群馬県前橋市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人  城郭図鑑

力丸城(前橋市力丸町)

 力丸地区の善昌寺の北東側が力丸城の本丸跡であり、ナビの地図には「力丸古城」と掲載されていた。現在ここには城址碑が建てられているので、かろうじて城址であることを主張してはいるが、明確な遺構はほぼ失われてしまっている。城址碑の脇には、『「力丸」「宿阿内」城の跡』、と書かれた案内板が立てられていて、この地域では力丸城と宿阿内城が、代表的な城郭として地元で認識されているらしいことが分かる。

 遺構の大部分が湮滅してしまっているので、山崎一氏の図と古い航空写真を基に想像図を描いてみた。しかし、この通りのものであったかどうかはよく分からない。それでも古い航空写真では、本丸の形状を理解することはできる。しかし、それ以外の複雑な堀については、古い航空写真からでもなかなか把握できない。

 力丸城は、この地域に多数存在する環濠屋敷群を結合させることによって合成した複合城郭であるという。そのため、かなり複雑に堀が廻らされていたようだが、もともとは多数の独立した環濠屋敷群の営まれた地域であった。『城郭体系』には「環濠住居を纏結した自然発生的な城で、列郭式構造』と興味深い表現をしている。環濠集落というのは、自然発生的に城郭へと成長を遂げていくものなのであろうか。村落を守るという共同意識の上からはそうした成長が自然の過程として見られるようになるのかもしれない。

 おそらくは本丸と二ノ丸とが城郭の主要部分であり、後は防御用というよりは、水路を廻らせた環濠集落そのものような形態の城館であったものと思われる。城郭内部に営まれている善昌寺、法楽寺などは外郭に相当する部分であろう。また、西側の「どうろく神」や東側の法楽寺南側の区画などは、かなり独立性の高い出丸のような郭であった。

 城の南部には宿が営まれており、集落と一体化した城館として(あるいは集落そのものを内包しつつ)、長期間存続していたであろうことが伺われる。これらの遺構が完存していれば、かなり見事な城郭であったことだろう。


 力丸城は、南北朝時代に力丸広宗によって築かれた城であるという。力丸氏はその後も連綿として城主として続いていた。力丸氏の動静について詳しいことは分からないが、この地域にあるのだから、戦国前期までは上杉氏、その後は北条・上杉・武田の狭間の中で遊泳していたのだと思われる。最後は北条氏に属していたため、天正18年(1590)の小田原の役で、北条氏の滅亡とともに没落した。


 話は変わるが、昔、あることで、力丸さんという方にお世話になったことがある。力丸と聞いて思い出すのはその方のことであった。力丸さんはここの城主の御子孫であったのだろうか。

本丸跡に建てられた城址碑。しかし、城の面影はほとんど残っていない。 本丸周囲にはきれいな水が流れていた。かつての堀の名残なのであろう。豊富な幽邃点があるらしい。




宿阿内(しゅくこうち)城(前橋市亀里町)

 宿阿内城という名称を見て「なんて読むのだろう」と頭をかしげてしまうのであるが、これは「しゅくこうちと読むのらしい。「阿内」を「こうち」とよむのはこじつけくさいが、『城郭体系』では「阿内」を「あうち」すなわち「おうち」と読んでいる。どちらが正しいのであろうか。

 宿阿内城は瑞気川に臨む西側の微高地に築かれていた。と言っても基本構造は平城であったために遺構破壊は容易であり、耕地整理や宅地化により、遺構はすっかり失われてしまっている。そこで、山崎一氏の図、現地案内板の図、古い航空写真を見ながら想像図を描いてみた。

 古い航空写真を見ると、本丸の形状は把握できるが、それ以外の部分はよく分からない。どうも早い時期に失われてしまったようだ。河岸段丘上とはいえ、基本的には平城的構造であったため、耕地整理や宅地開発によってどんどん破壊されてしまったらしい。本丸は70m×60mほどの規模で、東西に張り出し部分を有していたと言われる。

 本丸は畑となっているが、わずかな段差以外に、それらしい雰囲気を感じさせるものはない。この畑の中に本丸、二ノ丸が環郭構造で置かれていた。二ノ丸の虎口は南北に1カ所ずつ設けられていた。

