群馬県桐生市(旧新里村)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

谷津館(桐生市桐生市新里町桐原)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 谷津館は、安養寺の北側200mほどのところにある。館に関する案内板などはないが、「村指定の史跡を大事にしましょう」とだけ書かれた看板が2か所に立てられており、そこが城館跡であることが分かる。60m四方ほどのほぼ方形の居館である。

 城址は山林化しているが、遺構はほぼ旧状を維持している。ただし、全く未整備で、内部(特に東側)は倒れた竹がたくさんあり、かなり歩きにくい。

 虎口は南側の一か所だけであり、館内部に進入するには、この虎口を利用するのがよい。この虎口は西寄りにあるので、西側の道路からアクセスすればすぐである。また、東側の城塁にも、人が進入した跡があるのであるが、入り口付近の倒竹がひどい。

 北側の堀底は比較的歩きやすくなっており、城塁をよじ登ればすぐに内部に進入できそうに見えるのであるが、こちら側には柵が植えてあって、越えることができないようになっている。どうしてこのようなところに柵があるのか不思議だが、もしかすると復元柵の一種なのであろうか。

 内部には高さ2mほどの土塁がしっかりと構築されているが、東側だけ土塁がまったくない。東側は堀も埋められてしまっているようなので、土塁を崩して堀を埋めたことが考えられる。土塁の北東端辺りには崩された名残のような地形を見ることもできる。

 また、土塁の北西端が広くなっており、そこに2基の祠が祭られている。桐生市のホームページによると、これらの祠は正応年間(1288〜1292)のものと、応永15年(1408)のものであるというから、かなり由緒のあるものである。

 内部は一面の平場ではなく、北側3分の1くらいが、一段高い地形になっている。


 谷津館の城主は、新田一族であった藪塚氏であったという。現在もご子孫の方が、南側にお住まいになっているということである。



北側の堀跡。 東側の城塁。堀は埋められてしまったのであろうか。
南側に開口した虎口。虎口は一か所だけのようである。 西側の堀。水が少し残っている。




善昌寺城(桐生市新里町桐原)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 谷津砦の北西500mほどのところにある善勝寺が、善昌寺城の跡であるという。この周辺の中心城郭であり、谷津館、中塚城、北山館などはすべて、善昌寺城の支城に当たるといわれている。確かにこの2つの城館を結んだ三角形の中心部に位置している。

 城館としては変わった地形上にあり、しいて言えば、谷戸式の城館ということになろう。古いタイプの居館にはこのような形式のものがよく見られるが(特に上総など)、当地域では珍しい。内部にはいくつかの段差があり、前面の防衛には適しているが、背後の台地上から攻められてしまえば、あっという間に落城してしまいかねない場所である。さして防御面を重視しなかった時代の城館といったものであろうか。


 善昌寺は新田義貞の執事であった船田善昌が開基した寺院であるという。船田氏の居館を利用して寺院が建立されたものか、船田氏の居館が別にあったものかどうかはっきりしないが、船田氏に関連した城館であったことは間違いないだろう。

 この北側200mほどのところに北山館というのがあり、これが船田氏の館であった可能性もあるが、遺構はまったく残っておらず、詳細も不明である。














境内東側の入り口にある堀状の窪み。 本堂上にある墓所。




中塚砦(桐生市新里町武井)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 武井廃寺の東南にある中塚古墳が、中塚砦の跡であるという。砦に関する案内は何もないが、中塚古墳は県指定の史跡となっていることもあり、途中のあちこちに案内板が出ているため、中塚古墳を目指していけば迷わないと思われる。

 砦跡といわれている部分は、中塚古墳のある先端部周囲で、西側の台地続きの箇所には墓地が造成されている。北側の台地続き、西側の台地続きはそれぞれ切通し状の地形になっているので、これが堀の名残であると考えられる。

 城の東南側にある(というか城域の大半を占めている)中塚古墳は、城の物見台としても機能していたのではないかと思われる。


 中塚砦は、善昌寺城の支城の1つであったと言われている。











中塚古墳の標柱。左手奥が古墳。 東側の切岸。




堂城(桐生市新里町山上字堂城)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 堂城は、山上城の南西600mほどのところにあった。比高8mほどの微高地上である。地名が堂城であり、城の名称がそのまま字名と名って残っている。

