群馬県中之条町

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の山城と館』(宮坂武男)

*参考サイト  岩櫃城興亡史  土の城jへの衝動  儀一の城館旅

仙蔵城(折田城・内山城・中之条町折田字内山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『関東地方の中世城館』、『境目の山城と館』、儀一の城館旅を参考にした。

 仙蔵城は、四万川に臨む比高160mほどの急峻な山に築かれている。山麓から見上げると、所々に岩盤がむき出しになっているのが見えている。いかにも堅固そうな山だ。

 国道353号線の、城山を通るトンネルを抜けた辺りに城の案内板があるらしい。そちらの標記は「内山城」となっているようだが、この城は『加沢記』に仙蔵城として出てくるので、歴史的に見たら仙蔵城として紹介するのがふさわしいと思う。

 この案内板のところから登るのが、おそらく正規のルートということになるのであろうが、なかなか登りが大変そうだ。

 そこで地形図を見てみると、北側の台地の縁辺りから、城址まで尾根が続いていて、その尾根の先端近くの部分を利用して城を展開させていることが分かった。ということは、北側の台地から尾根伝いにいけば、そんなに登らなくても城に到達できるということではないか! 航空写真を見てもなんとなく道が付いているように見える。ということで北側の尾根からアクセスすることにした。

 台地上は一面の水田地帯となっている。そこから尾根先端の城址に向かって鉄塔がいくつか立ち並んでいる。実際に城内には2つの鉄塔が建っているので、これが目印となる。

 台地に上がると、奥がどの方向になるのかちょっと分かりにくいのだが、台地縁部にも巨大な鉄塔が建っているので、鉄塔がある方を目指していくようにする。水田地帯の中の未舗装の道を進んでいくと、やがて台地先端近くになり、その辺にちょっとした空き地があるので、車をそこに停めておくことができる。

 樹木が生えているため、尾根先端方向へのアクセスが分かりにくいのだが、鉄塔のある右側ではなく、左側の先に進んでいくと、ヤブに埋もれかけた作業道があるのが見える(接近しないと分からないくらいヤブ化しているので注意)。後はその作業道を通っていけば城の手前まで簡単に到達することができる。この道、鉄塔の資材を運ぶために開削したもののようである。四駆の車ならあるいは行けるかもしれないが、普通車ではまず通れない。素直に歩いていくしかない。

 雨が降ってきたので傘を差しながら歩いていく。最初はけっこう降っていくのだが、途中からは平坦な尾根となり道もしっかりしている。こんな道なら、傘を差しての山城登城も楽勝じゃん、と思いながら、次の鉄塔の脇を過ぎると、いよいよ城塁が見えてきた。

 しかし、それを見て唖然・・・城内の側は一面の笹ヤブになってしまっていた。それも相当の量である。天気がよければ笹ヤブをかき分けていけばよいのだが、今は雨である。雨のなか笹ヤブを通過すれば、どういうことになるのか・・・・全身ずぶぬれになってしまうのは理の当然である。

 かといって、ここまで来て引き返すことはできない。ずぶぬれになることを承知で、笹ヤブの中に突入していった。ところがどっこい、敵は笹ヤブだけではなかった。笹ヤブに混じって中にはたくさんの茨が生えていたのである。茨城でもないのに茨のヤブとは・・・・。おかげであちこちに擦り傷を生じてしまった(その時はそうでもなかったのだが、帰宅してから両手の甲を見ると、ひっかき傷が無数について痛々しい状態になっていた)。5,6,7郭は笹ヤブに侵略されつくしている。

 特にひどいのが堀切の斜面であった。何かに手を掴まらなければ堀切を登れないのに、掴めるものが茨しかないのである。たちまち手にトゲが刺さってくる。全身濡れながら、しかも擦り傷を作りながら進んでいくのは狂気の沙汰である。いや、まさに狂気そのものである。こんなことは絶対に真似しない方がよいと思う。

 この笹ヤブの先端近くに6郭の堀切がある。城域の区画を示す堀切である。この先の5郭は1面の笹藪である。この5、6郭は南北に長く、その間に浅い堀切が1本ある。注意してみないと見落としそうなくらいの規模のものである。

 5郭を過ぎると、4郭の城塁と堀切が見えてきた。4郭も笹ヤブしかない。笹ヤブと茨にまみれながらそれを突破して上がっていくと、鉄塔のある郭が見えてきた。どうやらここが1郭であるようだ。1郭からは笹ヤブはなくなるので、ちょっとホッとする。