 その南側の三ノ丸が、女体神社となって、わずかな高さのある地形になっている。南側の通路が堀の跡であろうか。その東側には現在でもAの土塁のようなものが見られるが、これが、ほとんど唯一の遺構といってもいいかもしれない。

 城郭の西側にも渓流が流れていたようで、西側は、その渓流を利用して水堀を設置していたようである。この堀は南側に大きく回り込んで、外構えの堀となり、やがて瑞気川に合流する。

 南側の外殻部の内部には街道が取り込まれていた。「宿阿内」の名前の通りに、宿もこの場所に営まれていたことであろう。

 また、城の西側には、前橋と福島(玉村町)を結ぶ街道が通っており、交通の要衝を抑える位置でもあった。

 このように見事な縄張りを有しながら、すっかり湮滅してしまった宿阿内城であるが、東側の瑞気川越しに遠望すると、なんとなくかつての威容を想像できるような気分になる。


 城の歴史について築城時期等詳しいことは分からないが、三輪右丹という城主がいたと言われる。文明9年(1477)の五十子合戦の際、長尾景春の攻撃によって五十子陣(城)が落城し、かろうじて脱出した上杉顕定、扇谷定正らは、上野国に避難した。その後、太田道灌の活躍によって、上杉氏は武蔵に帰国することができたという。



三ノ丸にある女体神社。 神社北側のAの櫓台。かろうじて残された遺構らしきものである。
本丸にはこんな案内板が立てられているが、これでは何のことやら分からない。描かれている図面は宿阿内城のものであるが、堀と道路が同じ色に描かれていて、判別しづらい図面である。 瑞気川に架かる城橋から、南側の城址方向を見たところ。なんとなく城址らしい雰囲気がある。
外郭部に残る百庚申の碑。




赤城神社(前橋市二之宮町)

 前橋市二之宮町にある赤城神社には城館風の遺構が残っているという情報を得て、行ってみた。

 神社の敷地周囲には土塁と堀がしっかりと巡らされている。堀は各所、かなり埋められてしまっていると思われる部分もあるが、土塁もよく残っており、一見して城館であることが分かる。

 東側は、虎口に対して横矢の張り出しというべき折れが見られるが、かなり大きなものである。ちなみに、この付近の堀の中に湧水点と思われる箇所がある。現在でも水堀となっている部分もあり、本来は水堀が全周していたのではないかと考えられる。

 外郭部分のうち、南側の堀については、堀の外側にも土塁が盛られている。堀の深さを高めるためのものと思われるが、珍しい構造である。

 外堀の他に、内堀とでもいうべき構造も見られる。神社本殿の背後および西側には土塁が盛られ、その外側には堀跡とおぼしき窪みもある。だいぶ緩やかになってしまっているが、これらの構造から、本田周辺に内堀が廻っていた可能性が高い。ちなみに、本殿背後(北側)にも、堀の両側に土塁を持った構造が残されており、この城館の構造の特徴であったものと考えられる。

これらの遺構について詳細は不明だが、ことある際に、住民を避難させるために、神社が武装していたということなのであろうか。

いずれにせよ、完全湮滅してしまっている城館が多い上野国において、これだけ見事に平城の遺構が残されているのは大変貴重なものであると思う。今後とも残っていってほしいものである。















西側の道路沿いの堀と土塁。道路のためにだいぶ埋められているようだが、もともとはきちんとした堀であったと思われる。 境内にあった藁葺きの建物。こういう建物が好きなので紹介しておく。
本堂の西側にある内堀。 東の虎口脇の堀。湧水点になっている。
東側張り出し部分の堀は水堀となっていた。 南側の堀。外側にも土塁が盛られている。




新土塚城(前橋市二之宮町新土塚)

 新土塚城は、新技授山文殊尊堂のある台地全体に築かれていた。

 小土塚城の構造は、右の図の通り、いたって単純なものであるが、現在でも堀跡が明確に残っているのがうれしい。堀さえも完全湮滅している平城が多い中で、よく遺構を残している方であろう。堀の深さは3mほどであるが、幅は10m以上ある。幅に比べて深さは今一つに感じるが、かつては水堀、あるいは泥田堀となっていて、かなりの防御力を発揮したものと思われる。

