群馬県太田市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人  北緯36度付近の中世城郭

龍舞城・龍舞館・浄光寺館(太田市龍舞町)

 現在も二重の水堀の跡をよく残している浄光寺館は、国道122号線太田バイパスのすぐ南側にある。また、その東南側の休泊中学校の敷地辺りが、龍舞館の跡である。さらにその北東側の水田地帯に龍舞城が存在した。

浄光寺は、環濠寺院であったようで、現在でも二重に巡らされた堀の一部を観察することができる。本堂の左手に回ると、そこに池がある。どうやら湧水点があるようである、ここから本堂の裏側を通って東側に延びているのが内堀である。本堂の真裏あたりの堀には水がなく、草がぼうぼうに茂っているが、堀跡であることは十分観察できる。

遺構をよく残しているのは外堀部分である。特に北側から東側にかけての部分は、土塁も水も往時を思わせるような様子で残存しており、なかなか貴重である。西側の部分は、土塁は残るが、隣の畑がだいぶ土を入れたらしく、堀の水はなくなり、深さもだいぶ浅いものになってしまっている。

浄光寺には、古い五輪塔がいくつか並んでいるが、これは薗田氏のものであるという。ということは、この寺院そのものが、薗田氏と何らかの関係があったものとみてもよい。また、現地案内板によると、天正期に北条氏が金山城を攻撃した際に、北条氏の兵火にかかってしまい、寺院が焼失したという記録が残っているという。その頃、園田氏は横瀬氏に属していたのであろう。

龍舞館は、牛蒡屋敷とも呼ばれ、現在の休泊中学校のある場所に存在していたが、現在では遺構をとどめていない。方150mほどあったらしい。

 龍舞城も遺構は残していない。この2つの城に関しては、山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像図を描いてみた。実際に、この通りであったかどうかはよく分からない。

いずれも薗田氏に関連する城館であったと考えられる。 





浄光寺の西側にある池。湧水点があるらしく水が湧いている。これが内堀の水となっている。 北側の外堀。土塁・水堀ともに現在も健在である!
龍舞城のあった辺り。大規模耕地整理によって完全湮滅となってしまった。




内ヶ島屋敷(太田市内ヶ島町)

 内ヶ島屋敷は、内ヶ島地区の伊勢神社のすぐ東側にあったという。というわけで、とりあえず、伊勢神社を目指す。周辺は住宅が密集していて、神社がどこにあるのかも分かりにくいのであるが、伊勢神社は安産祈願では有名な神社であるらしく、途中何ヵ所かに案内が出ていて、それに従っていけば見つけられる。

 しかし、神社の東側も開発が進んでおり、遺構が残るような状況ではない。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像図を描いてみた。単郭方形の居館であったようである。

 と、書いてみたが、後で航空写真を見てみると、神社の北東側に怪しいヤブが見えている。もしかすると、ここに遺構が残っているかもしれない。次に訪れる機会があったら、少し確認してみたいところである。

 内ヶ島館というのは埼玉県深谷市にもあるのだが、なんらかの関係があるのだろうか。この内ヶ島屋敷は、大夫四郎入道が居住していたという。











下小林城(大倉城・太田市下小林町)

 下小林地区の三笠神社の南西側一帯に小林城があった。とりあえずは三笠神社を目印にしていくのがよいが、この辺りは道幅の狭いところが多いので、車の運転には気を遣ってしまう。

 神社に車を停めて正面奥のヤブの方向に向かうとすぐに水堀が見えてきた。1郭北東側の部分である。どうやらビオトープに利用してあるらしく、それを示す看板があった。水堀をビオトープにするとはうまいことを考えたものである。ボウフラが湧く水堀は、現在では厄介もの扱いをされるのが普通なのであるが、このように利用されることで、むしろ堀の中に生息する自然を活かすことができるのである。こういう利用法は全国的に拡大していってほしいものである。

