

 茂木氏は古い氏族で、鎌倉時代からこの地に居館を構えていたと言われる。南北朝時代には茂木刑部介貞良という武将がいて、新田義貞の家臣として各地を転戦したというが、詳しいことは分かっていない。「貞」の字を冠していることから、新田義貞の家臣であったのではないだろうか。









民家脇にあるヤブ。この中に堀が残っていそうである。




千原田城(邑楽町千原田)

 矢場川が北側にぐるりと回り込んで半島状の地形をなす場所に千原田城は築かれていた。周囲を川に囲まれ、まさに築城するのにふさわしい地形である。

 1980年頃の航空写真を見てみると、矢場川はまだ、北側に大きく回り込んだままになっているから、ショートカットする現在の流路が造成されたのは、そんなに古い時代のことではなかったようである。

 このくびれの部分に鳥瞰図のように堀を入れることで、要害を形成していたようで、遺構が一部残されているとのことであり、ざっと歩いてみたのだが、遺構の残る部分を発見することはできなかった。

 新しく開削された流路が、城の堀を利用したものだという説もある。確かにそのようにすれば、最小限の労力で新しい流路を開削することができ合理的である。となると下の写真の流路がかつての堀そのものと重なっているのであろうか。

 千原田城は、享徳2年に館林城主となった赤井照光の家臣宝田和泉守によって築かれたと言われる。享徳の乱に際して、上杉方の赤井氏が、臨時の築城を行わせたところなのであろうか。










城址基部の部分を分断する現在の流路。かつての堀のラインとも関係があるのだろうか。




中野城(邑楽町中野)

 中野町にある神光寺が、かつての中野城の跡である。

中野地区にある神光寺が中野城の跡である。この寺院は非常に立派な寺院で、立ち入りを遠慮したくなってしまうのだが、東側の入り口を入ったところに中野城の案内板があり、ここが城址であることは認識されているようである。

 寺院の施設が立派なのに比例して、遺構も破壊されつくしているようだが、北東の角部分だけにかろうじて土塁の残欠を見ることができる。


 中野城は、文永2年(1265)、新田義重の子孫、中野景継によって築かれたものである。以後、代々、中野氏の居城となった。景継の子であった中野藤内左衛門が、新田義貞に従って越前で討ち死にを遂げると、中野館は廃城となった。

 時代は過ぎ、戦国時代の永禄年間、小泉城の富岡氏の家臣、宝田和泉守は、この故城を再築して利用したが、天正18年、主家の没落と共に、再び廃城となった。









北東の角にわずかに残る土塁跡。唯一の遺構である。




篠塚館(邑楽町篠塚字馬場)

 篠塚地区、県道152号線沿いのの「馬場」という地名の所に篠塚館があった。

 屋敷跡らしき箇所に接近すると、内部は一軒のお宅となり、周囲をヤブで囲まれている。このヤブがあやしく、この中に遺構があるのではないかと思われるのだが、柵があり近づくことができなくなっている。

 南側に一か所内部に入っていけそうな箇所があるのだが、どうも不法侵入になってしまいそうで、結局内部探索は行っていない。そこで、山崎一氏の図をもとに想像図を描いてみた。方50mほどの小規模な城館であったと思われる。

 この付近には『太平記』でよく知られた豪傑篠塚伊賀守重広の供養塔や案内板が立てられているのだが、篠塚屋敷は、この篠塚伊賀守の居城であった場所ではないだろうか。

 篠塚伊賀守については、よく知らないのだが、『太平記』には何度も登場する人物であるという。もっともそれは地元でのみ有名な話なのかもしれない。というのも、私の故郷の佐渡でも、『太平記』に出てくる日野資朝の子供「阿新丸(くまわかまる)の話がとても有名で、壇風城でのかたき討ち、逃げる際に隠れた「阿新丸の隠れ松」などが、現在も観光名所となっており、地元の人には有名な話なのだが、実際の所、阿新丸のことなど知っている人は、世間一般にはいないだろう。確かに『太平記』にも載っている話なのであるが、地元でしかもてはやされていない話なのである。篠塚伊賀守も、地元の英雄ではあるが、全国的にはあまり知られていない人物である。

 県道を挟んで東側には「陣屋」という地名が広がっている。この地名は篠塚屋敷に関連するものではなく、江戸時代中期に松平忠恒の陣屋がおかれていた場所であるという。

 ただし「陣屋」地名は江戸時代よりも以前からあったそうで、戦国期に北条氏が軍勢を進めた際に、陣を置いた場所であるのかもしれない。




民家周囲のヤブ。この中に多少の遺構が残っているのではないかと思われる。




片岡館(蛭沼館・邑楽町中野字蛭沼)

 片岡館は東武鉄道「篠塚駅」の北側500mほどの所にあった。

『関東地方の中世城館』では蛭沼屋敷となっているが、現地案内板に片岡城とあるので、ここでも片岡城として紹介しておくこととする。

 県道125号線の蛭沼の交差点から西側に路地を入り込んでいったところに案内板がある。案内板が立てられているのはちょうど西側の土塁の北西端部分であり、その背後のヤブの中に土塁が延びているのが見える。土塁は北側から少し東側に曲がる辺りまでが残存しているようである。なお、土塁は残っているが、堀はまったく見られない。

