群馬県長野原町

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の山城と館』(宮坂武男)

*参考サイト 土の城への衝動  儀一の城館旅  

長野原城(長野原町長野原字古城)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』『関東地方の中世城館』を参考にした。

 長野原城は長野原町役場の北側一帯に東西に長く延びる尾根を利用して築かれていた。最高所の比高は130mほどある。

 登山口は2か所にある。1つは、病院のさらに東側辺り(道路脇に登山口の看板が出ている)から入り、線路の上の橋を渡って、薬師堂から箱岩経由で浅間神社跡に出るルート。もう1つは、役場の西側の道から墓地を経由して十二坂を通っていくルート。2015年12月の時点では、箱岩経由のルートは「岩崩落のため通行禁止」となっていた。ちなみに箱岩ルートは傾斜は急だが、わりとすぐに尾根に出ることができる。それに対して、十二坂ルートは、軽トラが通れるような道を進んでいくため、傾斜はそれほどでもない。その代り距離が長くなるので、こちらの方が時間はかかるであろう。

 城の本丸は全体の西寄りのところにある。もともと山上にはさほど広い面積がなかったために、尾根を削平して平坦地を生み出している。最高所には城址碑と案内板とが立てられ、そこから1郭から順に複数の郭が段々に展開していく。このうち、2,3といった郭にまとまった広さがあり、この辺りが城の中枢をなしていたと思われる。2郭には虎口状の加工も見られるが、それほどきちんとしたものではない。そういう意味ではあまり設計の新しくない山城である。土塁もほとんど見られないし、堀切も浅いものが多く、加工度はそれほど高くない。

 さらに西側にも段々の郭を配置し、そこから尾根を西側に降っていくのが十二坂ルートである。城域の末端部分には二重堀切と竪堀が掘られ、防御の要となっている。この二重堀切から北側に少し下ったところに土塁があり、そこからまた派生する竪堀が存在している。小技は利いているのだが、どれほどの防御力を発揮していたものか。

 これらが主郭部であり、城の機能のだいたいはこの部分で完結していたようである。しかし、尾根を東側に行ったところに秋葉神社跡のピークがあり、この周囲にもまとまった遺構が見られる。ピーク部はわずかな面積しかないが、下にテラス状の小郭を置き、西側には二重の堀切を入れている。さらに注目すべきなのは南側に降っていった斜面で、こちらにも数段の郭が造成されている。この浅間神社下方の郭郡については、なぜか山崎氏も宮坂氏も、ほとんど描いていないが、実際にはきちんとした郭が何段にもなっている。もっとも注目すべきことは、途中に石垣造りの虎口のようなものがあることである。この城でまともな石垣が見られるのはこの部分だけである。ということからすると、あるいは後世の所産であるのかもしれないが・・・・。

 先に述べた主郭部と、この浅間神社下の一角とで、城の郭のほとんどの面積をカバーしている。ここから東側にもまだまだ城域は展開していくのだが、まともな広さを有する郭と言ったようなものが存在するのはここまでである。

 秋葉神社跡から斜面を降って尾根を進むとそこにまた1つのピークがある。三角点になっているピークである。広さは一辺が6mほどの三角形で、建物を建てるのもおぼつかない。ここからさらに東側に進んでいくと傾斜した地形がある。この真下が箱岩で、通称箱岩城と呼ばれているらしい。ただし、城郭的なまとまりはない。自然地形の上のわずかな平場である。

 さらに西に尾根を進むと、赤い手すりがあって行き止まりになってしまった。しかし、まだ城域は先に続いていそうである。そこでさらに尾根を降っていく。その先には真新しい鎖が付けられ、岩場を昇り降りできるようになっていた。赤い手すりのところには「立ち入り禁止」とはなっていなかったので、岩の鎖場場を通過できる人はここから天狗岩の方まで行くことも可能ということであろう。

 さらに進んでいくとまたピークがある。ピークの手前には崩れ落ちそうな岩があり、その上に岩が2つ並んでいるところが見られる。そこには「堀切」の案内板があり、わずかに堀切状になってはいるのだが、これを堀切と呼ぶべきか。実際には天然の岩の狭間に過ぎないであろう。ここを上がったところに、長軸10mほどの平場があった。これでも東側の尾根の小郭群の中では最大の郭である。上下二段に構成されており、下の段の両端には土塁状の尾根が続いている。

 そこからさらに東側に尾根を進んでいったところがいよいよ天狗岩である。こちらは岩場といっても箱岩ほどのものでなく、こちらもロープをつかんでさっと登っていく。途中に水平に突き出した平坦な岩があった。天狗の鼻のような形状で、天狗岩たるゆえんである。さらに岩を登っていくと先端部には平場がある。「危険」と書いてあるが、非常に眺望のよい場所で、ここに立っていると気分がいい。物見には最適の場所である。

