群馬県前橋市(旧富士見村)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

漆窪城(前橋市富士見町漆窪字上城)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 漆窪公民館の北側にある比高15mほどの台地先端部が漆窪城の跡である。

 それにしても変わった地形である。台地基部を掘り切って、先端部を城郭化するというのは珍しくもないのだが、この場所は、先端部がだいぶ低くなっている。これでは、北側の台地側から城内は丸見えである。北側から攻撃されたらひとたまりもないようにも見える。いわゆる穴城の一種であると言えるかもしれないが、城郭を置くのにあまり有利な地形であるとは思われない。地形よりも優先される何らかの要素があったのであろうか。

 『城郭体系』の解説には「南北に4本の堀切がある」とあり、各郭の間の堀切に加え、先端部にも堀切があったようである。また、山崎氏の図では、本丸部分が東西2つに分かれており、西側が副え曲輪のようになっている。

 しかし、現状では、右の図の通りであり、山崎氏の図面とはかなり違っている。1,2、3は平行な段郭として配列されているが、これは後世の耕作地整理によって改変された地形なのであろうか。もしかすると、台地の先端部分が大規模に削り取られてしまったため、現状のような地形になっているのかもしれない。

 現状がかつての郭の位置を維持していると仮定してみると、北側の一番高いところを1郭と想定するのが自然である。後は段々に2郭、3郭と降っていく構造であったと思われる。1郭の北西側がやや高くなっており、ここに城址碑が建てられている。この部分は櫓台の跡であったであろう。


 漆窪城は長尾氏の城館であった。城主として長尾大膳という人物の名前が知られている。










北側の通路沿いにある城址碑と案内板。石碑には「漆窪城の跡」と書いてある。 1郭城塁。
3郭から2郭の城塁を見たところ。左側の上には1郭の城塁もあり、段々になっていることが分かる。 3郭東側の虎口状通路。




田島城(前橋市富士見町田島字森山)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 田島168番地のお宅のある一帯が田島城の跡である。西側の小川に臨む段丘地形なので、南北と東側の街道に沿う部分を区画すれば城郭として成立する。しかし城内は、宅地化や耕作に伴う改変が進んでおり、一見したところ、遺構は隠滅しているように思える。

 そんな風に思ったのであるが、現地の方にお話を伺うと、南側の削られた土地の奥の竹林の仲には堀が残っているという。「ただし、ヤブがひどくてとても入れたもんじゃないよ」とのこと。夏場とはいえ、この程度のヤブならお手のものである。屋敷の周囲を歩かせてもらう許可をいただいて、ヤブに進入した。ところで、遺構の残っている部分の多くは宅地の範囲内にあるので、内部を探索する際には、現地の人に声をかけてからの方がよいと思う。

 南側の竹ヤブに入って行くと、すぐに土塁が見えてきた。高さ2mほどのしっかりとした土塁である。土塁の上に登ってみると、その南側には幅6mほどもある堀切が残っている。ただし、竹が密集しているため、堀底に降りることさえ困難である。

 それよりも驚いたのは、土塁の上や側面部に石が多数転がっていたことである。これだけの石を置いていることからすると、、もともとは城塁に石積みを置いていたのかもしれない。この辺りは石積みを伴った城館は少ないから、かなりの希少価値がある。

 土塁には明確な折れがあり、西側に続いて行く。ところが西側の土塁は取り払われてしまったようで、所々分断されている。土塁の外側は腰曲輪状の地形になっており、さらに一段下には帯曲輪がある。この腰曲輪状の地形の縁部分にも石積みが見られた。また北東側には墓地が造成されて地形が改変されている。

 明確な遺構が残っている部分は以上である。北側の民家の間には台地下に降りて行く切通し通路があるが、これが北側の区画であろうか。

 東南側は、傾斜した地形になっていて2段の段差があり、そこに石積みが見られる。特に道路に面した下の部分には1mあまりの高さの石積みが見られるのだが、これは近代のものと見るべきであろう。