 さて、水堀はこの部分から西側と南側に延びている。北側にも延びていた痕跡があるのだが、こちら側は埋められてしまったのであろうか。

 北側の堀と土塁は見事なもので、城館らしい雰囲気を感じさせるのに十分なものである。あわよくば土塁をよじ登ってみたかったが、堀幅がけっこうあるので、それを越えて取り付くことはできないのであった。

 北西角の部分から堀は南側に折れているが、そこから先は進入していないので未確認である。しかし、現地の地形などからすると、右の図のように接続しているのではないかと思われる。

 このように見てくると、小林城は複数の郭を有する戦国期の城郭であるように思われる。全体の形状が分からないのがもどかしいところではあるが、これだけ残っているだけでも立派な遺構である。この地域の平城の中では、かなりいい遺構を残している方なのではないだろうか。


 下小林城には林左京介が在城していたと言われる。金山城の支城の1つであったのだろう。

北東角の部分はビオトープになっている。 北西側の城塁。いかにも城郭らしく見える部分である。




植木野城・雀の宮屋敷(太田市植木野字堀ノ内)

 植木野城は、矢場川工業団地の東南側一帯にあった。そのうち、北東側の水路に囲まれた一角は雀の宮屋敷とという別の屋敷跡であった。これらを取り込んで植木野城は成立したのであろう。

 雀の宮屋敷は、堀越淡路守の屋敷で、130m×80mの規模があったと言う。

 周辺は宅地化が進んでいて、とてもではないが、遺構が残存しそうな雰囲気ではない。完全湮滅と言ってもよさそうである。それでも、集落内を流れる水路は、かつての堀の名残と言えるかもしれない。


 植木野城も、金山城の出城の1つであり、東側の防衛のための施設であったと考えられる。この土地は横瀬成高によとて支配されていたが、横瀬氏は植木野城に鮎田下野守道一を城代として派遣していたという。




















集落内を流れる水路は堀の跡か。




宗金寺館(太田市東新町)

 矢場川工業団地の北側にある宗金寺にはかつては二重の堀が廻らされており、環濠寺院であったという。しかし、現状では環濠の遺構と思われるものは既に存在していない。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基に描いた想像図が右のものである。

 特に城主などの伝承もないようで、環濠寺院であったと考えられる。



















宗金寺。遺構は湮滅状態にあるが、堀のラインはなんとなく想像できる。




富田館(太田市上小林町)

 富田館は、上小林町の春日神社の東側にあったという。というわけで、神社を目指していけばよいのだが、ここも付近の道路の幅が狭いので、運転には注意を要する。

 ちょっと前の記事を読むと、土塁の一部が残っているような印象を受けるのだが、現在ではまったく湮滅してしまっている。東隣のお宅はけっこう新しく、この家を新築する際に、土塁も崩してしまったのだと思われる。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基にした想像図を描いてみた。方70mほどの単郭小規模な城館だったと思われる。

 『城郭体系』には「西ノ丸と呼ぶ」と書いてある。複郭の城館であったとは思えないので、この東側にあった城館の西の出城といったものだったのであろうか。













富田館のあった辺り。遺構は湮滅してしまっている。




市場城(太田市市場町)

 市場城は東応寺の南西側一帯にあった。宅地化が進んでいるので遺構の多くは失われてしまっているようだが、県道脇にわずかに城郭らしい部分を残している。

 県道39号線沿いにに削り残された土塁が見えるのだが、一見してそれが遺構であるとは思われない。案内板こそはないが、その脇に巨大なこけしが建てられているので、これを目印にするとよいだろう。この地域の人はこけしが好きなようで、標語を書いたこけしがあちこちに置かれていたりするのである。ちなみにこの場所のこけしには「ごめんねと言える心に勇気あり」と書いてある。

 土塁上に登ってみると、その先にも土塁が見えている。つまり二重土塁の構造になっており、間の窪んだ部分が堀となっているのである。ただし、これは、道路側が削られているために二重土塁に見えるのかもしれず、実際には普通の堀であった可能性も無きにしも非ずである。

