群馬県前橋市(旧宮城村)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

阿久沢家住宅(大崎屋敷・柏倉砦・前橋市柏倉町605)

 阿久沢家住宅は国指定の重要文化財となっているため、地図にも必ず掲載されている。場所はここである。駐車場やトイレも完備しているので、安心して訪れることができる。

 この住宅は18世紀頃の建造物であるようで、今から300年以上も前の茅葺の民家である。阿久沢氏は近世では名主であったというが、名主の屋敷としては、ちょっと小さすぎるように感じる。

 内部は大きく2つの区画に分かれており、半分近くが土間となっていた。西側半分が板の間になっているのだが、こちらには3間ほどの区画された部屋があったようだ。というわけで、古民家としては、たいした規模のものではない。阿久沢氏は中世の当地においては、なかなかの勢力者であったと思われるのだが、その子孫のお宅は、思ったほどの規模のものではないのであった。


 阿久沢氏といえば、この地域で多くの城館主として、その名前を聞くことのできる一族である。だから阿久沢氏関連の城館があった場所かと思ったのだが、ここは大崎氏の居館であったという。その跡地に阿久沢氏が居住するようになったものだろうか。

 現在の屋敷がある場所は、土手下の位置であるので、中世城館があったとしたなら、背後の台地上であったかもしれない。台地上の部分は今回は確認していないのであるが、あるいは何らかの遺構を残しているかもしれない。













阿久沢家住宅の入り口。国指定の重要文化財だけあって、駐車場やトイレも完備している。 内部。土間の部分がとても広く、全体の半分のスペースを占めている。




市之関館(前橋市柏倉町市之関字内出)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 市之関館は、東昌寺の西側300mほどのところにあった。東側には川が流れており、これを天然の堀として利用していた。

 現在、館の東南部分が墓地になっている。また、道路を挟んで南側には牛舎が建てられており、墓地の真下には、子牛用の小屋(犬小屋の大きいもの)がいくつも設置されている。子牛を親と離して、一頭ずつ別に育てているようなのだが、これにはどういう意味があるのであろう。

 館の周囲には土塁や堀が一部残っているらしい。しかし、夏場のヤブでは内部探索はできなかった。航空写真ではここは山林となっているのだが、地図を見ると建物が存在しているようだ。どうも廃屋が藪となってしまっているようだ。冬場に訪れる機会があれば、ちゃんと確認してみたいと思う。

 墓地の西側には水路が残っていた。これがかつての堀の名残なのではないかと思う。

 ちゃんと確認すれば遺構は残っていそうであるが、今回はそれができなかった。次回を期したいと思う。



 市之関館は、阿久沢氏の居館であったという。






西側にみられる土塁状の地形。 墓地の西側にある水路。これを堀として利用していたか。




勝山城(前橋市柏倉町三夜沢字堀ノ内)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 勝山城は、柏倉交差点の西300mほどのところにあった。民家の敷地内となっているため、内部探索はしていないが、東側の川に加えて、北側と西側にも堀状の窪みが見られる。しかし、ヤブがひどすぎて、夏場ではあまりちゃんと確認できない。それでも、これらのラインによる方形の区画が想定できる。方60mほどの単郭の城館だったのではないだろうか。


 勝山城の城主等、歴史については未詳であるが、あるいは阿久沢氏関連の城館であったものだろうか。











東側を流れる小川。東側の堀となっていた。 西側に残る堀跡。ヤブがすごくて進入できない。




宿の平城(前橋市苗ヶ島町)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 宿の平城は、忠治温泉の南側にそびえる比高50mほどの山稜上に築かれていた。北側下の山麓に標柱が立てられ、温泉客用の駐車場やトイレもある。車をここに停めて、北側から取り付いていくのがよいであろう。側面部は道路に面したコンクリート擁壁となっているので、とても取り付けない。北側からアクセスするしかない。

 駐車場から見てみると、山の奥に入って行く幅の広い道が付いている。これが城址への道かと思って進んでいったのだが、この道は平行移動していくだけなので、どこかから尾根に取り付いて行くしかない。結局、ちゃんとした山道はないようであり、直登することになる。

 といっても、比高60mほどなので、直登しても、それほどたいした手間ではない。西側の尾根を進んで行くうちに山頂に到着した。しかし、城内に進入する目安というべき切岸はなく、尾根なりに進んでいったところがそのまま1郭であった。

 このように1郭周囲すら切岸加工を施していないので、たいして城郭加工を施していない山城であることが分かるので、遺構に期待はできない。それでも1郭は長軸50mjほどはあるのでまずますの広さの平坦地となっている。

 尾根は南北に続いているので、まず南側に進んでみた。歩くとすぐに低い切岸があり、2郭と接続している。1郭に対する出枡形のような箇所である。その先は自然の傾斜した尾根が続く。途中、多少加工されたような箇所もあるのだが、基本的には自然地形のままである。山崎氏の図を見ると、かなり降っていった先に平場がありそうであるが、たいして期待できるようなものではなさそうなので、途中でやめて引き返した。

 今度は、北側の尾根を進んで行く。北側に斜面を降ると、帯曲輪状の部分があった。人工的なものではあるが、かなり小規模なものである。さらに降るとまた似たような構造がある。その後はだいぶ降った行ったところにピークがあり、その脇に2つの小区画が造成されていた。