 さて、天狗岩にも案内表示があり、「東郭→」とあった。さらに東側にも郭があるのかと思い、進もうと思ったのだが、ここから先は本当に未整備の岩場のようであったので、ここまでにしておいた。どっちみちこの先にはまともに遺構と言えるほどのものはないと思う。

 長野原城は、城域はかなり広い山城であるが、実際に人が籠れるような郭は1郭周辺および秋葉社下方に固まっており、それほど多くの面積を有しているわけではない。先進的な遺構も取り立てて見られず、わりと古いタイプの山城なのであった。

長野原の市街地から遠望した箱岩。かなり目立つ岩である。 箱岩方面への登り口。線路を渡って取り付く。
箱岩の様子。この上が「箱岩出丸」ということだが、たいした平場はない。 秋葉社下の郭群にある、石垣組みの虎口遺構。
秋葉社下の郭群。 その上の郭。
秋葉社脇の堀切。 秋葉社の石碑。
箱岩出丸からさらに東に行った所にある三角点のあるピーク。 さらにその先の尾根に行くと、赤い手すりがあって、行き止まる。
その先は鎖のある岩場になっていた。鎖を伝って降りていく。 その先の小郭の手前にある岩堀切。「堀切」の案内があるのだが、自然地形にしか見えない。
2段構造の小郭。東西の端が土塁状になっている。 天狗岩。この岩が天狗の鼻を連想させたのであろう。
天狗岩からの眺望。とても眺望がいい! 1郭まで戻ってきた。最高所に建てられた城址碑。「真田街道」の幟が各所に立てられている。
2郭。右は1郭の城塁。 2郭にある虎口。といっても微妙なものである。
1郭群の中央にある大堀切。 5の郭。
城の入り口にある二重堀切下の土塁構造。 二重堀切なのだが、草で写真がちゃんと映らない。
 長野原城は、羽根尾氏の居城であった。羽根尾城が手狭であったため、戦国期の羽根尾氏はここを拠点としていたと考えられる。

 後、永禄年間に長野原城は真田幸隆に攻略され、一時は真田氏の拠点となった。『加沢記』によれば、永禄6年に長野原城には真田幸隆の弟常田新六郎を大将として、湯本善太夫、鞠子藤八郎らが番将で、加勢として芦田下総守、依田彦大夫、室賀兵部太輔、小泉左衛門らがいた。そこに岩櫃城主齋藤氏は白井から加勢を得て攻撃され、落城した。齋藤氏は長野原城に羽根尾幸全・海野長門守兄弟を城主として入れた。

 しかし、その後武田氏の援軍を得た真田幸隆は再び、長野原城を奪還、長野原城には湯本善太夫が入った。その後真田氏は岩櫃城を攻略して、岩櫃城を拠点として沼田進出を図っていく。湯本善太夫は天正3年の長篠合戦で死没、その後も長野原城は湯本氏の一族によって守られ、真田氏に属していた。




羽根尾城(長野原町羽根尾)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』、『関東地方の中世城館』を参考にした。

 羽根尾城は、宗泉寺の北東側の比高60mの山稜に築かれている。もしくは羽根尾駅の北側と言った方が分かりやすいであろうか。城を訪れるのに最も確実な方法は、北側の東吾妻福祉病院からアクセスするルートである。病院の奥の方に進んでいくと、「←羽根尾城址」という案内表示が見えてくる。案内表示は途中に複数個所あるので、それに従っていけば迷うことはない。するとすぐに城の堀切の手前のところに到達する。そこには若干の駐車スペースが造られていた。小型車なら、この場所まで簡単にアクセスできるであろう。

 また、下から上がってくる道もある。これは山麓の宗泉寺もしくは海野長門守墓の脇から上がるルートであるが、こちらも舗装されており小型車なら通れる道である。ちなみに私は、福祉病院のところから車で城址に行き、帰りは道を降って海野長門守墓を訪れた。降りはけっこう急な道であるが運転に不安を感じるほどではない。ただ、帰路、この細い山道を降っていく際に、対向車が来たのには驚いた。さすがに対向車が来ると、かわすのにかなり苦労する。こんな道で対向車に出会うなんて、確率的にはかなり珍しいことではあるが。

 2016年にNHK大河ドラマで「真田丸」が放映されるということもあって、すでにこちらでは真田ブームで盛り上がろうとしているらしい。城址のあちこちには「真田街道」の幟が立てられていた。羽根尾城なんて、どちらかというとマイナーな城址だと思うのだが、真田関連ということで整備されているのであろう。

 『加沢記』『羽根尾記』などに羽根尾氏の事跡は出てくるので、羽根尾城もさぞかし立派なお城なのだろうと思ってしまうところなのであるが、実際の羽根尾城は、とてもこじんまりとした小さな城郭にしか過ぎなかった。物見のための砦、といったクラスの城郭である。とても羽根尾氏が本拠としていた拠点城郭であったとは思われない。初期の羽根尾氏の拠点がここであったにしても、戦国期には別の大規模城郭に移っていったのではないかと想定するのが自然であろう。

