群馬県みなかみ町

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 土の城への衝動  儀一の城館旅  城逢人

味城山城(見城山城・みなかみ町月夜野味城山)

*鳥瞰図の作成に際しては、上記文献およびホームページの図などを参考にした。

 味城山は地図にも掲載されているのは、その位置はすぐに分かる。上越新幹線の上毛高原駅のすぐ西側にそびえている比高300mほどの山塊である。北東側の国道から見ると、いかにも城山ということが分かる形状をしている。昔、田舎に帰省する際にはよく上越新幹線を利用していたものだが、その時から「上毛高原駅」は名前だけは知っていた。だが実際に駅の外に来てみたのは初めてである。ちょっと灌漑深い。

 さて「味城」とはまた変わった名前であるが(山上の案内板には見城とあった)、いずれにしてもこれは「御城(みじょう)」の転であると思われる。つまり城が築かれた山というわけで、城山というのと一緒である。

 地形図を見てみると、南側の中腹まで林道が通っているのが分かる。林道の一番上まで車で進んでいくことができるのなら、そこからの比高は150mほどである。この林道を通ってみたいところだが、地図で見ただけでは車が(それも四駆ではない)が通れる道なのかどうかは分からない。しかし、とにかくこのルートを取ってみることにした。林道の入口はこの位置にある。

 ここから道は未舗装になるが、通れないような道ではないので少し進んでみる。すると300mほどいった所で、山道があるのが目についた。これが登城道なのかもしれないと思い、そこから登ってみることにした。幸い、近くに路肩の広いところがあったので、車は寄せて置いておける。登り口はこの辺りである。

 ここからわりとしっかりとした山道を進んでいく。急ではあるが歩きにくい道ではない。そして比高100mあまり登った所で、別の林道を合流した。この林道は地図には載っていないものだが、四駆なら走れそうな林道である。そこからはその林道に沿って登って行くことになる。四駆では、と言ったが、進んでいくにつれ道は荒れ、四駆も厳しそうな状況になってきた。やはり車ではあまり無理をしない方がよさそうである。

 この林道を比高100mほど登ると、峠のようなところに出た。西側の山稜との鞍部に当たる地点である。ここから東側に比高40mほど登って行った所が城址ということになる。峠からは道がなくなったが、ヤブもない歩きやすい斜面なので直登する。直登とはいえ、そんなに急斜面ではなく、すぐに尾根に出ることができた。それが鳥瞰図の南西端辺りである。この辺り、平坦な地形が続いているが、加工はされておらず、城域外といっていいだろう。

 そこから少し降って再び平坦な尾根を進んでいkと堀切1が見えてきた。明らかに人工的なものであり、ここからが城域内ということになろう。しかし、すぐに郭内となるわけではなく、緩やかな斜面を登って行くことになる。南側は傾斜が緩やかなので、削平地を造成することも可能なのだが、あまり加工はされていない。また、この北側の谷戸状の部分には数段の平場が見られるが、郭として利用されていたものかどうか明らかではない。

 やがて、テラス状の郭に出る。その上の斜面を登ったところが4郭である。4郭は西側がやや高くきちんと削平はされていない。縁部の切岸加工もきちんとされていない。ただし北側の下には切岸加工によって生じた帯曲輪がある。東側に深さ2mほどの堀切があり、その先が3郭となる。

 その先には3郭と2郭があり、その間には堀切3があるが、こちらの堀切はほとんど痕跡状態となってしまっている。それでも堀切であることには間違いないであろう。2郭の先に堀切4があり、その先が1郭である。堀切4の内側に土塁が盛られていることからして、こちらが主郭とみてよいであろう。ここに「見城の柵」といった案内板や三角点の表示もあった。「小川可遊斉防御の地」ともある。

 主要部は、北側が急斜面であるのに対して、南側はやや傾斜が緩やかになっている。そのため南側には腰曲輪が2段に構成されている。この部分がこの城で最もよく加工が施されている箇所である。その先には尾根が長く延びていく。途中に切岸加工された部分があるが、堀切と呼べるほどには掘り込んでいない。

 尾根はやがて平坦になって行き、側面部に竪堀状の地形がみられるところがあるが、これは自然地形と見た方がよいであろう。さらに尾根を進んでいくと、再び尾根状は広くなっていき、郭を造成できそうな地形が展開している。しかし、加工はされておらず、この辺りまで城郭化するだけの意図はなかったようである。

 味城山城は、それほど念入りに造られた山城ではなく、中途半端な造成の産物というべき城である。これをどう見るか。普通に考えれば、急造しただけのものであり、十分な普請を行うこともなく、やがて使用されなくなったもの、といったことになろうか。小川氏は逃げ込み場として、この城を整備したのであろうが、念入りに普請をする時間も余裕もなかったのであろう。案内板の「小川可遊斉防御の地」という標記からすると、ここでの篭城戦が合った可能性もあるが、それがいつの頃のことなのかはっきりしない。