 1郭は長軸20mほどはあるが、必ずしもきちんと削平されているわけではなく、西側の縁部は傾斜している。また、鉄塔の建っている東側斜面は、改変もされているようで、一部削られてしまったように見える。

 1郭から下に降りる道が見えている。このうち左側に降りていくと、小規模な堀切が2段あり、東側の小郭群の方に続いていく。

 その途中から1郭南側の堀切が大きく見えてきた。南側のルートの方が城の主要な郭に接続しているようである。そこで今度はその堀切の方を目指す。この堀切から外側を覗き込んだら、下は断崖絶壁であった。足を滑らせたらただではすまない。

 この堀切から南側にかけては2,3郭を始めとして末広がりに何段もの郭が造成されている。ただし、切岸加工はそれほどしっかりとしたものではない。

 この他の尾根にも遺構はあちこちにありそうだが、雨が降ってきたせいで足元が危なくなってきたので、今回はこれくらいにしておいた。

 その後は帰路となるわけだが、当然のことながら、またあの笹ヤブの中をかき分けていかねばならない。笹ヤブ以外のルートが通れないか検討してみたが、来た道を通るのが一番無難であるという結論に達した。側面部には断崖状の急傾斜もあり、雨の中うっかり足を滑らせてしまったら一巻の終わりである。それならまだ、笹ヤブに濡れる方がましかもしれない。命あっての物種、というわけである。結局、帰路も全身、12月の雨に濡れてしまっていたのであった。そういう意味でも仙蔵城は厳しい思い出の城となってしまった。

 仙蔵城は、要害地形を利用したなかなか堅固な山城である。天険を利用しているが、そのためか、それぞれの郭はあまり大きくなく、城域の広大さに比して、それほど多数の兵が籠城できるような城ではないのではなかろうか。緊急時以外には使用されなかった城郭であろう。

 最後に1つだけ忠告させていただく。この城を雨の日に訪問するのは、絶対にやめた方がよいと思う。それと、軍手は必需品である。


 『加沢記』には、永禄6年8月の真田氏による岩櫃城攻撃の際に、真田昌幸は赤岩通りから暮坂峠を越えて、折田・仙蔵の城を攻めている(この本文を読んでいるとき、折田城・仙蔵城という2つの城があるのかと思ったのだが、仙蔵城は折田というところにあり、折田の仙蔵城という意味であったようだ)。この城の城代齋藤将監入道、冨澤加賀は、人質を出して降伏した、とある。その後真田昌幸は、城に西窪治部、川原左京を入れ置いたが、戦後は仙蔵の城を返却した。

南側の国道沿いから見た仙蔵城。ここから1郭までの比高は160mほどある。 北側の台地の先端部分。この先を右手の鉄塔の方ではなく、左側に降っていくと、城址まで続く作業道となる。この辺りに車も停めておける。
作業道を進んで、次の鉄塔の下まで来た所。城内に建つ2つの鉄塔と、6郭先端の城塁が見えている。右側の鉄塔が建つところが1郭である。 6郭下の堀切。笹ヤブだらけである。
5郭も6郭も一面の笹ヤブである。濡れた笹ヤブを突破するのはしんどい。 5郭から4郭を見たところ。
4郭との間の堀切。 1郭内部。やっと笹ヤブから開放された。
2郭との堀切。やはりヤブがないと気分がいい! 3郭腰曲輪群の城塁。
2郭にあった祠。この下に扇型に腰曲輪が展開している。 1郭との堀切の手前にある浅い堀切。
東側尾根にある小規模な堀切。 その下にもさらに堀切がある。
帰路に着く。再び5郭に戻ってきた。またあの笹ヤブをくぐっていくのかあ・・・・。雨が降ってなければ、それほど厳しいことではないのだが・・・。 6郭先の堀切。それにしても、どうしてこんなに笹ヤブが育ってしまったのだろう。繰り返して言うが、雨の日にこの城を訪れるのは絶対にやめよう!