 片岡館は、平安時代に平国繁の居館のあったところだというから、ずいぶん古い時代の館である。国繁は平清盛に仕えていたというが、平家滅亡後は土佐に移住したとのことである。片岡館には国繁の子が残り、南北朝期に滅亡するまで、片岡氏の居館として用いられていた。








道路脇にある案内板。この背後から北側に土塁が延びている。





藤川城(邑楽町藤川)

 藤川城は、藤川地区の高正寺の西側200mほどのところにあった。

邑楽町の平城の中では比較的良好に遺構を残している城館であり、右の図の範囲の部分が現存していると思われる。しかし、内部は民家の敷地となっており、周辺にも民家が密集しているので、遺構を確認できる箇所は限定されている。

 北側から内部のお宅に向かう道を進んでいくと、北側の小口のところに出る。この両側には土塁が残されている。西側は水堀もよく残っているが、東側の方は堀はかなり埋められてしまっている。また、途中から土塁も崩されてしまっているようである。水堀の残存する部分では、かなりしっかりとした遺構を見ることができる。

 もう1つ遺構を確認できるのは、西側の道を入っていったところである。西側は民家の奥に堀のありそうなヤブが続いているのが見えているのだが、近づける場所は少ない。1か所、民家の脇の空き地があるので、そこから接近してみると、しっかりと水堀と土塁が残されているのが確認できる。ただし、ヤブがひどくて形状把握は難しい。

 藤川城は、小泉城主富岡氏の一族に属した城館である。富岡氏は家臣の小林義知を上代として藤川城に配置した。

 現状では単郭の居館であると思われるのだが、城逢人では「実際には若宮八幡までを城域とするもっと大きな城郭であった」と解説している。実際に、外角部分があったかどうか確認してはいないのだが、戦国期の拠点城郭の1つであったとしたら、複郭式の城郭であったと考えるのが自然であると思う。佐野氏との攻防戦に登場する城館であるという。





北西側の虎口付近の水堀と土塁。よく残っている。 西側の堀。ヤブがひどいが、それでも何とか確認できる。




横田屋敷(邑楽町藤川)

 横田屋敷は県道152号線を挟んで、四祀開神社の東側にあった。川が分岐するところの河岸段丘に築かれた城館である。航空写真を見ると、現在も形状を維持したまままま駐車場となっているようであるが、太田治工という工場の敷地内となっているので、勝手に立ち入ることはできない。したがって、遺構が残っているのかどうかも未確認である。

 それでも、東側と南側を流れる川に面する部分は鋭い土手となっていて、要害地形であることには間違いない。城館を営むにはふさわしい場所である。

 横田屋敷はその名の通り、横田氏の居館であったという。















矢場川の橋から遠望した城址。正面左手の奥である。




秋妻屋敷(邑楽町秋妻)

 秋妻屋敷は、秋妻地区の光林寺の南西側一帯にあった。

光林寺の南側一帯が秋妻屋敷の跡であり、民家の敷地内に比較的良好な遺構が残されている。この辺り、民家が建て込んでいて、なかなか遺構のある場所までアクセスしにくいのだが、南側の道路から屋敷の西側に行く道を入り込んでいくと、屋敷の西側の堀や南側の堀を近くで観察することのできるポイントがある。

堀は今でも水を湛えている。その内側には土塁があるようにも見えるのだが、ヤブが酷くて実際にそうであるのかどうか確認できない。南側の堀は、かなり埋まってしまっていて水もなく、土塁もない。あるいは土塁を崩して堀をかなり埋め立てているのかもしれない。

 さらに2の西側の道路を通ってみると、道路に並行して水堀のようなものが見られる。一見して水堀と思えるようなものなのだが、これも遺構であるのかどうかははっきりしない。外郭部の堀跡の可能性もあるので、一応紹介しておく。

 秋妻屋敷は、鎌倉時代に山田俊清が居館としていたところであるというので、これまたずいぶん古い時代の館の跡である。











1郭南側の堀。土塁は見られない。 2の西側の水路も堀跡のように見える。




石打城(邑楽町石打)

 石内城は、斎藤運輸という会社の敷地になっている所を中心として存在していたらしい。

工場の敷地内となっているので、遺構の大半は失われてしまったものを思われる。それでも山崎一氏の図と古い航空写真を見てみると、主郭と思われる部分の形状をなんとなく理解することができる。しかし、その部分は現在は工場の敷地内となってしまっている。右の図は山崎一氏の図と古い航空写真を基にした想像図である。

 工場の周辺部にはヤブになっている個所もあるので、あるいはいくらかの遺構が残っている可能性もあるのだが、いずれも民家の敷地の奥になってしまっているため、なかなかアクセスができない。

 道路を挟んで東側には古墳を利用した八王子神社がある。この神社はかつては城の物見台として用いられていたところであると思われる。

 石打城は、南北朝時代の武将石堂(石塔)氏の居館であったという。時代が下ると石堂氏は衰え、石内氏の居館となった。さらに戦国期になると、足利長尾氏の所領となり、長尾配下の北爪助八が城代として石打城に在城していたという。






北東側を流れる水路はいかにも堀らしく見えるものである。
























大竹屋旅館