 さて、ざっと一通り描いた後、登ってきたルートをそのまま降りてきた。登りは30分、降りは15分ほどである。降って行く途中、ふと山の方を見上げると、西側の山稜からパラグライダーが飛び立っていくのが見えた。どうもあちらの山にはパラグライダ-の出発地点があるらしい。ということは、西側の山稜まで車で行ける可能性が高いということだ。すると、西側の山稜に車で登って、いったん東側に降ってから城址に向かうというルートも考えられそうである。しかし、本当に車で上まで登れるかどうかは確認していない。

諏訪の木城の方から遠望した味城山。ここからの比高は300mほどもある。 最初に見えてくる堀切1。
4郭の沙希にある堀切2。深さ1mほどと、規模はたいしたものではない。 1郭手前の堀切4。城内では最大の堀切だが、これもかなり浅い。ただし1郭側には土塁が盛られている。
1郭内部に立てられた案内板。 1郭南側下の腰曲輪。一部は横堀状になっている。
南側の尾根の方向にある切岸。堀切というほどちゃんと削られてはいない。 味城山への登り口。近くは路肩が広く、脇に車を停めておくことも可能である。




石倉城(みなかみ町石倉)

*鳥瞰図の作成に際しては、山崎一氏の図および土の城への衝動を参考にした。

 石倉城は、利根川に臨む比高40mほどの断崖上に築かれている。利根川に向かって細長く突き出した台地であり、南北の両側に河川があって縁部を削り込んでいるため、台地続きの部分を区画するだけで城郭を構成できる立地である。

 国道291号線を進んでいくと、台地基部に当たる辺りに「石倉城」の案内表示がある。それにしたがって細い道を降っていくと、畑の先に案内板が立てられているのが見えてくる。この辺りがすでに城域である。ただし、案内板はあるが駐車場はない。車はどこか適当な所に停めておくしかない。

 案内板のあるところまでは、特に区画は見られないのだが、1郭の堀は浅く、これだけで防御を成そうとしていたとは思われないので、案内板のある辺りが2郭であり、かつては城域を区画する堀切があったのではないかと想像する。(これはあくまでも想像であり、現地案内板にも「単郭の城」といったj標記がある。)

 2郭部分は東西に100mほどの長さがある。ここだけでも、意外に広い平場となっている。それを進んでいった先に1郭の堀切がある。といっても、上記の通り、あまり規模の大きなものではなく、現状では深さ1.5mほどのものである。これでは防御の要とするには心もとない。この堀の北側端近くには張り出し部分があるのだが、これも横矢掛けというほどしっかりしたものではない。つまり、それほど技巧的な城郭ではない。

 その先が1郭である。断崖の先端部であるから、たいした広さはないものと想像してしまいがちなのだが、実際にはけっこう広い。というのも、台地先端部が南西側に長く延びているからであり、1郭だけでもかなりの建造物を建てられるほどの広さがある。

 その先端部まで進んでみた。腰曲輪や堀切があるのではないかと思ったのだが、そんなものはなかった。その先は断崖状態になっているため、そうした城郭構造物を配置する必要も無く、また、それを構成するだけの地形も存在していないのである。まさに天然の要害というべき城郭である。単純な構造ながら、防御性は高い。ただし、尾根基部の方から攻められてしまうと、逆に逃げ場をなくしてしまうような構造でもある。


 案内板によると、石倉城は、文明10年(1478)に関東管領上杉顕定によって築かれたものであるという。顕定の居城といえば平井城であるが、平井城と故郷の越後を結ぶ清水街道の間のこの地に城郭を築いて中継地点としていたのだという。

 

石倉城2郭にある案内板と城址標柱。 1郭の堀。とても浅くなっており、現状では深さ1mほどしかない。
1郭土塁を郭内部から見たところ。 1郭の先端部。下は利根川に望む断崖である。




石倉館(みなかみ町石倉)

*鳥瞰図の作成に際しては、山崎一氏の図および土の城への衝動を参考にした。

 石倉館のある場所は非常に分かりにくい。石倉城の東南400mほどの段丘先端部であるが、上の台地から見ると、かなり低い位置にあり、付近までの道路が地図に掲載されていないということもあって、どこだか場所が把握できないのである。石倉城と違って、こちらには案内板も何も設置されていないので、目印となるものもない。実際、私もけっこう迷ってしまったのであった。

