群馬県沼田市(旧白沢村)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

鐘撞堂山砦(沼田市白沢町鐘撞堂山)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 雨乞山の南西側の尾根続きにある峰が鐘撞堂山で、ここに砦があったと言われる。平野部からは300mほどもある高所であるが、幸いなことに現在では、比高60mほどのところまで車で行くことができる。この山道は、雨乞山方面に行くために付けられた道のようで、山道にしては舗装されたいい道路である。ちなみに私はこの場所から登り始めた。車を停めるところがないので、近くの路肩が広そうなところに寄せて置かせてもらった。

 登城道は特になさそうなので、山の中を突っ切って行くしかない。最初のうちはけっこうなヤブだが、城のある方向は分かるので等高線に沿って平行移動しながら城山の方へ接近していく。するとすぐに城のある尾根が見えてくる。そこで、尾根の側面部から直登する。

 これがまた、けっこうな急斜面である。この天然切岸のような斜面をよじ登ること50mほどで、比較的緩やかな斜面に出る。山崎氏の図では、この尾根辺りから図化されているが(鳥瞰図の左下部分)、実際にはただの斜面である。この斜面を登って行くと5分ほどで山頂部に出た。

 この山頂部が本郭部である。ところが意外なことに、全面には切岸も堀切も配置されていない。どうみても防御構造の不備のように思われるのだが、側面部には、帯曲輪状の加工がされている所がある。完全な自然地形ではなく、一応は加工を行っている。といっても、切岸の高さもわずかなもので、たいして防御力は発揮できない。

 それでも北側に回り込むと、城郭らしい雰囲気の構造が見られる。本郭部の北側には一段低いテラス状の小郭があり、その先には堀切1が掘られていた。この砦において最もちゃんとした城郭遺構である。

 その先は尾根が降って行く。途中に、わずかに切岸加工をほどこそうとしたかもしれない痕跡があり、さらにその先に深さ1mほどという防御力を感じさせない堀切2があったが、この堀切2が、城域の末端を示すものであると思われる。この先の尾根も進んでみたが、後は自然地形しか見受けられなかった。それでも北側の尾根続き方向からの防御はかなり意識されていたようである。

 こんなわけで、鐘撞堂山砦は、単郭の小規模な砦である。急造され、一時的な使用しかされなかったものであるか、あるいは、前面の防御加工がまったく見られないことからして、工事途中で放棄されてしまったものかもしれない。

 鐘撞堂山砦は、高平地区城郭群の一角を成す城郭の1つである。この城館群の中でも最も高い位置にあり、物見の機能を果たしていたものではないかと思われる。「鐘撞堂」という名称が、そのままその機能を示しているようである。すなわち、敵の接近などの異変を感知した場合に、ここから鐘を鳴らして、山麓の反町城の方にそのことを知らせるという機能を有していたのではないかと思われる。

反町城の辺りから遠望した鐘撞堂山。非常に目立った形の山である。平野部からの比高は300mほどある。 北側の堀切1と手前の土手を下から見上げたところ。
堀切2。深さ1m程度のささやかなものであるが、これが境界を示すものとなっていたのであろう。 本郭東側側面部の帯曲輪。




城平砦(沼田市白沢町城平)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 城平砦は、平野部からは比高250mほどある山稜に築かれているが、幸いなことに初穂カントリークラブの北側を通っている「利根沼田望郷ライン」がすぐ尾根部分を通っているので、この道路から徒歩1分で、城内に到達することができる。丸屋砦と毛台牧砦のちょうど中間部分で、取り付く位置はこの辺りである。

 望郷ラインに沿って西側から、丸屋砦、城平砦、毛台牧砦と3つの砦が連続して配置されている。といっても、この中で明確な城郭遺構が見られるのは城平砦のみである。「城平」という名称がのこっていることからでも、城郭遺構が存在している期待感が高まる。

 ところが、山崎氏の図面の中で、この城平城だけが、遺構なしのように書かれていた。であるから、まったく遺構などないのかもしれないと期待せずに道路から登って行ったのだが、登るとすぐに城郭遺構が見えてきた。望郷ラインからすぐに到達できるので、まったくお気楽な城郭である。

 尾根基部からアクセスするとすぐに堀切が見えてくる。深さ3mほどのものだが、きちんとした堀切である。両端は竪堀状になっているが、すぐに下側の帯曲輪と接して途絶えてしまっている。

 この堀切を越えたところが3郭。3郭からは主郭部の城塁が目前に迫って見えている。馬出状といってしまったら言い過ぎであるが、3郭は、1郭の前面を防御するための郭である。

