群馬県沼田市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 土の城への衝動  儀一の城館旅  城逢人

川田城(沼田市下川田町字五段田)

*ラフ図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 川田城は、川田の公民館(かつての役場跡)を中心とした一帯にあった。といっても、ナビもこの辺の地図は詳細がなく、公民館を探すのも大変である。なんとか公民館を見つけることができたら、車はそこに停めて歩いていくのがお勧めである。一見して、あまり要害の地形であるとは思われない場所である。実際には「城」というよりも「居館」と表現するのがふさわしい程度のものであった可能性が高い。

 県道を走っていると「加沢平次左衛門墓→」という案内がある(墓の案内表示はあるが、城の案内はない)。この案内のある場所のすぐ脇が公民館である。また、加沢氏の墓は、川田城の先端部分に祭られているお堂の脇にあるので、これを目指すことは結局は城内を目指すことになる(ただし、墓地のある部分は最先端部分である)。

 加沢平治衛門は真田氏の家臣であり、真田氏の歴史を知るうえで欠かすことのできない記録『加沢記』の作者として知られている。『加沢記』には感状などの史料も豊富に引用され、信ぴょう性が高い史料であると言われている。加沢平治衛門は晩年にこの地に隠棲していたとのことで、ここに墓が残されているのである。

 公民館に車を停めて歩いていくと、民家の庭先に「川田城」の案内が見えてくる。ということは、この辺りがすでに城の中心部近くであるということだ。この辺には民家が建てこんでしまっており、遺構を探すためには庭先に進入しなければならない。この様子では湮滅してしまっている可能性が高いと思われるが、もし遺構が残存しているにしても、民家の奥に入って行かなければ確認は難しい。

 そんなわけで、かつての城の形状はすでに失われてしまっているようだ。右のラフ図は、山崎氏の図のままに描いてみたものである。案内板にもあるように、城の主郭は五角形の郭であり、その周囲に堀が廻らされていた。さらに腰曲輪状の地形などもあったようだが、現在では地形の上からも城址という雰囲気は感じられない。


 川田城は、沼田氏の一族である川田氏によって築かれた城館である。しかし、後に北条氏の沼田進出によって川田氏は滅亡したと言われている。

 その後、川田城には山名義季が入った。さらに祢津幸直が城主となったが、北条氏・上杉氏・真田氏の抗争に巻き込まれて、やがて没落していった。天正10年以降は沼田地域は真田氏によって支配されるようになる。加沢氏が入城したのはその頃のことであったと思われる。

東側下から見た川田城。それほど高い台地ではなく、あまり要害性は感じられない。 先端部のお堂脇にある加沢平次左衛門の墓。『加沢記』の作者であり、晩年はこの地に隠棲していた。
民家の庭に立てられた城址案内板。遺構はすっかり破壊されてしまったようだ。




上川田城(沼田市上川田)

*ラフ図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 上川田城は、東光寺の東側下方一帯にあった。この寺院を目印にするのが分かりやすいと思う。

 東光寺の周辺の路肩に余裕がある場所があるので、その辺りに車を停めて歩き出す。東側に突き出した舌状台地が城址本体である。

 台地全体が宅地化しているため、遺構の残存状況には期待が持てない状況であるが、進んでいくと、道路脇に堀跡らしき地形を見ることができる。これが2郭の堀の跡なのではないかと思われる。しかし、だいぶ埋まっており、明瞭ではなくなっている。

 さらに進んでいくと、民家は終わり、台地先端部近くの平場に出た。先端部はかつての耕作地の跡なのか、全体に荒れ地になってしまっていた。しかし、おそらくここが主郭であったものと思われる。

 1郭の堀も埋められてしまっているようだが、残存部分がないか確認するために、ヤブの奥に進入していくと、その残欠らしきものを台地の北側縁部分に認めることができた。微妙な段差も続いている。これが1郭堀のラインということなのであろうか。はっきりしないので、なんだかもやもやする。台地は低いが、民家とヤブばかりで、訪れていてもちっとも楽しくない城址である。

