群馬県太田市(旧新田町)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人

木崎屋敷・堀ノ内(太田市新田町木崎元屋敷、堀ノ内)

 木崎城は、木崎小学校の北西600mほどの所にあった。しかし、宅地化が進んでしまったせいか、湮滅状態にある。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基に想像してみたのが右の図である。2郭構造の城館であったらしい。また、北東側には方形の堀ノ内区画もあり、こちらは現在、県道311号線に南西辺を削られている。

 昭和50年代ころまでは堀や土塁の一部が認められたらしいが、その後も耕地整理が進み、消滅してしまったものと思われる。平地城館のお決まりの運命である。

 明確な遺構は存在しないが、木崎屋敷の北西辺辺りの部分に、土塁の残欠のようなものが見られるところがある。しかし、確信の持てるものではなく、実際に土塁跡であるのかどうかはっきりしない。

 また、北似位置している堀ノ内の北側にも、民家の敷地内に土塁状のものが見られる部分があるのだが、これが遺構なのか後世のものなのかは不明である。


 木崎屋敷は、『太平記』に登場する篠塚伊賀守の一族の木崎氏の居館であったという。










屋敷跡の北側角辺りに残る土塁の残欠のようなものだが、実際の遺構かどうかははっきりしない。




田中館(太田市新田町上田中)

 上田中にある長慶寺が田中館の跡である。長慶寺の境内を中心とする方100mほどの城館であったと思われるが、山崎一氏の図によれば、西側の一部は県道によって削られ、綿打中学校の敷地となっている。

 東側は墓地となり、南側は民家の敷地となって、堀や土塁は埋められてしまっているようだが、本堂の背後に回ってみると、北側の土塁の跡らしき高まりが認められる。この土塁の外側の堀は道路になってしまっているが、館内部よりは一段低くなっている。


 田中館は田中氏の居館であった。田中氏は新田義重の息子里見太郎義俊の五男、義清がその祖であるという。以後、田中氏はこの地を居館として中世末期まで続いていく。

 後に田中氏の一族が、京都に登り茶道を極めた。これが千利休であるらしい。

 この田中氏は南朝の伝説的な天皇であった長慶天皇を敬愛しており、長慶寺の名称はそこから取られたものであるという。新田一族は長慶天皇を奉って北朝軍と戦いを展開した。この長慶天皇は、各地を放浪し、どこで没したのか不明な人物なのであるが、この地に没したという伝説もあるということなのであろう。
 
 長慶寺の墓地には、古い墓石が2つあり、案内板が設置されていた。1つは屋根付き供養塔であり、これが長慶天皇の墓と言われているものである。本当なのかどうか不明だが、本当だとしたらきわめて史跡価値の高いものだといえる。

 もう1つの宝篋印塔の方は、田中氏の開祖である田中義清の墓であると言われている。こちらも由緒のあるものである。現地案内板には「千利休の祖である田中義清」と書いてあったが、なるほど、「千利休の」と言った方が通りがよいのであろう。




長慶寺の背後には土塁の跡が見られる。 墓地内にある長慶天皇の墓と、千利休先祖の墓。




上田中屋敷(太田市新田町上田中)

 上田中屋敷は、上田中の大奈荷神社のすぐ南側にある。内部は民家の敷地内となっているため、外からの観察しかできないが、遠目にも堀がありそうなのが見て取れる。

 周囲を回ってみると、堀が全周残っているようなので驚いた。この堀は、現在の地図でもきちんと水堀として描かれている。平地城館の堀はあっさり埋められて湮滅してしまっているのが多いのだが、ここは小規模ながらよく残されている。貴重な遺構であると言っていい。

 堀のうち、南側の正面にはきれいな湧水が湛えられ、池となっている。そこから北側にかけて、水堀が長く延びている。屋敷の規模は40m×60mほどである。


 上田中屋敷は、新田系田中氏の一族と思われる岩崎氏の居館であった。














南側の水堀。きれいに整備されている。 北側の水堀。堀は全周、残っている。




綿打館(太田市新田町大根)

 大根の大慶寺が綿打館の跡であるという。けっこう大きな寺院なので駐車場もしっかりしているから、駐車するのは安心である。

 駐車場に着いてみると、車が何十台も停まっているのにびっくり! こんなに人気のある寺院なのか。空いているスペースを探して車を停めて、境内を歩き出す。ところが・・・・あれほどたくさんの車があったというのに、境内では人っ子一人会わないのであった。車を停めているたくさんの人たちはいったいどこに行っているのであろうか? 本堂も静かで、特に法事が行われている様子もない。

 案内板を見てみると、境内裏には大規模な「ぼたん園」があるらしい。そうか、みんなぼたん園に来ているのか、と勝手に納得してぼたん園の方に向かう。ところが、ここにも誰一人としていなかった。それに真夏ということもあって、ぼたんはすでにみんな枯れてしまっていた。結局、この寺院では誰一人として遭遇することはなかった。あのたくさんの車の人たちは、いったいどこに行っているのであろうか。ミステリーである。狐につままれたような気分というのはまさにこれだ。

