群馬県前橋市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

荒子砦(前橋市荒子町300)

*図の作成に際しては『関東地方の中世城館』の山崎一氏の図を参考にした。

 荒子砦は、荒子神社の東200mほどのところにある。小川が西側に大きく蛇行する地点の微高地に築かれた城郭である。この微高地を「しろ山」と呼んでいるという。

 砦の跡は公園となっており、北側には駐車場もある。また、南側の公園入口の脇には「荒子の砦跡」という表札も付けられていて、ここが城郭の跡であったということは認識されている。

 とはいえ、城址公園ではなく、あくまでも忠霊塔が中心となった公園である。この忠霊塔の周辺には土塁が見られる。これが遺構のようにも見えるのであるが、土塁の内部の方が低くなっていること、外側部分が鋭さを欠いていること、忠霊塔のある部分を囲むような配置になっていることなどからすると、城本来のものではなく、忠霊塔の建設に伴って造成されたものである可能性が高いのではないだろうか。

 ただし、南西部分の城塁上にある土塁に関しては、そのまま城郭遺構とみてよいと思われる。この土塁は忠霊塔の南西側で折れて、その部分が虎口のようになっている。しかし、高さはあまりなく、防御意欲を感じさせるようなものではない。

 川に臨む部分は、高さは5mほどであるが、傾斜はかなり鋭くなっている。この部分は城塁の状態をそのまま残しているような感じである。

 以上が公園になっている部分であるが、実際には東側に隣接する豚舎のある所も、城域内であったと思われる。豚舎の脇に土塁の残欠らしく見えるものがあり、また豚舎のある場所そのものが、周囲より若干地勢が高くなっている。豚舎の建設によって、だいぶ改変されているようである。

 荒子砦は、このように、あまり明確な遺構を残してはいないのだが、城郭らしい雰囲気はよく残されている。また、公園となっているので訪れやすい城館でもある。何かのついでにちょっと立ち寄ることのできる場所である。ヤブをかき分ける必要がないので真夏でも普通に訪問できる。


 荒子砦の歴史等、詳細は未詳である。









東南側の公園入口。「荒子の砦跡」としっかり書いてある。 忠魂碑周囲の土塁。後世の改編の可能性が高い。
西側の土塁開口部分。 西側の小川に臨む城塁。なかなか鋭い切岸となっている。




兎貝戸砦(前橋市小坂子町兎貝戸)

*図の作成に際しては『関東地方の中世城館』の山崎一氏の図を参考にした。

 兎貝戸砦は、前橋市立芳賀中学校の東南200mほどのところにある。中学校から南側に少し降っていくと、東側に若干地勢が高くなっている部分が見えてくる。これが兎貝戸の砦跡である。

 駐車場はないので、路肩の広いところの脇に停めさせていただいて、砦に入っていく。1郭内部は畑となっていて、そこに車が2台入っていた。耕作をしている方の軽トラである。そこで畑作業をしていた方に、砦について詳細を伺ってみたのであるが、「自分たちはこの畑を借りているだけで、地元の人間ではないので詳しいことは分からない」とのことであった。ただし、「砦跡だということは知っているよ。あそこに標柱が立っているからね」と、砦跡であるという認識はお持ちであった。

 その標柱というのは1郭の東南端辺りに立てられている。マイナーな城館にしては、ちゃんと標柱が立っているのがすばらしい。現状のように明確な遺構を欠いている城館の場合、案内表示がなければ、ここでいいのかどうか確信が持てないのである。であるから、ずっと立っていてほしいが、木製の標柱なので、何年か経てば、朽ち果てて倒壊してしまう可能性がある。

 標柱の南側に一段低くなった通路がある。これが南側の堀跡であろう。とはいえ、かなり埋められてしまっているようで、大した深さはなく、意識的に見なければ堀跡であるとは分からない。

 1郭から一段低く東側に2郭がある。2郭との間には、現在は高さ1mほどの段差があるのみだが、本来は堀があったらしい。2郭の東側が、下を流れる小川に臨む土手となっている。土手の高さは7mほどもあり、けっこう高く急峻である。こちら側から登るのはなかなか大変そうである。

 兎貝戸砦は、東西に2つの郭を並立させた城郭である。北側にも堀があったはずであるが、こちらはすっかり埋められてしまったようである。北側の民家に接する部分にやや土塁状の地形が見られるが、これが遺構であるのかどうかははっきりしない。


 兎貝戸の砦について、歴史等詳細は不明である。ただ、「うさぎ」という地名を聞くと、故石崎氏がよく言っていた話を思い出す。「茨城には「うさぎ」地名がよく見られるが、これは城郭関連地名であり、本来は「ふさぎ(=防ぎ)」から来ているものであり、「うさぎ地名」のある所には城郭構造物がある」といったような話であった。

 ここは茨城ではないが、この「うさぎ」が茨城と同様、防御構造物を示すものである可能性は高いと思われる。





1郭南側の堀跡。かなり埋められてしまっている。 1郭に立つ標柱。ちゃんと標柱が立っているのが意外であった。
東側の城塁。高さ7mほどある。 1郭と2郭との間の段差。もともとは堀であったらしい。




天川寄居(前橋市天川町)

*図の作成に際しては『関東地方の中世城館』の山崎一氏の図を参考にした。

 天川に双子山古墳が残されて公園となっているのだが、それに隣接するすぐ南側に天川寄居があった。

 二子山古墳は史跡となっているようで、市街地化が進んでいる地域にありながら、全体が保存されており、ふもとには児童公園もある。この古墳を北側の守り、もしくは物見台として、その南側に城館が営まれていたらしい。しかし、古墳のある部分以外は宅地化が進んでおり、城郭遺構は完全に破壊されてしまったようである。

 そこで、戦後直後の航空写真を見てみると、古墳の南側に右の図のような形状が見えている。これが天川寄居の形状を示しているのだと思われる。その後、堀は次第に埋め立てられてしまったようで、1970年代の航空写真を見ると、西側の一部しか堀が残存していない様子が伺える。その後、すべてが埋め立てられて、宅地が建設され、完全に消滅してしまったのであろう。


 天川寄居の歴史等、詳細は不明である。











二子山古墳の上の様子。


































大竹屋旅館