 城の西側には荒砥川が流れ、天然の水堀となっている。こちらの川に面する部分も切岸城の土手となっており、防御を固めている。こちらもまた城郭的な風景である。

 城内は宅地化されている。あるいは内部も数郭に区画されていたのかもしれないが、現状ではそれは不明である。

 城内の中央西部付近が一段高くなっており、そこには文殊堂が置かれている。この辺りがかつての新土塚城の中心部分だったのではないかと思われる。

 新土塚城は、由良氏家臣増田繁政の居城であったという。天文年間の由良氏の二之宮への進出に従い、橋頭堡として築かれたのが、新土塚城であった。繁政jは大胡城代となったこともある人物である。

 天正10年代になり、北条氏の進出により由良氏の勢力範囲が限定されてくるようになると、新土塚城も、北条氏の支配下に落ちた可能性が高いと思われる。 














東側の堀の土橋から南側部分。幅広の堀で、現在でも形状はしっかり分かる。 東側の堀の土橋から北部分。
天然の堀であった荒砥川と、西側の城塁。 西側にある文殊堂。




今井城(前橋市今井町)

 今井城は、荒砥川の西側に築かれていた。川を要害として、水堀を廻らせた城館であったと思われる。川を渡る橋の脇に小さな公園があって、そこに城址標柱が立てられている。

 宅地等によって、地形はだいぶ改変されてしまっているが、現在でもかつての主郭跡と思われる個所に建つ民家の北側から西側にかけて、深さ2m、幅5mほどの堀が残っていおり、現在の航空写真でも、はっきりと確認できる。明確に遺構と思われるものはこれくらいであろうか。

 古い航空写真を見てみると、本丸の堀以外に右の図のようなラインを読み取ることができるのであるが、実際にこのような形状であったのかどうかは、今となっては分からない。


 今井城の城主は齋藤氏で、大胡城の支城であったという。

















荒砥川に架かる橋のすぐ下にある公園に城址標柱が立てられている。 荒砥川。
現在でも残る堀の跡。幅5mほどもある。




小坂子(おざかし)城・小坂館(前橋市小坂子町)

 小坂子城は、県道34合繊の南側、南端に八幡神社の祭られている微高地に築かれていた。また、谷戸を挟んで東側150mほどの所には小坂子館があった。

 ラフ図の作成に際しては山崎一氏の図と古い航空写真とを参考にした。

 小坂子城は、南北に長く伸びた微高地を利用して築かれた城郭である。東西の低地が水田になっていることからすると、両サイドが沼沢地という防御に適した地形だったのかもしれない。

 台地中央部に切通しの道があって、台地上の畑へと続いているのが堀切の跡だと思われる。そのまま城内に進入できることから、堀底道としても利用されていたものであろう。

 台地上は耕作地となっているため、かなり改変もされているが、主郭の城塁の名残のようなものが見受けられる。

 また、北側の県道沿いに大規模な土塁のようなものが見られる。こちらは北側の城域を区画する遺構であった可能性がある。

 南側には八幡神社があるが、これが城域の南端部分であったと思われる。全体として改変が進んではいるが、城館跡だと言われてみれば、それらしい箇所をいくつか確認できるといった程度の残り具合である。


 谷戸部分を挟んで東側には小坂子館があった。こちらも宅地化が進んでいて、遺構の大部分は失われてしまっているようであるが、堀に囲まれた長軸50mほどの区画があったようである。現在でも北側の堀は痕跡を残している。






1郭南側の堀切跡。 1郭の北側城塁。
小坂子館に残る堀の跡。




小坂子要害(前橋市小坂子町)

 小坂子要害は、小坂子町交差点の北東300m、福徳寺の北側の比高10mほどの微高地に築かれていた。

 現在、明確に遺構と思われるものはほとんどないが、「要害」というのであるから、何らかの城郭構造物が存在していたことは間違いないのだろう。東側の台地下に長方形に長い窪みが見られるが、これが堀跡なのかもしれない。

 後は全体に宅地化されていて、内部探索もほとんどできていないが、城内を通る道路の西側は沼沢地に臨む土手となっており、東側も城塁状の土手になっている。なんとなく城館らしい雰囲気を感じ取ることはできる。

 小坂子要害の城主等、歴史については未詳である。












東側から見た小坂子要害の城塁。




勝沢城(前橋市高花台一丁目)