 現在、この地は一面の畑となっており、遺構は存在していない。古い航空写真を見てみたのだが、旧状を理解することはできなかった。したがって、右の図はほとんど山崎氏の図面に頼ったものである。あるいは南側の民家の背後辺りにわずかに遺構がある可能性無きにしも非ずであるが、期待はできない。

 台地の西側にある一角が1郭だったと思われる部分で、その東側に馬出し状の郭を配し、その外側に外郭部分がある。


 堂城は、山上城の支城であった。
















正面の微高地が堂城。すっかり破壊されてしまったようだ。




葛塚城(桐生市新里町山上)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 葛塚城は、山上城の北東600mほどのところにあった。現在は宅地や耕作地によって遺構はほぼ隠滅状態にある。

 1960年代の航空写真を見てみると、城館の形状がなんとなく理解できる。それに基づいて作成したのが右の図であるが、山崎氏の図とは北東側がまったく異なってしまっている。山崎氏の図では、北東部に大きな「欠け」があるのだが、北東が鬼門であることを考えると、その方がリアルであると言えるかもしれない。

 周囲を囲む堀はすっかり埋められてしまったようで、一周してみたが、それらしきものはまったく見受けられない。ただし、北西側にある墓地の脇に土手があり、北西の城塁のラインと重なっているので、もしかするとこれが土塁の名残の可能性がある。

 また、南側には古墳が1基あって、これが城塁上の物見として機能していた可能性がある。


 葛塚城は、山上城の支城として、かなり長期間にわたって維持された城館であり、城主としては、山上氏、足利忠綱、羽生衆らの名前が知られている。












北西側の墓地の背後に残る土手。あるいは土塁の名残か。 南側のかつての城塁沿いにあったと思われる古墳。




武井砦(桐生市新里町武井字寄居)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 ミツバ新里工場の北東側にある武井遺跡公園が武井砦の跡である。東側の小川に臨む台地先端部であり、小川の方向からだと比高15m近くあり、いかにも城のありそうな形の台地に見えている。寄居地名を残している台地である。

 この台地は、南側から見ると、いかにも城のありそうないい形の台地に見えている。ナビの指示にしたがって行ったら、最初、遺跡公園の南側に到達した(下の1枚目の写真はそこから撮影したものである)。ところが、ここからは遺跡公園へは行けなかった。そこで再度、ナビに目的地を入れ直して、遺跡公園を目指す。

 ところがまたもやナビが迷走し、簡単には到達できない。実際には西側から、まっすぐに進んで来ればよいのであるが、行き方を示す案内板などは設置されていない。ナビの指示に任せていたら、今度は北側の未舗装の荒れた路面を通る羽目になってしまったのだが、この道は運転したくない道であった。あくまでも西側から接近するように意識したほうがよい。

 遺跡公園には、駐車場やトイレも設置されている。また、遺跡に関する案内板も何箇所かに設置されている。

 案内板を見ると、古代の遺跡に関しての説明はあるが、中世城館についての説明はなかった。防御性を重視した高地性集落の跡、といったものであったろうか。とはいえ、寄居地名を残しているので、中世段階にも城館として使用された可能性が高い場所であるといえる。

 山崎氏の図を見ると、堀切や腰曲輪などもありそうなのであるが、現状では、単郭の広い平坦地があるだけ、といった印象である。東南側のラインの縁部は、やや帯曲輪状になっているので、腰曲輪というのはこれを指しているのかもしれない。

 堀切があったとすれば、ミツバの工場と隣接する南西部分であったかと思われるが、こちらは工場の造成の際に埋められてしまった可能性があると思われる。


 武井砦の歴史等は未詳であるが、武井氏の城館の1つであったと想定できる。




南側から遺跡公園を遠望したところ。いかにも何かありそうな台地である。 遺跡公園内部。
























大竹屋旅館