 遺構湮滅かと思っていたのだが、意外に残っていることに驚いた。また、石積みが見られるのも、田島城の特徴である。この地域の他の城館とはちょっと性質が異なる城館であったように思われる。


 田島城の歴史等詳細は未詳であるが、石垣の存在から、外部勢力による築城である可能性もあるだろう。









西側の城塁縁には石積みが見られる。 南側の堀切の跡。深さ3m、幅6mほどもあるのだが、竹が密集していて、写真ではよく分からない。
折れのある土塁には、比較的大きめの石がゴロゴロとしている。もともとは石垣造りであったのだろうか。 東側の道路沿いの土手。この石垣は後世のものであろうか。




金山城・九十九山砦(前橋市富士見町原之郷)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 九十九山の北西側200mほどの集落が金山城の跡であったという。城は2つの河川が合流する地点に位置しており、北側と西側は、この2本の河川が、天然の堀となっていたようである。

 東城、中城、西城といった地名が残されており、少なくとも3郭構造の城館であったと思われる。また、山崎氏の図を見ると、本丸とその西側に堀に囲まれた郭が1つある2郭構造となっている。

 この堀が少しは残っていないかと、周辺を見てみたのだが、現状では明確に堀と思われるものは見当たらない。ただし、土塁状の土手は見られるので、それがかつての城のラインを示している可能性はある。

 金山城に関しては、古い航空写真を見ても旧状を理解することはできなかった。なんとなく主郭と思われる形状は理解できるのだが、西城、東城の形状は不明である。


 金山城の城主は高山山城守であったという。



 金山城の東南200mほど、九十九山古墳のある比高25mの九十九山が、九十九山砦の跡であるという。こちらには金山城の烽火台であったという伝承があるらしい。

 登り口は北側と東側とにあるが、私は北側からアクセスしてみた。登り口の脇には駐車スペースもある。登り口の脇を見ると堀状の窪みが見える。古い航空写真を見ると、九十九山の北側には堀状の台地の窪みが東西に延びていた。天然の堀のようなものである。現在ではその大半が埋められてしまっているのであるが、その一部が登り口の脇に残っているというわけである。

 さて、北側入口から鳥居をくぐると、後は傾斜の緩やかな斜面をまっすぐに登って行くだけである。たいした高さではないので、すぐに山頂に着く。

 山頂は古墳になっており、古墳の案内板も設置されていた。登ってみると分かるが、山頂は前方後円墳となっていた。ということで、たいしたスペースはないのだが、東側に一段下ったところにまとまった平場がある、兵士を駐屯させるとすれば、この場所であろう。ここには祠が祭られており、そのためか、縁に土塁状の高まりも見られる。、ただいいずれにせよ、たいした広さはないので、多数の兵士を配置することはおぼつかない。




金山城跡に見られる土手。
金山城から遠望する九十九山。比高25mほどである。 北側の登り口から見上げる山頂方向。
山頂の古墳の北東側には、低い土塁で囲まれた一角がある。 山頂の前方後円墳上に祭られた祠。




新井館(前橋市富士見町田島)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 田島地区にある富士見公民館が新井館の跡である。したがって、この公民館を目指せば、場所はすぐに分かる。

 前橋市立富士見公民館は、かなり立派な施設である。それゆえに、この公民館の建設によって、遺構は隠滅してしまったように思われる。それでも古い航空写真を見ると、方形の区画を監守することができる。単郭方形の居館であったようである。写真の上からすると東西には虎口はなさそうに見える。南北はよく分からないのだが、虎口があったとすれば、その方向であったと想像される。

 現状では遺構らしきものはないが、公民館の北東側を通っている通路が、やや堀跡らしい雰囲気を残している。

 また、公民館の東側から、下の民家に降りて行く道の途中に土塁らしきものが見える。一見すると城郭遺構のように見えなくもないのだが、新井館の位置からは少しずれている。この土塁が城郭と関連したものであったかどうかは不明である。