 ここからさらに進むと、下を通る道路に面した崖になって行き止まる。ただし、脇の方から降りていけるので、そのまま道路まで降りて行った。

 宿の平城は、ほとんど人口の手を入れていない山城である。自然の地山とたいして変わりはないが、それでもわずかながら人工的な加工を見ることはできる。だが、たいして見るべき遺構は存在していないので、わざわざ見に来るほどのものでもない。本当に臨時的な築城によるものであったのだろう。


 宿の平城は、苗ヶ島城の詰めの城であったというが、苗ヶ島城からはずいぶんと離れていて、あまり現実的では解釈のように思う。古くからあった温泉集落を守るための城郭だったのではないだろうか。

 伝承によると、南北朝時代に桃井直常が拠ったともいうが、史実であったかどうかも含めて、詳しいことはよく分からない。




城址北側の駐車場に標柱が立てられていた。しかし、城址は標柱と反対側の山である。 主郭内部。周囲に切岸加工も施されていない天然の地山である。
南側にある小郭との間の切岸。 北側の尾根を降っていった先にある小郭。




殿替戸館(大崎屋敷・前橋市柏倉町殿替戸字内出)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 殿替戸館は、東昌寺の北東300mほどのところにあった。舌状台地の先端部辺りを利用したものである。しかし、台地内部は、宅地と畜産関係の施設となっていて、明確な城郭遺構を見ることはできなくなってしまっている。

 台地全体が周囲よりも5mほど高くなっており、北側の台地続きの分も、深さ3mほどの切通し道路となっているので、大規模ではないながらも、独立した地形となっている。これを利用して城館を置いたものであろう。

 明確な遺構はないと述べたが、宅地と畜産施設との間には、切通し状の部分が見られる。これがあるいは堀切の名残であるという可能性があるが、断定はできない。やはり、旧状は理解することは困難である。



 殿替戸館の館主は大崎氏であったという。













西側の城塁跡。 堀切跡のように見える部分。




苗ヶ島城(前橋市苗ヶ島町堀畠)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 苗ヶ島城は、宮城アングラーズヴィレッジの東側にある微高地上に築かれていた。

 しかし、遺構らしきものは特に見られない。『関東地方の中世城館跡』にも「消滅」とある。ということなので、内部に立ち入って見てはいないのだが、あるいは北側の山林内部には何らかの区画性を示すものがありそうな気がしないでもない。

 西側はアングラーヴィレッジ(釣堀?)の池に接しているが、これはもともと存在した天然の池を利用したもののように見え、これが堀の機能を果たしていたものと想像できる。

 苗ヶ島城は、阿久沢氏の主要な居館であったというから、そこそこの規模を有していたものと想定できそうなものであるが、実際にはなんだかよく分からない状況になってしまっている。



 苗ヶ島城は、阿久沢氏の城館の1つであった。











城内に見られる段差。




大前田砦(前橋市大前田町内出)

*図の作成に際しては『関東地方の中世城館』の山崎一氏の図を参考にした。

 大前田砦は、大前田の諏訪神社の東南200mほどのところにある。遺構の多くは破壊されてしまったようで、遠目にもパッと城らしく見える地形ではないのだが、近年、前橋市によって標柱が立てられたようで、これが目印になる。標柱には「前橋市指定史跡 大前田内出居砦跡」と書いてある。なんだかごちゃごちゃしすぎて、かえって分かりにくい名称である。大前田砦の方がすっきりしている。

 標柱を立てるために、城塁上の竹藪を少し整理したようである。それはいいのだが、その時に切った竹を、手前の堀に積み上げてしまっているために、標柱までたどり着くのが難しくなってしまっている。標柱の北側の堀は、東側に向かって折れながら続いていく。

 この標柱がある部分は南北に10mほどしかなく、郭といえるほどの広さはない。この郭と、南側の民家になっている主郭と思われる部分の間が堀になっているのだが、こちらもだいぶ埋まってしまっているようだ。民家となっている部分よりも北側の標柱のある郭の方が高くなっているのだが、これは堀を埋めるのに、民家の側にかつてあったと思われる土塁を崩してしまったからであろうか。民家の側の土塁は北西部分は残存しており、そこに祠が祭られている。

 民家のある郭の南側にも堀で区画された郭があったようであるが、こちらの堀はほとんど埋められてしまっており、かすかに痕跡を感じ取ることができるかどうか、といったレベルである。民家のある部分が主郭だと思われるが、家一軒分であるから、たいした広さではない。

 山崎氏の図を見ると、民家のある主郭を防御するように、南北と東側に郭を配置している。西側は、現在は水路となっている堀によって区画されていたものと思われる。いずれにせよ、たいして規模の大きな城郭であったとは言えない程度のものである。


 大前田砦の歴史等、詳細は不明である。

 城とは関係ないのだが、大前田といえば、幕末の大親分であった大前田栄五郎を思い出す。近くには栄五郎の墓所もある。「天保水滸伝」の話など現在の人はほとんど知らないであろうから、大前田栄五郎といっても、ピンと来る人はあまりいないであろう。しかし、もともとは国定忠治と並ぶ、上州の著名な親分さんなのであった。






意外なことに標柱が立てられていた。北西角の部分である。「大前田内出居砦跡」とある。 内郭との間の堀切。右手の城塁上の土塁に祠が祭られている。
北東側の堀跡。 北側の道路から砦跡を遠望したところ。パッと見て城らしき地形には見えないが、白い標柱が目印となる。




































大竹屋旅館