 1郭には西側側面部から登城道が付けられているが、前面にテラス状の小郭があり、東側の側面部には2郭がある。

 その上が1郭である。1郭は尾根上を削平した郭で、地形なりにやや弓なりとなった長軸40mほどの郭となっている。先端の方まで進んでいくと、南西端に虎口状の切り通しがあり、その下が帯曲輪に接続している。また、2郭の南側には虎口があり、下の帯曲輪と接続している。このように、虎口と帯曲輪を接続させているのが、この砦の構造上の大きな特徴である。

 1郭の南側方向には2段ほどの低い切岸があり、その下部の部分を4郭としたが、ここから先は自然のままの傾斜地形となっている。そのなだらかな緩斜面は郭として利用されたことも考えられないではないが、明確な遺構は4郭までである。南側からアクセスすると、なだらかな自然地形のまま簡単に城域に入れてしまいそうな構造は、鐘撞堂山砦とも共通する。

 城平砦は高平城郭群の中では、もっとも明確な城郭遺構を残す砦である。反町城の詰の城として機能していた城郭であったことが考えられる。とはいえ、どの部分もそれほど大規模なものではなく、いかにも急造されたといった印象が否めない。一時的に取り立てられ、たいして使用されることもなかった砦ではなかろうか。



3の北側の堀切。 3郭から1郭城塁を見たところ。
1郭内部。 西側側面部にある帯曲輪。




愛宕山砦(沼田市白沢町高平愛宕山)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 愛宕山砦は、雲谷寺の東300mほどのところにある比高30mの愛宕山に築かれていた。したがって、砦を訪れるためには、まずは雲谷寺方向を目指すとよいと思う。雲谷寺の方向から見ると、東側に低い尾根が張り出しているのが見える。これが愛宕山であり、後は、尾根のどこかから取り付いていけばよい。

 困ってしまうのは車を停める場所である。城のすぐ近くまで道路は付けられているのだが、どれも道が細くて、駐車スペースというものがない。素直に雲谷寺に置かせていただいて歩いていくのがよいかもしれない。私はかなり近い部分の路肩のスペースに無理やり停めたのだが、小型車でなければそれも難しいだろう。

 車を置いた西側の畑脇から接近していくと、すぐに城塁が見えてくる。ここからの比高は20mほどであるが、わりあい急斜面になっているため、側面部はけっこう登りにくい。登城道も特に見られない。

 尾根まで登ると、後は先端を目指すだけである。城の手前に行くと、堀切が目に入ってきた。といっても深さは1mほどしかなく、本当にささやかなものである。とはいえ、堀切、土塁、虎口とそろっているので、城郭遺構であることには間違いない。

 そこから先が本郭部であり、地形なりに削平された長軸30mほどの郭が存在している。単郭の砦である。

 先の堀切は西側は竪堀となり、東側は傾斜して側面部の帯曲輪に接続している。帯曲輪は、堀切部分で尾根と隔絶されているわけではなく、堀切から先にも少し続いている。

 堀切から続く帯曲輪は、そのまま東側の側面部を延びていき、南側から西側にまで回り込んでいく。西南端部分はきちんと加工されていないが、緩やかな斜面となって下方に延びている。この辺りに虎口関連の構造を置きたくなるところであるが、ここは自然地形のままであった。

 西側の斜面にのみ、帯曲輪が形成されていないのだが、こちらはもともと斜面が急峻であったため、加工の必要を感じなかったのであろう。

 内部には後世に掘られたと思われる穴がいくつかある。また南西部に祠が一基祭られていた。これが愛宕社なのではないかと思われる。それゆえ「愛宕山」と呼ばれているのであろう。

 このように愛宕山砦は、小規模な単郭の砦である。反町城の背後を守るための施設であったと思われる。



南西側から見た愛宕山。ここからの比高は20mほどである。 本郭の堀切を、北側の尾根から見たところ。
本郭南端部下の帯曲輪。 本郭内部に祭られている祠。愛宕社を祭ったものか。




天神山砦(沼田市白沢町高平天神山)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 天神山砦は、峰堂山砦の東側にある比高30mの天神山に築かれていた。北側の利根沼田望郷ラインに向かう道路が、城址を取り巻くように通っているので、この道路から取り付けば、あっという間に城内である。道路の幅も広いので、車を停めるにも困ることはない。

 天神山砦にはいくつかの削平地が見られる。ただし、堀切や土塁といった明確な構造物は見られず、本当に城館であったのか疑問がなくもない。

 1郭はそれなりに削平された地形となり、緩やかな傾斜部分が南側に続き、切り通し通路から下の平場へと接続する。その部分の外側が高くなっており、何となく横堀のようにもみえる。その下が3郭でそこに朽ち果てかけた神社があったのだが、これが天神社なのであろうか。