桑田城(寺山要害・中之条町山田字寺山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『関東地方の中世城館』、『境目の山城と館』、儀一の城館旅を参考にした。

 桑田城は四万川に臨む比高120mの山稜先端部に築かれている。桑田城の山麓から眺めると、四万川を挟んですぐ北東側には仙蔵城が見えている。仙蔵城には3本の高圧送電塔が立てられており、それが桑田城に続いているのである。桑田城にも2本の送電塔がある。かつては敵対していたかもしれない山城同士が、現在は高圧線で接続されているというのも皮肉な話である。

 さて、桑田城の登り口であるが、南側の端辺りにある。近くには車を停められそうな空き地もあるので、そこに置かせてもらうとよいと思う。この道は山上の神社への参道であったと思う。

 ちょっとひるんでしまうのが、山全体を電磁柵が囲んでいることだ。これを通り抜けなければ、山の側に入り込むことすらできない。そこで通りかかりの近所の方に「この中に入って城を見学したいのですが」と相談すると、「柵を外した後、また元通りにしておいてくれれば、入っても構わない」とのお返事。そこで、黄色の取っ手の部分を持って、何本か外して内部に入った後、また元に戻しておいた。それにしても、こんなに厳重に山を囲んでいる電磁柵というのは初めて見た。この山にはそんなに獣が棲んでいるのであろうか。

 後は山上まで道がしっかりと付けられているので、それを進んでいくだけである。しかし、山が急峻なためか、山道もけっこう急である。かなり足腰に来てしまった。

 山頂近くなる例の2本の鉄塔が目に入ってくる。それも2本とも巨大なものである。2本とも郭のあったところに立てられているのだが、いずれもかつての郭の地形を削っているようだ。特に西側の新しい方の鉄塔は、堀切を一部埋め、かつての郭にあった土段状の部分をすっかり削平してしまっている。そのため、登城道のためのルートが分かりにくくなってしまったようだ。

 鉄塔を過ぎると城塁が目の前に迫ってくる。それを登っていく途中に通路となっている帯曲輪があり、北側のテラス状の郭へと続いている。そこへ向かう途中の斜面には竪堀が1本掘られている。この城で竪堀が見られるのはこの場所だけである。

 そこを上がったところに神社の建物があり、そこが1郭であることが分かる。しかし、思ったよりも加工度は低く、削平状況もまあまあと言った程度である。郭の縁部分などは自然地形とあまり変わらない。切岸加工を行ったため、腰曲輪が生じているが、それもそれほどきちんとしたものではない。

 1郭の西側に堀切があり、その先が2郭である。堀切は深さ2mほどあるが、それほど深くも鋭くもない。

 2郭は尾根状に西側に延びているが、こちらも削平は不十分で、自然地形のままなのだと思う。

 2郭を進んでいくとまた小ぶりの堀切があり、その先が3郭である。3郭は、もはや郭ではなく自然地形のままの斜面である。そうして西側の鞍部になったところに最後の堀切がある。基本的にはもともとあった鞍部を利用しただけなのだが、両側の底に接する部分には削られた跡があり、堀切として加工しようとした意図はうかがえる。

 このように桑田城には一通りの城郭遺構はそろっているが、どれも加工が甘く、本格的なものではない。戦国最盛期の城郭であったとは思われず、古い時代の山城だったのではないかという印象を受ける。

南側の山麓から遠望した桑田城。ここからの比高は120mほどある。 桑田城の入口。電気柵があるので、黄色い取っ手の部分を取り外して中に入る。ただし、必ずきちんと元に戻しておくこと。
3郭に建つ高電圧鉄塔。 1郭から2つ下の横堀状の部分。
1郭に祭られている神社。 1郭背後の堀切。わりと緩やかになってしまっている。
4郭。傾斜地形である。 城域を区画する4郭の堀切。
北側の下にある腰曲輪。 2郭の様子。一部は改変されているが、ヤブの中に堀切は残っている。




山田古城(中之条町山田)

*鳥瞰図の作成に際しては、『関東地方の中世城館』、『境目の山城と館』を参考にした。

 山田城は吾妻神社から南側に入り込んでいったところにあった。道路脇からすぐにアクセスできる城館であるが、北側下の四万川から見れば、比高50m位の高さがある。

 高野平城のところで述べている林道を進んでいけば、途中に案内板と城址標柱が立っているのがいやでも目に入ってくるので、その位置はすぐに分かる。

 路肩に車を寄せて、城内に入っていく。そこから北側に延びた尾根の部分が城址であるらしく、すぐに1郭の城塁が目に入ってくる。1郭や腰曲輪には標柱が立っているのだが、いずれも文字がほとんど読み取れなくなってしまっている。