 勝沢城は、高花台団地の一丁目にあった。

 勝沢城は堀を組み合わせて数郭を配置した城郭であったらしいが、城址は見事に宅地化されていて、現在では遺構らしきものは見受けられない。造成はかなり早い時代に行われたようで、古い航空写真を見ても、旧状はさっぱり理解できない。そこで山崎一氏の図と古い航空写真を基にして想像図を描いてみた。

 団地内部は、全体に傾斜地形になっている。城が存在した時点でも緩やかに段々の構造となっていた可能性が高いと思われる。

 全体の東側には小川が流れているが、これが唯一、城の堀の名残を思わせてくれるものである。


















東側を流れる川はかつての堀の名残であろう。 城塁の名残らしく見える部分。




鳥取城(前橋市鳥取町)

 鳥取城は、大正用水と、藤沢川など2つの河川に囲まれた島状の部分に築かれていた。

 鳥取城は北側を流れる川(現在は大正用水)と東西を流れる2つの河川を堀として利用した城館であった。川の形状から、かつての城域を想像することはできるが、城の細かい形状は、現在となっては知る由がない。2つの川が合流する、いわゆる墨俣地形部分に城館が存在していたのであろう。


 鳥取城の歴史について、詳しいことは未詳であるが、室町時代の文明14年(1487)の『上杉定昌書状』に「鳥取在陣衆」という文言が出てくるとのことで(「鳥取県の雑学」より)、この鳥取衆が在陣したところが、鳥取城だったのではないかと思われる。群馬に鳥取という地名があるのは意外だが、鳥取県と何らかの関係があるのであろうか。












西側を流れる藤沢川も天然の堀としていた。




片貝城・片貝館(前橋市西片貝町)

 方貝城は、上毛電鉄片貝駅の東南600mほどの所にある龍沢寺のあるところに築かれていた。

 現在の龍徳寺の周囲には堀跡らしきものはすでに見られない。早い時期に消滅してしまったものなのだろう。古い航空写真を見ても、かつての形状を知ることはできなかった。右の図は、山崎一氏の図に基づいて作成した想像図である。片貝城は北西の角に張出を持った単郭長方形の城館であった。

 市道をはさんで、東側にも城館があったらしい。これも山崎一氏の図に基づいたものであるが、こちらは随所に折れを有したラインが特徴的である。こちらはすでに宅地が密集していて、航空写真を見ても、その形状をうかがい知ることはまったくできなくなってしまっている。


 天正10年、武田氏が滅亡すると、織田信長は滝川一益を関東に派遣して、上野支配に当たらせた。織田の軍勢を背景にした一益は、当時前橋城に在城していた北条高広に対し、城を明け渡すように要求した。それに抗することのできなかった高広は、前橋城を一益に渡して、自らは片貝城に隠棲したという。





方貝城跡の龍沢寺。現在では遺構は見られない。




関根寄居(前橋市関根町字寄居)

 関根寄居は、関根町の金剛寺すぐ東南に隣接するところにあった。

 城址とおぼしき箇所は一軒の民家の敷地となっている。そのお宅の周囲にはびっしりと垣根が巡らされており、内部の状況がどうなっているかよく分からない。それでも、垣根の隙間からちょっとのぞかせてもらうと、中には土塁が残存しているのがはっきり分かる。それも右の図のように二重土塁となっているようだ。かつては二重堀となっていたのかもしれない。あるいは比高二重土塁であったというべきか。

 詳しい歴史は未詳だが、寄居地名が残っているようなので、地元武士団の集結地であったものと思われる。

 天正7年、上杉家臣の河田重親が一時在城していたという。














石垣と垣根でしっかりと囲まれているが、中には二重土塁が残されている。




八幡山砦(前橋市上細井町八幡山)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 前橋市北消防署のすぐ北側にある南橘精霊廟のある比高10ほどの台地が八幡山砦の跡であるという。

 台地の北側に駐車場があるので、ここに車を停めることができる。駐車場から1郭に向けて切り通し状の部分があるが、これはかつての、虎口の名残か何かであろうか。駐車場から2郭まで道が通じている。

 台地は大きく2段に分かれており、上の段には南橘精霊廟が置かれている。

 これだけのものである。『城郭体系』に「砦跡というが疑問」と書かれている。参考地といった程度のものであろう。


















2郭から見た1郭城塁。 北側の通路。この道が2郭まで続いている。
























大竹屋旅館