 この他に2,3といった平場もあり、1郭周囲の側面部が、やや帯曲輪状になっているようにもみえる。しかし、全体として加工度が低く、明確に城郭を感じさせる要素は少ない。伝承があるのなら、城郭と認めてもよいのかな、といった程度である。

 ただし、北側の尾根の先辺りに、堀切状の部分があり、上の道路から南側に続いている。天然の小さな沢といったものであるが、人工に手が入っているようにも見える。これが堀切であるならば、天神山砦は明らかに城郭であるといっていいであろう。


 高平地区の小規模城館の中で、珍しくここには伝承が残されているようだ。『城郭体系』によると、新田義宗が拠ったが、上杉憲顕によって攻め落とされたという。このような伝承があるのだから、城郭であることに間違いないのであろうが、それにしては城郭らしい要素が足りていない。

 義宗は新田義貞の息子であり、南北朝時代の武将であるから、天神山砦も、南北朝時代の砦、ということになろうか。


南西から遠望した天神山。比高は20mほどである。 1郭内部。
1郭に祭られている祠。 3郭にあった神社。これが天神社であろうか。




毛台牧砦(沼田市白沢町)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 毛台牧砦は、城平砦のある峰の1つ東南側の尾根に築かれていた。やはり利根沼田望郷ラインが尾根基部を削っているので、ここから取り付けばすぐである。城平砦からの距離は150mほどと近接位置である。

 しかし、これは本当に城郭なのであろうか。何とも不思議な構造である。砦のある尾根は全体になだらかな傾斜地形となっているのだが、郭としても利用できそうな程度の緩やかさである。しかし、人口の手が入っているようには見えず、自然地形のままのように見える。

 北側は土塁状に高くなっており、その先に沼田望郷ラインが通っているので、この部分はまるで堀切と土塁のセットのようにも見える。とはいえ、望郷ラインは後からの開削なのであるから、本来は、ただ北側から尾根が延びてきていただけだったと思われる。

 土塁状になっているのは西側も同様なのだが、これも実際には「土塁のようにも見える自然地形」というべきものであろう。

 先端部は二股に分かれているが、西側は細尾根となり、東側は幅広の尾根となって南側の下方に降って行く。堀切のような明確は区画は存在していない。

 これだけである。確かに幅広の平場状の部分はあるのだが、これを城郭とみてよいのであろうか。どうもそうは思えない。東側の側面部には帯曲輪状の地形も見られるのだが、何かの通路の名残のように思われる。

 城郭ではない別の施設という線は考えられないであろうか。「毛台牧」というくらいであるから、かつて「牧」があったところなのかもしれない。城郭というよりは牧施設といった方がぴったりくる場所である。












北東側の切り通し道路。この左手から城内に進入していく。 郭内部。西側には天然の土塁状の土手が見られる。




丸屋砦(沼田市白沢町)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 丸屋砦も、城平砦から近接した位置にあり、城平砦の西側に隣り合う尾根に築かれていた。城平砦からの距離はやはり150mほどである。北側の山稜から南側に細長く延びた尾根が、砦の本体ということになる。

 この尾根の下の利根沼田望郷ラインから砦方向の尾根に取り付くと、周辺はけっこうな急斜面となっている。足を滑らせたら、ずるずると落ちていきそうな斜面である。

 利根沼田望郷ラインによって分断されている個所から南側にかけては、浅い切り通しの通路状のものが見られる。もちろん竪堀といったようなものではなく、かつての尾根道の名残のようである。望郷ラインによって分断される以前は、この尾根を通って、山の方に登って行く山道が存在していたのではないだろうか。

 切り通しはやがてただの細尾根となって、さらに南側へと続いていく。この途中から先端部方向を見ると、周囲が切岸状に見えており、なるほど城郭らしい雰囲気を感じさせる。

 しかし、実際に先端部まで訪れてみると、たしかにそこそこの平坦部はあるものの、まったく自然地形のみである。堀切や切岸といった城郭加工を見ることはできない。

 また、東方は緩やかな傾斜斜面となっており、簡単に敵を寄せ付けてしまう地形である。

 このように見てみると、丸屋砦には、城郭遺構はまったく見られないことが分かる。一時的に陣を置くなどのことがあった可能性までは否定できないが、いわゆる城郭の部類には入らない。どうしてここが城郭として登録されているのかまったく不明である。

 『城郭体系』にも「尾根上を削平した山城」としか書かれていないので、ようするに先端近くに削平地があるだけの場所、といっても過言ではなさそうである。私の感覚では、城とは呼べないと思う。