 それにしてもパッとしない城である。1郭の周囲の城塁は高さ2mほどしかない。その手前の腰曲輪にいたっては尾根続きにだらだらと接続しているだけである。1郭と東側の2郭との間には堀切があるが、これもごく浅いものである。

 といった具合に、どの城塁も低いものばかりで堅固さに欠けている。これではとても籠城などおぼつかないのではないかと思ってしまう。

 遺構がパッとしないだけではなく、全体にヤブ化している。町の史跡になって案内板も立っているのに、まったく整備されていない。訪れやすい城郭ではあるが、防御性をそれほど重視していない城館のように思われてしまうのであった。。

 山田城については、鋭さをあまり感じさせない城館である、という印象が強い。平場はそれなりにあるが、案内板のある方向からだと、簡単に主郭まで攻め込まれてしまう。なんだか心もとなくなってしまう城である。

 ところで、宮坂氏の図面を見てみると、南側一帯に土塁を配置した郭が描かれているのだが、どうもこれも現状のイメージとは合わなかったので、今回の鳥瞰図には反映していない。もっとも、南側の台地続きの部分に関しては、笹ヤブがひどくて(雨も降っていたので)確認できなかったためであり、実際にはその通りの遺構が存在している可能性が無きにしも非ずではあるが。


道路脇にある山田古城の案内板と標柱。いやでも目に入ってくる。 案内板の所から入ってすぐに目に入ってくる1郭の城塁。高さ2mくらいしかない。
1郭にある標柱だが・・・読めない。「本曲輪」とでも書いてあるのか。 腰曲輪の標柱。これはちゃんと読める。
1郭東側の堀切。かなり浅い。 2郭の土塁。




城峯城(城峰城・中之条町西中之条字城峯)

*鳥瞰図の作成に際しては、『関東地方の中世城館』、『境目の山城と館』を参考にした。

 城峯城は、柴宮神社背後の比高40mほどの山稜に築かれていた。たいして規模の大きな城郭ではないのだが、町指定の史跡になっているようで、下の県道沿いに「城峯城入口」と書かれた標柱が立っている。

 それにしたがって山道を尾根上まで上がったところに城の案内板と標柱とが立てられていた。城のすぐ隣には「社会福祉法人ほほえみ工社」という施設があり、そのためであろう、ここまで上がってくる道は舗装されたいい道路になっていた。車は案内板の脇に、ちょっと停めさせていただいた。

 案内板のあるところから南側にかけては、かつては堀があったようであり、端の方にはその名残が見られる。

 その右手の土手の上が城内である。基本的には単郭の城であると思われ、一部に土塁を配したこの部分が城の中心である。北側と南側の下には腰曲輪を設置してある。

 それにしても城内は笹ヤブがひどい。全面が笹ヤブなので、内部の状況を確認するのは至難の業である。城の構造からして、東側にも堀切を入れて分断したいところなのだが、東側ははっきりしない段差程度の区画しかない。本来あった堀が埋められてしまっているのであろうか。

 この1郭から東側にかけてはなだらかな尾根が続いている。この尾根は自然地形のままのようであり、特に加工された跡は見当たらない。

 ところがこの尾根を100mほど進んだ先端部に、小規模ながらまとまった区画がある。周囲が若干の切岸加工となっているようであり、特に背後の方は浅い堀切のようにも見える。

 こちらを出丸とすべきなのかもしれないが、現状では何とも言い難いところである。現在ここには墓があり、つい今さっきお参りに来た人がいるようで、真新しい花や果実、線香の香りがしていた。人気のない山中で線香の香りをかぐと、一瞬。ドキッとしてしまう。

 この先端部分が出丸であったとしても、たいした防御力を発揮できるような構造ではない。この部分は、どちらかというと後世の改変のような気がするのだが、どうだったであろうか。

 結局のところ、城峯城は、現状からは1郭だけの単郭構造の城郭だったとみるのがよさそうに思われる。城というよりも、館といった方がぴったりくるようなレベルのものである。もっとも、現在「ほほえみ工社」の建っている部分がかつての郭の跡であったとするなら、もっと広大な城郭を想定するべきなのかもしれない。