 土塁に沿って西側が幅10mほどの広い堀となっている。この規模の中世城郭の堀としては幅が広すぎる感があるが、実際にはこの堀に象徴されるように、かなり規模の大きな城郭であったのかもしれない。


 市場城は、道原城と共に、金山城の支城であり、渡良瀬川に面し、北側の下野国境に対する境目の城であったのではないかと言われている。城主は市場備中守繁博であったという。

 上杉謙信が関東に初めて入部した際の記録「関東幕注文」には、「市場弥十郎」という人物の名前が見えるが、この市場氏は、市場城の城主の市場氏であった可能性が高い。





県道に削られている土塁。案内板はないが、写真の巨大こけしが目印になる。 西側の堀底から、1の城塁を見たところ。




道原城(太田市市場町字道原)

 通原城は、渡良瀬川と南側の矢場川とに囲まれた部分を利用して築かれていた。

 道原城は、金山城由良氏の重要な支城の1つであり、戦国末期に由良国繁の弟、横瀬顕長(後に長尾氏を継ぐ)が居城としていた城であるというから、堂々たる戦国の城郭である。相応に規模も大きかったと思われるが、現状は宅地化が進んでしまい、まったく遺構を見ることができなくなってしまっている。そこで、山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像図を描いてみた。

 渡良瀬川に臨む先端部に本丸が置かれており、それを囲むようにして二ノ丸が形成されていた。東西は堀切によって区画されているが、東側のものは二重堀切であった可能性もある。と書いてみたが、現状では遺構は完全湮滅であるので、実際にこのような城郭であったのかどうかは、はっきりしない。


 横瀬顕長が、足利長尾氏を継いだ後は、顕長の弟、横瀬繁詮が道原城の城主となり、藤生紀伊守善久を城代としたという。天正18年に北条氏が没落するまで、藤生氏が城を預かっていた。













城址の南側の川。城らしさを感じさせるわずかな部分である。




矢田堀城(太田市矢田堀町)

 矢田堀城は、矢田堀地区の諏訪神社のあるところを中心に存在していた。150m四方ほどの方形の城館であった。二重の濠をめぐらせていたとも言われるが、現在残存する内堀の遺構を見た感じでは、内堀はちゃんとした堀というよりは、溝のようなものだったのではないかという気がする。

 城の北端近い部分に、矢田堀堪兵衛屋敷の名号角塔婆とその案内板があり、そこに城に関する案内も掲載されている。

 現在見られる遺構は、かなり部分的になってしまっている。現地の方のお話でも「昔は遺跡保存なんていう感覚はなかったから、少しでも邪魔なものはどんどん壊してしまったのだ」ということであった。それでも案内板の付近に残る土塁は、城館の遺構であることがはっきり分かるものであった。ただし、堀は埋められてしまっており見られない。

 北側の部分を西方に進んでいくと、道路沿いに垣根が続いていて、内部が見通せなくなっている。しかし、ところどころに隙間があり、そこから覗いてみると、内部には土塁と堀が旧状のまま残されているらしい様子を垣間見ることができる。おそらくこの部分の遺構が最もよく残っている部分なのであろう。ただし、民家の裏庭となっているので、勝手に立ち入ることはできない。

 南側の部分にも図のような土塁が残っている。変わっているのは、単純に郭内部側に盛った土塁ではなく、比高二重土塁となっているということである。当初は二重堀になっているのではないかと感じたのだが、一番南側の土塁の外側に堀が見られない。どうも、二重の土塁の間の部分が堀底であり、外側にも土塁を配置するといった構造だったようである。

 これ以外にも、もっとよく探せば遺構が残っている部分があるのかもしれない。しかし、今回確認したのはここまでなので、確認できた部分だけを図にしてある。部分的な残存状況とはいえ、宅地化が進む地域内にあった平城にしては、わりとよく遺構を残している方であるといっていいかもしれない。