 上川田城の現状はこのような状態であり、遺構の残存状況はかなりよくない。しかし、かすかに残存する遺構のイメージからすると、台地を掘り切る2本の堀によって区画された2連郭構造の城館だったように見える。ただし、『城郭体系』の記述では「3郭構造」とあるので、さらに失われた堀がもう1本あったのかもしれない。

 上川田城は、沼田景家が築城して、後には発知氏の居城となったと言われる。戦国期の天正10年頃には、沼田地域は真田氏の支配下にあり、発知氏も真田氏に属していた。


2郭の堀。だいぶ埋まっているが、なんとなく形状は分かる。 1郭の堀はほとんど埋められてしまっており、北端部付近にしか残存していない。




荘田城(和田屋敷・沼田市井戸上字和田)

*ラフ図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 荘田城は、井戸上町の熊野神社の辺りにあり、荘田城址公園となっている。周辺には「荘田城址公園400m→」といった表示が要所要所に出ており、それにしたがっていけば迷うことはない。

 駐車場は公園入口を過ぎて、やや高台に登ったところにある。ここまで来ると、前面に城塁状の土手が見えている。この上が城址公園であるので、間の小川を渡って上に行ってみる。

 台地上の公園にはいろんな施設が置かれている。公園内を散策していてまず目に入ってくるのが、復元された堀の跡である。深さ1.5mほどで、緩やかなカーブを描いた堀が形成されている。ただし、土塁がないので、どちら側に向かっての堀であるのかはよく分からない。位置も半端である。台地との距離は10mあまりに過ぎない。ということからすると、城の外側の堀というようには思われない。

 1つ考えられるのは、台地下の谷戸式城館を防御するための台地上の防御施設ではないかということ。茨城辺りの谷戸式城館には時々見かけられる構造(飯塚城塙北城沼田城法雲寺館など)で、城館の主体は谷戸内部であるが、上の台地に堀切を入れているタイプのものである。台地上の堀切がどの程度の防御力を発揮していたものか、実態はかなり心もとないのではないかと思われるのだが、こういうタイプの城館というのもあるのである。堀の復元は部分的であり、完全に掘り返されているわけではない。公園の南側の脇には、台地下に降りていく切通しの通路があるのだが、これと接続していて南側の区画をなしていた可能性がある。北側は台地突端部であるので、区画は必要ない。

といったようなわけで、城館の主体は台地上ではなく、下の神社周辺とみるのがふさわしそうである。確かに下には水路も廻っており、これがかつての堀のラインを示している可能性がある。しかし、現状では台地下の館の城塁のラインを復元することはできない。

 台地上の堀は平安時代のものであるという。荘田城が最初に築かれたのは平安時代の頃利根八郎によるものだと言われているから、年代はこれで合っている。

 この館がいつまで機能していたかは定かではないが、谷戸式城館は防御的には不利である。戦国期まで維持されていたとすれば、後に館が台地上に移された可能性も考えられる。

 荘田城の歴史については諸説あるが、現地案内板によると、利根八郎によるものであるという。彼は三浦一族であり、後に豊後の大名となる大友氏の先祖にもあたるという。

 室町時代には沼田氏の居館となる。沼田氏は各所に一族を配置し、当地域の支配を行っていたが、戦国期には滅亡してしまう。沼田氏の終焉とともに荘田城の歴史も終わったものと想像される。





神社背後の台地上に復元された堀。 南側の切り通し通路も、かつての堀の跡であろう。
神社周囲を流れている水路もかつての堀の跡であろう。 神社入口にある冠木門。




道坂城(関口城・沼田市堀廻町字道坂)

*ラフ図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 道坂城は、堀廻の台地の南端部に位置している。北西側にある荘田神社から南側背後の台地に上がって行くと、そこには一面の畑が展開しているが、台地南端方向がヤブになっている。そこが城址である。正面に鉄塔が見えるが、この南西辺りの位置である。