 城址を発見するためのポイントは、西側の台地よりも20mほども低い位置にあるということを頭に入れておかないといけない。西側の集落から東側の先端部に進んでいくと、台地の突端に行き当たってしまうのだが、注意してみると、台地下へと降りていく道がある。下には平場がなさそうに見えるのであるが、これを降りるのが正解。降っていくと、畑があり、その脇に下の写真の土塁が見えている。これが石倉館である。

 館と言えば、普通は支配地を見下ろせるような高い位置にある方がよさそうに思えるのだが、ここは台地よりもかなり低い位置にあり、台地の土手を背後に背負っている。支配地という観点からも防御性からもかなり不自然な位置取りである。この場所を探すのにはけっこう苦労したが、そういう常識に反した位置取りのところにあるため、勘が有効に働かなかったとも言えるだろう。

 館は単郭ではあるが、面白い構造をしている。1辺は60mほどであり、南北の2箇所に虎口がある、と言う点は普通だが、城塁の東側には張り出し部分を持っている。もっとも、こちら側は防御上の技巧と言うよりも、縁部の形状に合わせたらこのようになっただけかもしれない。というのも、南北の城塁は直線的であるので、城塁の技巧と言うものを必ずしも意識していたようには思われないのである。

 土塁の側面部には石垣が積まれている。これがこの館の最大の特徴である。積まれているのは丸い自然石で要するに河原石である。利根川が近いので、石材に不自由することはなかったであろう。それにしても、ここまでちゃんと石垣を積んでいる館はかなり珍しいのではないだろうか。

 南側には堀は見られない。だが、北側には浅いながらも堀の跡が見受けられることからすると、南側にもかつては堀があり、耕作によって埋められてしまっていると見るのがよさそうである。

 西側の城塁は少し変わっている。西側の端部分は、上の台地の土手に接しているのだが、北側の城塁は、土手まで到達せずに、途中で南側に曲がっているのである。これは何を示しているのであろうか。正確なところは分からない。技巧的な構造と見れば、「囮虎口を形成するもの」と言いたくなるところである。だが、この館にそんな戦闘的な技巧構造物があったとは思われないから、何らかの都合で、通常の虎口とは別に広い虎口を設定する必要があったということであろか。


 石倉館は、石倉城の支城に当たるものであり、石倉三河の居館であったという。

石倉館南側の土塁。石積みが見られる。 南側の虎口。
虎口側面部にはしっかりとした石積みが見られる。 土塁側面部の川原石を用いた石積み。
北側の虎口。外側には浅く堀の跡が残っている。




諏訪の木城(みなかみ町羽場字諏訪の木)

*鳥瞰図の作成に際しては、山崎一氏の図および土の城への衝動儀一の城館旅を参考にした。

 諏訪の木城は、河川が削った細長い丘陵を利用して築かれたものである。場所は分かるのだが、アクセスするための道路は発見するのがちょっと難しい。比較的規模も大きく、多少は知られている城郭であるというのに、案内板もないので、目当てにするものもないのである。

 位置はこの辺りである。車のナビをこの位置にセットしたら、最初は東側から案内しようとしていた。しかし、東側からは登る道が見当たらなかった。

 次にナビは北側から案内しようとした。そのため北側の台地に回りこみ、城址の方向に向かって南下して行ったのであるが、当然のことながら、北側の広い谷津を渡るような橋が架かっているはずもなく、北側からのアクセスも不可能であった。

 結論として言えるのは、城址に行くためには、台地北西側から入り込んでいくしかないということ。台地南側も一面に急峻な斜面があるだけであり、登り口はなさそうである。

 北西側から入り込んでいくと、やがて家畜小屋のようなものの所にまで車でいける。しかし、ここから先は車では不安そうな道である。ただし、後で分かったことだが、未舗装の道を進んでいけば、捨て曲輪の所まで到達することもできそうであった。

 家畜小屋の前から進んでいくと、すぐに右手に堀の残欠のようなものが見えてきた。山崎氏の図面と照らし合わせてみると、どうやらこれは、本丸の東側の堀であったようである。ということは、本丸北側や西側の堀は、現在ではすっかり埋められてしまっていると考えるべきであろう。と言うことで、現在では、遺構の残存状況はかなり不良である。

 3郭部分は、一段高い地形となって残っているが、北側部分も現在では堀ではなく、高さ2m程度の土手のみとなっている。この部分も含めてかなり地形が改変されてしまっているのであろう。

 3郭を過ぎると、堀切状のものが台地縁に見える。規模はけっこう大きいもので、この規模からすると、台地を区画していたかつての堀切も、かなり大規模なものであったと推測すべきである。

 堀切の東側は、郭というよりは、幅広の土塁となっている。その北側一帯が広大な郭となっている。通常ならば台地先端部であるここを主郭とすべきであるが、主郭は「本丸」という部分であり、東端の広大な平場は「捨て曲輪」であるという。