南側から遠望した城峯城。比高40mほどの山稜である。 1郭下にある案内板。
1郭西側の堀跡。 南側の腰曲輪から見た1郭城塁。
1郭内部。笹ヤブだらけで、何にも分からない。 先端の物見郭の堀切。
物見郭の墓。たった今誰かが備えた花や果物があり、線香の香りがしていた。こんな山の中で線香の匂いがすると、かえって不気味である。 1郭南側の腰曲輪にある竪堀。




小城・伊参城(中之条町中之条)

*ラフ図の作成に際しては『関東地方の中世城館』『境目の山城と館』を参考にした。

 小城は、JR中之条駅の東600mほどの所にあった。先端部分が古城公園となっているが、城内のほとんどは住宅街となってしまって、遺構は完全湮滅状態である。それでも、1970年頃の航空写真を見ると、右の図のようなラインを確認することができる。これが堀のラインであったと思われる。ということは、1970年代以降の宅地開発で破壊されてしまったのであろう。1郭は50m×45mの規模であったという。
 
 現在、やや切り通し状になった道路が城内に2本残るが、かつての城塁のラインとは一致しない。古城公園があることから、ここが城址であったことは多くの人に認知されていると思うが、どのような形状であったか知る人はあまりいないであろう。

 小城(こじょう)という字を当てているが、これは「古城」の転なのではないかと思われる。

 『城郭体系』には、1郭2郭ともに石垣を用いた城塁を配置していたとあり、この地域には珍しく石塁構築物を有する城郭であったようである。残っていれば貴重な遺構だが、残念ながら保存する手立ては行われなかったようで、現在ではどこにあったのかもよく分からない。


 天正8年、小城には尻高摂津守・庄次郎が立て籠もっていたが、吾妻勢の池田・海野らに攻められて落城したという。

 また、天正17年12月には、蟻川入道が小城を守っていた。白井長尾勢は、岩井堂城を攻め落とし、小城にも押し寄せてきたが、蟻川入道は、攻め手の飯塚小六郎を打ち取って撃退した。しかし、翌天正18年2月、白井勢の神庭・飯塚両氏が攻撃して、支えきれなくなった蟻川入道は、城を捨てて脱出した。・・・・と、このように何度も攻防戦が繰り広げられる要衝の城であった。
 
 小城が攻め落とされてわずか数日後、岩櫃勢の小淵次郎右衛門・一場茂右衛門は、わずか10人ほどの人数で夜襲をかけて、小城を奪い返したという。


 小城と隣接する西側には伊参城があったという。伊参城は古い城で、平安時代の延暦年間に伊参笹戸の居館であったという。平安時代の城館では、遺構が残るべくもないが、『城郭体系』には、長さ60mの土塁が残るとある。しかし、現在ではその土塁の痕跡も認められない。いったいどこに7土塁が残っていたのであろう。城内には微妙な段差がいくつか認められるが、かつての城館の形状と一致するのかどうか、まったく分からない。

 となると、「小城」=「古城」という名称は、古くからあった伊参城と関連するものなのかもしれない。伊参城の遺構を取り込むことによって小城の外郭部が形成されていたとも考えられる。

東側の先端部が古城公園となっている。ただし、遺構はない。




吾妻城(中城・中之条の塁・中之条町中之条)

*ラフ図の作成に際しては『関東地方の中世城館』『境目の山城と館』を参考にした。

 吾妻城は、中之条町役場の南西400mほどの所にあった。中城=中之条という名称を持ち、中之条町の名称の由来になったのではないかと思われる城館である。中之条の市街地に位置し、中之条集落の支配の拠点となっていた城館であろう。

 吾妻城のあるところは、市街地の西部に位置し、吾妻川に向かて延びた南北に細長い台地を利用して築かれていた。その地形からすると、この細長い台地を数本の堀切によって区画した連郭式の城郭であったと思われるが、現在は宅地が建てこんでおり、遺構らしきものは認められない。その地形がかすかに城館らしさを感じさせてくれるのみである。


 吾妻城は、『加沢記』に吾妻勢力の有力者の1人として登場する湯本氏の居城であった。湯本氏は、西窪氏らと共に、鎌原城攻め、長野原城合戦、岩櫃城攻めなどに活躍している。

 また、天正10年以降は北条氏の拠点となっていたらしい。






東側の城塁の名残り。
























大竹屋旅館