北側下の荘田神社には、境内に車を停めておけるスペースがあるので、ここに駐車させてもらい、背後の台地に上がってみることとする。

 台地上は広大な畑地となっており、先端周辺が山林化していることもあり、一見してどこが台地南端部にあたるのかがよく分からない。たまたま畑作をしていた現地の方に道坂城のことを伺ってみると、その方は城址の伝承についてご存知のようで、「それなら、あの鉄塔の右手の奥の方じゃないかな」と教えてくださった。そこで、鉄塔の右側を目指して行ってみる。

 ところが、城址の手前には笹藪のバリケードがあって、これを突破するのに一苦労しなければならない。道坂城の遺構はたいしたものではないので、よほど興味のある方以外は、無理に進入する必要はないだろう。笹藪と格闘してまで見に行くほどの城址であるとはとても言えない。

 山崎氏の図を見ると、単郭ながら折れを伴った土塁と堀がしっかりと残されているように見える。しかし、実際に残っているのは微妙な高さの土塁だけである。おそらく土塁を崩して堀を埋めてしまったために痕跡的な状態になってしまっているのだろう。それでも北東側の角部分は高さ1mほどあるが、それ以外の部分は50p程の微妙な段差しか認められない。それでもおおまかな形状を把握することは可能である。台地先端部分を利用しているので、位置取りとしては悪くない城館である。

 長軸50mほどの単郭の城館であった。

 道坂城は、かつて新田氏に属した関口氏の子孫で、関口信正の居城であったという。


台地南端部のヤブの中に城址が埋もれている。鉄塔の右手奥である。 わずかに残る土塁。




下沼田城(沼田市下沼田町)

*ラフ図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 下沼田城は、下沼田の比高20mほどの台地上にあったらしい。

 下沼田城は、下沼田地区の北側に位置している東西に延びた比高20mほどの台地を利用して築かれていたらしい。北側の山麓には四釜川の支流が流れている。四釜川を挟んでちょうど北西の道坂城と向かい合うような位置にある。

山崎氏の図を見ると、台地を区画する堀切によって3郭ほどが形成されていたようだが、堀の描き方が明瞭ではなく、見るからに期待できなさそうな雰囲気である。

 また、城址の周囲には民家が建て込んでいて、道路のある南側からだと、民家の庭先を通過しないと奥の城址に到達できないので、内部確認ができない。そうして台地を移動しているうちに、長広寺という寺院を見つけたので、ここに車を停めさせてもらうことにした。長広寺のあるところが3郭に当たる。

 長広寺の脇には赤い稲荷神社の社殿もあって、稲荷についての案内板も設置されていたのだが、城についての説明はまったくなかった。かつて近くに古墳があり、稲荷はその上に祭られていたのだが、後に現在の地に移されたものだという。

 長広寺の東側に堀跡が残っているらしいのだが、よく分からなかった。また、ここから西側に進んだところにある切通しの通路が2本目の堀切跡であるらしい。この切通しから西側が2郭である。

 さらにその西側に進むと、もう1本の堀があり、その先が1郭ということになるのだが、1郭の堀は山崎氏の図面でも線でしか描かれていないので、山崎氏が描いた当時にはすでに埋められてしまっていたものと想像される。

 下沼田城の歴史等は未詳である。






南側から城のあった台地を遠望した所。 城址にある稲荷神社j。




木内屋敷(沼田市中発地)

*ラフ図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 木内屋敷は県道266号線沿いにある武尊神社のすぐ南西辺りにあった。

 館の規模は60m四方ほどのもので、土塁が周囲に巡らされているが、堀は特に見られない。また虎口が東西南北の四方にある。ただし、西方、南方の一部はすでに取り払われており、完存していない部分もある。

 現状では単郭の、それも「城館」というよりはまさに「屋敷」の呼称がふさわしいものであるが、『城郭体系』によると、かつては西側にもう1郭が存在していたという。となると、それは馬出しといってもよさそうなものである。


 木内屋敷は沼田一族であった木内氏の屋敷である。木内八右衛門北条氏に属して天正8年には荒砥城を攻撃するなどの戦功を挙げ、北条氏政の感状を受けているらしい。

 天正9年には、沼田城代海野輝幸と戦って打ち取られたという。







東側の土塁。一部は石垣化している。 北側の土塁。堀は見られない。
























大竹屋旅館