 さて、綿内館は、この境内を中心とした方形の居館であったと思われる。しかし、東西南の三方向は、すでに遺構は失われてしまっているようである。しかし、北側のぼたん園に入ってみると、こちらには遺構が残されていた。

 最も明瞭な遺構は、本堂のすぐ裏にある土塁と堀の跡(通路となっている)であろう。こちらは城館遺構と見て差し支えのないものである。また、もっと北側にも、通路となっている窪んだ地形がある。位置から考えると、これも堀跡とみてよさそうなのであるが、こちらは完全に通路になってしまっているので、そのまま遺構としてみてよいのかどうか、疑問も残る。


 綿打館は、綿内氏の居館であったという。綿打氏は、新田氏の一族である。大慶寺は新田義重の娘であった妙満尼の開基と言われ、新田一族の寺院として、江戸時代には徳川氏によって保護されてきた寺院である。













ぼたん園北側の堀跡らしきもの。 本堂北側に残る土塁と堀跡。




大根館(太田市新田町大根)

 大根館は、県道2号と315号とが交差する大根の信号の北東200mほどのところにあった。しかし、御多分に漏れず宅地化によって遺構は湮滅状態にある。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基に描いたのが右の図である。方100mほどの居館であったと思われる。

 明確な遺構はないが、東辺には水路が通っている。これがかつての堀のラインを示しているのではないかと思われる。


 大根館は、大根氏の居館であったという。















館跡にある水路は水堀の跡かと思われる。




金井屋敷(太田市新田町金井)

 金井屋敷は、県道2号線と69号線とが交差する金井交差点の東200mほどのところにあった。現在の県道2号線と45度の角度で交差するような位置にあり、屋敷の南辺近くを県道2号線が貫通している。

 こちらも宅地化のために遺構湮滅状態ではあるが、県道の南側にかつての館のラインと思われる道が残されている。これによって旧状はある程度想像できるが、山崎一氏の図と古い航空写真を基に想像図を描いてみた。街道に対して平行でない形状をしているのは珍しいが、本来の街道は、館を迂回するようにして回り込んでいたのであろう。

 館は方100mほどの規模であったと思われる。


 金井屋敷の館主等、詳細は不明である。















宝蔵寺館(川島氏館・太田市新田町村田)

 新田村田町にある宝蔵寺が宝蔵寺館の跡である。現在、明確な遺構は残されていないが、宝蔵寺の境内は、若干の微高地のように思われる。また、山門の南側には、土塁と堀の痕跡とも見られるような地形があるのだが、これが本当に遺構なのかどうかは、はっきりしない。


 宝蔵寺館は、村田氏の居館であったという。村田氏は岩松時兼の長男、頼兼から始まる新田氏の一族であった。















山門前面には、土塁と堀の痕跡のように見える地形がある。




地頭屋敷(太田市新田町瑞木)

 宝蔵寺の北500mほどの所にある民家が地頭屋敷の跡である。周辺は一面、新興住宅地となっており、新しい区画になっているが、このお宅は古くからあったもののようで、全体の区画から独立した土地となっている。

 ざっと見たところ、明確な遺構はなさそうに思われる。しかし、帰宅してから航空写真を見てみると、民家の裏には、遺構の残っていそうな山林があるのが分かった。もしかしたら、この中に何か残されているのかもしれない。そんなわけで、右の図は山崎一氏の図と古い航空写真を基に描いた想像図である。


 地頭屋敷の歴史等詳細は未詳である。「地頭屋敷」というのだから、鎌倉時代以降、地頭が屋敷を営んだところなのだろうと思うのだが、いつの時代のなんという地頭なのかは分からない。














地頭屋敷周辺の水路。堀跡か?




市野井城館群(蛇屋敷・南の広瀬屋敷・南の高城屋敷・孫兵衛屋敷・本郷C館・本郷D館・本郷F1館・本郷F2館・太田市新田町市野井)

 新田義貞の旗揚げの地として有名な生品神社のすぐ南側の市野井地区には、平地城館の跡が多数残されている。これらの全体の位置関係が分かるように、一枚にまとめて描いてみた。このうち本郷D館、孫兵衛館など、遺構が湮滅してしまっているものもあるので、そちらは山崎一氏の図と古い航空写真を基に想像してみた。

 最も北側にあるのが蛇屋敷である。蛇屋敷というのは、この地域にまま見られる名称であり、ぞっとしない名前であるが、実際には「兵部」がなまったものであり、「○○兵部」といった人物の屋敷であったものらしい。この蛇屋敷は、『太平記』にも登場する一井兵部の屋敷であったと言われる。