 新井屋敷は新井氏の館であったという。










市民会館の北側の通路。かつての堀のラインと一致するようだ。 南西側の先の民家の裏手に土塁状のものが残っているのだが、遺構かどうかは分からない。




岡城(前橋市富士見町石井)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 岡城は、珊瑚寺の西側300mほどのところにある比高10mほどの台地先端部にあった。両側に河川が流れている台地で、北側の台地続きの部分を区画すれば簡単に城域が確保できる地形となっている。

 この台地上に数郭を配置していたらしいのだが、台地上には宅地や板金工場などが建ち並んでおり、遺構はすでに湮滅状態のようである。そこで古い航空写真なども見てみたのだが、旧状を看守することはできなかった。したがって図は、山崎氏の図面に頼った想像図である。

 それによると台地基部の部分には堀切があって、区画している。そこに東西に3つの郭を配置しているのだが、それなりの規模があるのは東側の郭だけで、ここが主郭であったろうか。それらの南側にまとまった平場があり、ここも郭として利用していたことであろう。

 現状では、堀切は認められない。宅地内に段差があるのは分かるのであるが、これが3うの並立する郭の南側の段差部分を示しているのであろうか。。


 岡城の城主等、歴史については未詳である。












台地上に見られる段差。




丸山城(前橋市富士見町米野字丸山)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 富士見町米野788番地辺りの畑が、丸山城の跡である。現在の航空写真を見ても、80m×90mほどの方形の区画が見えている。これがかつての城郭のラインを示していると思われる。

 現状では明確な堀は残されていないが、東側のラインは切通し状の通路となっている。これが堀のラインを示しているのではないかと思われる。

 『城郭体系』では2郭構造であった、としている。副郭がどこにあったのか分からないのだが、実際に2郭構造であったとするなら、北西側か北東側に何らかの施設があった可能性がある。



 丸山城は、蛭川氏等地衆の寄居であったという。















丸山城東側の堀跡。右手が城址。




皆沢城(前橋市富士見町皆沢)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 皆沢城は、前橋市富士見総合グランドの南西側500mほどのところにある台地先端部近くに築かれていた。南側に突き出した比高15mほどの台地先端部近くであり、台地上には大規模な養鶏場が建設されている。

 養鶏場および耕作化によって、遺構はほぼ湮滅してしまったようである。そこで古い航空写真を見てみたのだが、航空写真から郭の配置を看取することができなかった。したがって右の図は山崎氏の図面に頼った想像図である。台地の中央を通る道路の東側に堀を巡らせた1郭と思われる郭を置き、その東側に馬出し状の郭を配置。南側にも地形なりに副郭を配置する、といった形式の城郭であったようである。


 台地上には、土手状の段差も見られるのだが、これがかつての城塁ラインを示しているのか、近代の工事によるものかどうかは不明である。また、西側の斜面を確認してみたのだが、こちら側からは遺構らしきものを見つけることはできなかった。

 
 皆沢城の城主等、歴史については未詳である。











台地上にみられる段差だが、近代のものかもしれない。




森山城(前橋市富士見町横室字日向)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 十二山の東300mほどのところにある作業所が森山城の跡である。しかし、現状では湮滅状態と言っていいかと思われる。

 この作業所の方に、森山城のことを伺ってみると、「城について詳しいことは分からないが、以前にも2,3人で見学に来た人がいる」とのことであった。この城を訪れるとはかなりのマニアである。その人たちからは「周囲を歩かせてほしい」と言われたので許可したが、特に遺構を確認することはできなかったようだ、とのことであった。

 私も許可を得てヤブに入ってみようと思ったのだが、夏場ではとても進入できなかった。もしかすると縁部に帯曲輪くらいはあるのかもしれないが、冬場になってみないと無理である。

 帰宅したから古い航空写真を見てみたが、古くはここは山林であったようで、城の構造を見ることはできない。しかし、右の図は、現在の作業所とほぼ一致した面積であるようなので、1郭はたいして広くない郭であったと思われる。

 『城郭体系』の図を見ると、1郭の周囲は、横堀であったようである。小規模ながら、しっかりと造作された城郭であったものだろう。



 森山城の城主は引田伊勢守であったという。












城址にある作業所。遺構は湮滅状態のようだ。






















































大竹屋旅館