 矢田堀城は、戦国期には南の今泉城など共に、金山城の支城の1つであり重要な拠点であったと思われる。城主は泉基国・基成であった。








諏訪神社北側に残る土塁。堀は埋められてしまっている。 城塁の北西角部分。民家の敷地内に在って立ち入りできない。垣根の隙間から覗いたところである。
内堀の跡と思われる溝状の部分。 南側の土塁。堀の両側に土塁を持っていたようだ。




丸山城(太田市丸山j町)

 米山薬師の上の山が円山城の跡である。この山は比高50mほどにすぎないが、平野部に独立した山なので、どこからでも目立つので場所はすぐに分かる。

 薬師の駐車場があるので、車を停めるには苦労しない。そこから坂道を上るとすぐ右手に米山薬師が見えてくる。この日(7月25日)、ちょうど祭事のある日だったのか、お堂の中から銅鑼をたたく音やお祈りをする声が聞こえていた。

 それを横目にして、正面の石段を進んでいく。山頂に祭られている祠の参道として付けられたものなのか、山頂まで石段が付けられているので、登るのも簡単である。ただ、この石段、一段ずつの幅がけっこうあるので、歩幅が必要となり、けっこう疲れるのであった。

 石段を登って行くと、途中に岩場に祠が祭られている所がある。ここも腰曲輪のような平場となっているのだが、郭であるのかどうかは、はっきりしない。

 さらに登って行くと石段は3回ほど折れ、山頂下の腰曲輪に出る。この一段上に上がった部分が1郭である。といっても、山頂部分はもともと広くないので、長軸20mほどの小さな郭である。この1郭の北側が山稜となっており、天然土塁のような形状をしている。祠はここに祭られているのである。土塁上もわりあい広いので、物見櫓を建てるのには十分な広さである。

 これだけの城郭である。山頂部を削平して3段ほどの郭を造成しただけの簡素な城郭であり、物見のための砦、といった程度のものである。たいした人数を籠めることもできないであろう。ただし、最初にも述べている通り、独立山であるため、けっこう見晴らしはよい場所である。物見の砦を置くには絶好の位置であると言っていい。

 丸山城は、金山城の北方を守る要害の1つであり、由良氏の家臣が守っていたものと思われる。元亀元年(1572)の河田重親宛の上杉謙信書状を見ると、この時、上杉軍によって焼かれたということが分かる。





南側から遠望した円山。平地に佇立する独立山なので、どこからでも目立っている。 山頂の土塁の上にある祠。これがあるため、上まで石段が付けられている。




狸ヶ入館・今泉館(太田市今泉町)

 今泉地区の永福寺が、狸ヶ入館の跡であり、その東南側一帯に今泉館があった。

 永福寺の周囲にはかつて水堀が巡らされており、狸ヶ入館という横瀬氏の居館があったと言われている。隣接する今泉城も横瀬氏の居城である。

 この2つの城館は現在では隠滅してしまっている。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を見ながら想像図を描いてみたが、実態はよく分からない。

 永福寺の背後には土手があり背後には高台が広がっている。土手の下にあるというのは防御上不利な構造で、かつては大部分にも城郭に関連する施設があったと言われているが、詳細は不明である。

 今泉城の方は、矢田堀城などとともに戦国期に金山城の支城として用いられたという伝承があるくらいなので、戦国期の城郭だったことは間違いない。ある程度規模の大きな堀に囲まれた二重構造の平城であったと思われるが、今となっては想像をたくましくするほかはない状況である。それでも矢田堀城と共に、金山城の北方を守るための支城であったと考えられている。


 永福寺の案内板によると、応永24年(1417)、金山城の横瀬貞氏が、祖父の供養のためにこの地に永福寺を移したのだという。永福寺は金山城の鬼門の位置に当たるため、「金井山護城院永福寺」と呼称されている。