尾根の基部を断ち切っている道路。左手の脇から登って行く。 城内に向かって切り通しの通路が続いている。
先端部に向かう尾根。 先端部。若干の平場が見られる。




反町城(沼田市白沢町高平)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 反町城は雲谷寺の南側にある水田地帯に築かれていた。マッピング群馬の地図では、1つ下の部分(Aの辺り)を反町城跡としているが、山崎氏の図が示している個所は、図の1の部分である。

 現在の航空写真を見てみると、1の辺りは耕地整理が行われたようで、長方形の水田が並んでいるだけであり、まったく遺構は認められない。それでも1の周辺が微高地になっているという地形だけは理解できる。

 しかし1970年代の航空写真を見てみると、右のラフ図のような形状が残されているのが分かる。特に東側の基部の部分はくびれており、土橋1本で接続していたようである。これは単なる地形ではなく、航空写真からでも、くびれ部分をさらに人工的に削って、中央部を土橋状にしたらしい様子を伺うことができる。

 『城郭体系』によれば、反町城は、高平地域の中心堡塁であったという。要するに高平地域の領主の居館であったということだろう。ここは平地の居館であったために、防御機能を補うために、周辺の山稜に出城をいくつも設置していたということになるだろうか。





反町城の中央を通る道路。右手が1郭であったと思われる。正面はるか奥に鐘撞堂山が見えている。




佐馬允城(沼田市白沢町上古語父)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 佐馬允城は、初穂カントリークラブの南西側にある平野部に築かれていた。南側は比高10mほどの土手となっており、北側から見ても、南端近くが微高地となっている。

 南側の小川に臨む台地縁部の土手は切り立っているために、いかにも城塁のように見えている。しかし、北側は台地続きになっているため、さほど防御機能を有していないように思われる。

 城址があったと思われる周辺は、果樹園になっているため、内部を自由に探索することは不可能であるが、南側の住宅街の方まで行ってみると、南端近くが微高地になっていることが分かる。周囲に堀を廻らせれば、城郭としてのまとまりを持つことは可能であろう。ただし、現状では明確な遺構を見ることはできない。

 したがって、城郭があったらしい雰囲気をかろうじて残している程度の場所、といったところである。伝承があるのだろうから、城があったことに間違いはないのだろうが、どのような構造であったかは不明である。古い航空写真を見ても、その構造を把握することはできなかった。


 氏は不明であるが、その名の通り「佐馬允」という者の居城であったと言われている。




南側の土手。南端近くの微高地が城址であったと思われる。




峯堂山砦(沼田市白沢町高平峯堂山)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 峯堂山砦は、愛宕山砦と天神山砦との間にある比高60mほどの山稜に築かれていたが、現在は初穂カントリークラブの敷地内となっており、遺構は消滅してしまっている。

 下調べが不十分であったため、ゴルフ場の敷地内になってしまっていることを知らなかった。何か遺構が残っているのではないかと思い、側面部から直登して、城址に登ってみることにした。

 というわけで、城があった辺りまでよじ登って行ったのだが、どうも上は平坦になっているようだ。「畑にでもなっているのか」と思ったのだが、出てみると上はすっかりゴルフコースになってしまっていた。そのため、遺構は消滅してしまったようである。右のラフ図は、山崎氏の図に基づいて想像した鳥瞰図である。

 城は、尾根を削平したもので、4つの郭から成り立っていたようである。そのうち、2,3,4郭の間には堀切が掘られて区画されていたようだ。


 歴史についてもまったく未詳であるが、愛宕山砦などと共に、反町城の出城の1つであったのではないかと思われる。







東南側から見た峯堂山。比高60mほどある。 側面部から登って行ったら、内部はすでにゴルフ場のコースとなっていた。遺構は湮滅である。




権現山砦(沼田市白沢町)

*鳥瞰図の作成に際しては『関東地方の中世城館』(東洋書林)の図を参考にした。

 権現山砦は、雲谷寺の北西500mほどの所にある比高70mほどの山稜に築かれていたが、現在は初穂カントリークラブの敷地となり、遺構は消滅している。

 したがって、右のラフ図は、山崎氏の図を鳥瞰図にしただけのものである。それにしても、本当に城郭だったのかと思われる程度のものである。中心になっていた1の北側には、堀切などの区画は存在しておらず、周辺の小郭のようなものも、単なる自然地形の尾根であった可能性もあるであろう。実際にはどのようなものであったろうか。

 『城郭体系』には「自然地形を利用した砦」とある。これって、つまり自然地形しかなかったということではないだろうか。つまり、ただの自然地形の山を、一時期、砦として利用した伝承がある山、といった程度のものであったろう。


 位置からすると、佐馬允城の逃げ込み場所のようなものであった可能性がある。






山稜部を通る道路には展望台があった。そこから遠望した権現山砦の跡。すっかりゴルフ場に変貌してしまっている。

























大竹屋旅館