 この「捨て曲輪」というものの意味がよく分からない。一番要害のいいこの場所を利用しない手はないだろう。それに本丸が城外と直接接するような位置にあるというのも不自然である。想像するに、かつての居館から発生したのが本丸であり、先端部は緊急時以外には使用せず、緊急時の逃げ込み場所であったとするなら、捨て曲輪こそが、籠城時の本丸というべきものであったかもしれない。


 諏訪の木城とは、実に変わった名称である。これは城外にあった諏訪の木を城内に植え替えたことから生じた名称であるという。なんとも趣のある城名であるといっていいだろう。

 天正年間、当地域は沼田城主真田氏の支配下にあった。諏訪の木城もその支城の1つであり、三国街道を通って沼田へ向かう地点を押さえる交通の要衝であった。天正9年(1581)、真田昌幸は、塩原源太左衛門を城代として置いていた。その後天正17年に、城は北条氏の支配下となり、望月主計・塩原清左衛門が城代となったという。

 この「天正17年に北条氏の支配となった」というのがよく分からない。天正17年と言えば、名胡桃城が、沼田城代猪俣邦憲によって奪取された年である。この年号が合っているとすれば、名胡桃城とともに、諏訪の木城も北条氏に奪取されたということになる。名胡桃城を攻め落としたことが、秀吉による小田原の役のきっかけとなっていくわけであるから、名胡桃城のみならず諏訪の木城まで奪取したことが、小田原の役開戦の抜き差しならぬ理由の1つになっているのかもしれない。

城址入口。この辺りが本丸だったと思われるが、周囲の堀は埋め立てられてしまっているようだ。 本丸西側の堀。かろうじて残存している部分。
3郭北側の城塁。 3郭先端部の堀切跡。




薄倉(すすきくら)城(中城・みなかみ町須川字薄倉)

*鳥瞰図の作成に際しては、山崎一氏の図および土の城への衝動儀一の城館旅を参考にした。

 薄倉城は、三国街道沿いの須川宿の西方に位置している。この街道と宿を押さえるための城郭であったものと思われる。途中、車でこの宿を通ったのだが、意外なことにたくさんの観光客が訪れていた。お土産やレストランもあり、馬車まで通行していた。「巧みの里」といった表示が出ていたが、このようなところに観光名所があったとはまったく意外なことなのであった。

 薄倉城は、この須川宿に向かい、東側に延びた比高30mほどの段丘を利用したものである。しかし、その位置は分かりにくい。案内板も設置されておらず、あまり大事にされていないようだ。

 城址の入り口は、この辺りである。路肩に余裕があるので、車はこの辺りに停めておくことが可能だが、車でどんどん進んでいくこともできる。ただし、進んでいった先が2015年現在工事中になっていて、途中から立ち入り禁止になってしまっている。

 城は2つの尾根を利用して築かれている。このうち、主要部であったと思われるのは南側の部分で、こちらの方がまとまった広さがある。北側の台地との間には天然地形を利用した深さ5mほどの堀切があり、また台地内部に2本の堀切を入れて3郭ほどが形成されていたと思われる。

 しかし、この南側、ヤブのひどいことと言ったら・・・・。ヤブがひどすぎて形状がよく分からない。文化財として重要視されていないということはともかくとして、ここまdヤブに埋もれてしまっているというのも酷い。どうやら、耕作放棄地であるようで、そうした土地は栄養分があるため、放っておくと瞬く間に酷いヤブになってしまうのである。ここを歩くのはとてもしんどい。それでも2本の堀切の存在はかろうじて分かったのだが、いずれもかなり埋まってしまっているようで、本来の規模からすると、かなり不明瞭なものになってしまっていえる。

 これに対して、北側の尾根は出城のようなものであったろうか。北側は細長くかなり長く東側に延びている。実際には4よりも先にも遺構があるらしいのだが、上記の通り、5の入口辺りで工事のため立ち入り禁止になってしまっていたため、今回は確認することができなかった。


 薄倉城の歴史はよく分からない。天正10年(1582)、中山城の中山九兵衛の攻撃に、須川衆がこの城に立て籠もったというので、地元勢力であった須川衆の拠点とする城郭であったということであろうか。天正10年というのはこの地域の政情が非常に不安定であった時期で、その当時の薄倉城が、どの勢力に属していたのかもよく分からない。沼田城の援助を得たともいうから、あるいは真田氏に属していたのであろうか。


東側の城址方向に向かう道の入口。 北側の尾根は、治山工事のため、途中から立ち入り禁止となっていた。
城址中央の堀切。 1郭の堀。ヤブだらけだ・・・。
2郭の堀。こちらもヤブしか映らない・・・・。




























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