 羽根尾城の1郭は10m×30mほど、これではたいして建物を建てることもできないであろう。それでも周囲には土塁が巡らされ、南北の2か所を堀切で分断している。虎口は北東の角にある。ただし、この虎口を通るルートは崩落してしまっているようだ。

 堀切の南側に2郭があるが、尾根の中央に土塁があるだけの施設で、居住性のある郭であるとはとうてい言えない。さらにその下にも尾根があるが、本当に未加工のただの尾根である。このように考えると、羽根尾城は基本、単郭の城館であったということができる。羽根尾氏初期の頃の、逃げ込み場所のようなものだったのではないだろうか。平素の羽根尾氏は、山麓の居館に居住していたと考えられる。
 羽根尾幸全は海野一族であり、海野長門守幸光・能登守輝幸とは兄弟に当たる。

 その後の羽根尾氏は、長野原城にその本拠地を移していったが、やがて真田氏に圧迫され、所領を失っていったと考えられる。













西吾妻福祉病院から城址を目指す。途中に案内表示がある。 城の手前の駐車スペース。すぐ先に堀切が見えている。
北側の堀切。 1郭の土塁の上に鉄塔と城址碑が建っている。
2郭。細長く中央に土塁が延びている。 1郭南側の堀切。
1郭土塁上の城址碑と案内板。 山麓にある海野長門守の墓所。屋敷跡のような場所にある。




横壁城(柳沢城・長野原市長野原横壁)

*鳥瞰図の作成に際しては『境目の山城と館』、『関東地方の中世城館』、土の城への衝動儀一の城館旅を参考にした。

 丸岩城の西側の下、国道406号線沿いに横壁城は築かれている。全体構造は、山上の郭と中腹の平場の複合体であるが、今回、山上の部分は訪れていない。山崎氏らの図を見ると、ちょっとした平場が数段配置されているらしい。

 国道の脇に、ちょうど車を停めておくのに手ごろな空き地があるので、そこに車を停めさせてもらった。昼時だったせいか。他に職人風の人が1人、車を停めて昼寝タイムであった。

 側面部はコンクリート擁壁になっているので、端の方の登りやすそうな部分から進入を試みる。台地上は平坦ながら傾斜した地形が続いている。

 事前情報によると、この城には内部をL字型に堀が分断しているらしい。なかなか興味深い構造である、などと思いながら肝心のその堀を探してみた。

 堀は・・・実際に手持ちの図面通りにあったのだが、結論から言ってしまえば、これは堀ではなく、単なる通路の跡であると思う。落ち葉等で埋まってしまっているのでもあろうが、堀幅からして、そもそもたいした深さはなかったと思う。堀状の通路は確かにL字型に曲がり、最後は北側の側面部に続いていく。この部分はどうみても完全に通路である。といったことで、この城の内部にある窪みは城郭としての堀とみるべきものではないと考える。

 しかし、1郭の基部にある堀切は本物の城郭遺構である。つまり、この堀切1本で独立させた郭を有する城館ということになろう。堀切のさらに基部側にも平地があり、ここも郭であったとみることができる。山上の遺構はたいしたものではなさそうだから、中腹のこの広い平坦地そのものが城館を構成する主要素であったとみてよいと思う。

 さて、山崎一氏の図を見ると、谷戸部をはさんで、この南側にも城郭的区画のある平場が描かれている。それはどこかと見てみた。しかし、山崎氏の図面のような地形は現在では見られない。南側の一段高いところはお堂と墓地の敷地になっていて改変されているようであるから、この建設によって消滅してしまっているのかもしれない。お堂の下の平坦地もざっと見てみたが、明らかに城郭遺構と思われるものは見つけられなかった。

 ところで、このような、集落とは隔絶した山の中腹地帯に城郭を構えたのはどういう目的のためだったのだろうか。横壁城は長野原から須賀尾峠に向かう街道沿いにあり、現在の国道も、この城の周囲をぐるりとめぐるようにして通っている。こうした構造からすると、横壁城は、この街道を抑えるために設置された施設というように見るのがよさそうである。集落からはかなり乖離しているので、地元豪族の居館ではなかったと思われる。


 横壁城は、応仁の頃、柳沢氏によって築かれ、岩櫃城の齋藤氏によって攻撃されて落城したと言われているが、これが事実であるかどうか、明らかではない。丸岩城の郷の城であったという説もあるようだが、それにも違和感を感じる。

横壁城の側面部。奥の山が詰めの城。右手の上の平場が城址である。 城内を縦に延びる堀であるが、実際は通路であろう。
堀が折れて北に延びる辺り。 1との間の堀切。正面奥に丸岩城が見えている。
2郭から、下の駐車スペースを見下ろした所。沢を挟んで向こう側に出丸があったらしい。 南側の平場。この辺りが出丸跡になる。


































大竹屋旅館