 ここの蛇屋敷は、工場の敷地となってだいぶ湮滅しているが、北側の水堀はよく保存されている。湧水点があるらしく、とてもきれいな水を湛えた堀である。

 蛇屋敷のすぐ西側にあったのが本郷D館である。しかし、こちらは遺構は残っていない。

 蛇屋敷の南西にあるのが本郷C館である。こちらの水堀は、水を失ってしまっているが、それでも土塁と堀の一部が残されており、館であったことが分かる。

 南の広瀬屋敷は、この地区の城館の中では最も遺構を残している屋敷である。東側には折れを伴った水堀があり、南、西側にも水堀が見られる。

 広瀬屋敷西側の水堀には「新田の湧水 通木」の案内板も設置されていて、それによると、館主の広瀬氏は、近江国広瀬から、岩松氏の家臣として15世紀の末に移り住んできたのだという。北側には湧水点があり、現在も水堀に流れ込んでおり、これが通木湧水と言われているものである。館の規模は75m四方であるという。

 館跡には南側を除いて二重の堀があるという。このうち、西側の部分は通路があって内堀のところまで入って行けたのだが、内堀は堀というよりは溝のようなものであった。

 広瀬屋敷の南西側にあった孫兵衛屋敷は遺構湮滅となってしまっている。この館だけ、角度が西側に斜め寄りになっていたようだ。

 南の高木屋敷も、水そのものは残っていないが、東側と南側の土塁、北側の土塁と堀の痕跡などから、館跡の形状は明瞭である。高木屋敷は、その名称の通り、高木氏の屋敷であったと思われるが、高木氏については未詳である。やはり岩松氏の一族であったろうか。

 西側の本郷F1館本郷F2館は、何となく、城塁のラインは理解できるが、ヤブもひどいことと接近しづらい場所にあるので、明確な遺構は確認できていない。


 これだけ方形館が密集している地域はあまり見たことがない。市野井城館群は、そういう意味でもとても興味深い遺構である。

生品神社の南側にある蛇屋敷の水堀。よく雰囲気を残している。 広瀬屋敷東側の水堀。
広瀬屋敷西側の水堀。この脇に案内板が立てられている。 広瀬屋敷西側の内堀。堀というよりも溝のようなものである。
本郷C館北側に残る堀の跡。 本郷F1館西側の堀跡。
高木屋敷北側の土塁と堀跡。 城館群のすぐ北側にある生品神社は、新田義貞旗揚げの地として、国指定史跡となっている。




新屋敷(太田市新田町市野井)

 市野井城館群からは少し離れ、本郷F2館の西側500mほどの所にあった。こちらは遺構は残されていないが、山崎一氏の図と古い航空写真を基に想像図を描いてみた。

 現在、屋敷跡の北西側の角を廻るようにして水路が通っている。とてもきれいな水の水路で、これがかつての堀のラインの一角を成していたのではないかと思われるのだが、堀の面する部分に城塁状の地形を見ることはできなかった。

 実際の屋敷は、西側にやや傾いた形状をしていたようである。規模は60m×100mほどであったろうか。


 「新屋敷」というくらいであるから、市野井の他の城館群よりは新しい館だったのではないかと思われるが、詳しいことは分からない。











新屋敷周囲を流れる水路は、かつて堀として利用されていたものであろう。




村田田中館(太田市新田町村田)

 村田田中館は、生品小学校の北側300mほどのところにあった。耕地整理が行われてしまっているようで遺構は見られなくなってしまっている。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基に想像図を描いてみた。方形二重の居館であったようである。

 ところが、航空写真を見てみると、いかにも何か残っていそうな竹林が見えている。ということで、真夏だというのに、このヤブの中に突入してみた。だが、結果は・・・ただの竹ヤブであった。場所がずれているのであろうか。


 歴史等も未詳である。昭和62年の発掘調査で検出された城館であるという。












館跡付近の竹やぶの中。遺構がありそうな雰囲気だったのだが、よく分からなかった。




小金井館(太田市新田町小金井)

 小金井館は生品幼稚園の東200mほどの所にある。脇を通りかかると、現在でもゆったりと水を湛えた堀が見えてくるので、城館跡であることは一目瞭然である。100m四方ほどの城館であったと思われる。

 しかし、水堀がきれいに残っているのは西側の部分だけで、内部の土塁も南側に進むにつれて失われてしまっているようである。ただの水路状になってしまっている。

 北側はヤブになっているが、きちんと残っていると思われる(奥まで確認はしていないが)。堀と土塁は東側の端で、南側に折り返していおり、このすぐの辺りで消滅してしまっているようである。この南側は民家となって失われてしまっている。

 このように遺構の半分は失われてしまっているが、残っている部分だけでも、かなりの見ごたえのある城館である。堀幅は5mほどあり、水量もかなりある。水利権の象徴であった平城のイメージを現在でも留めている城館である。


 小金井館は、岩松氏一族、小金井繁光の居館であったという。













小金井館西側の水堀。現在もしっかりとした遺構が見られる。





























大竹屋旅館