永福寺背後の土手。




下田島城(岩松陣屋・太田市下田島町)

 群馬県立太田フレックス高校(かつての尾島女子高である)が、下田島城の跡である。

 近世に岩松氏の陣屋があった場所である。岩松氏は200石でしかなかったので、当然、城主格ない。城というよりは、下田島陣屋、あるいは屋敷という名称の方がふさわしいのかもしれない。

 現在は土塁の一部を残して遺構は隠滅してしまっていると思われるので、現地案内板の図と山崎一氏の図を基にして想像図を描いてみた。2基の古墳を櫓台として取り込んだ単郭の城館であったようである。

『城郭体系』の山崎氏の解説に拠れば「現在も遺構を良好に残す」とあるから、その後遺構が破壊されてしまったものと思われる。学校というのは教育委員会管轄の文化施設であるが、公立の学校が遺跡を破壊してしまったというのは、なんとも嘆かわしい話ではある。


 小田原の役後、徳川家康は清和源氏である新田氏の系譜にある者を優遇しようとした。それというのも、その系譜の中に徳川氏を位置づけ、徳川氏が清和源氏の清流であることをこじつけようとしたのである。実際の所、徳川氏の先祖は、素性の怪しい流れ坊主の徳阿弥であったにすぎない。

 家康は没落した岩松守純を招き、系譜を譲るように説得した。しかし、家系に埃があったのか、守純はそれを拒否した。そのため、守純は家康から優遇されず、わずか20石の捨扶持だけを与えられることとなった。

 時代は降り、寛文3年になって、徳川4代将軍家綱は、岩松氏に200石を与えて、御家人とした。その際に、岩松氏が古城を改修して居館としたのが、下田島城である。






太田フレックス高校正門から残存土塁を遠望したところ。




大光院土塁(太田市金山町)

 金山町の大光院という実に立派な寺院には、駐車場などに土塁が廻らされている。それが割としっかりした土塁なので、一見して城郭遺構なのではないかと思ってしまうほどのものである。

 この土塁の正確についてははっきりしたことは分からないが、戦国期に寺院が武装化した際の遺物なのかもしれない。




















東側の土塁。 南側の土塁。





大島城(太田市八幡町字城ノ内)

 大島城は、東武桐生線の線路を挟んで、太田記念病院の日脚側一帯にあった。現在、城址は一面の住宅地となってしまい、遺構は湮滅してしまっているが、古い航空写真を見ると、山崎一氏の図面の通りの形状が見えている。そこで古い航空写真と山崎一氏の図を基にして想像図を描いてみた。

 城ノ内地名のある部分が城の中心部であり、折れのある城塁を備えた、長軸100mほどの郭が本丸であった。堀を挟んで、さらに西側と東側にも郭が配置されていたようだが、左右2つの郭を取り巻く堀は、早い時代に途中から埋められてしまったようだ。だが、おそらく3郭構造の城郭だったのではないかと思われる。


 大島城ノ歴史について、詳しいことは不明であるが、金山城西南の支城の1つであったという。














大島館(太田市大島町字下)

 大島館は、県道78号線の南側、大島団地の辺りにあった。現在、城址は一面の住宅地となってしまい、遺構は湮滅してしまっているが、古い航空写真を見ると、山崎一氏の図面の通りの形状が見えている。そこで古い航空写真と山崎一氏の図を基にして想像図を描いてみた。

 現在、民家の敷地となっている方70mほどの区画が館の中心であった。周囲に堀を廻らせた典型的な居館である。

 その西側には幅の広い堀状の水田が延びているが、これは一見して堀の跡だと思われる。中心部の堀の幅がたいして広くないのに対して、こちらの堀は幅が10m以上もある。かつての大島の集落そのものを防衛するための堀であったのかもしれない。


 大島館は、大島義成・義継の居館であったという。















































大竹屋旅館