群馬県桐生市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

浅間山砦(桐生市菱町浅間山)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 その名も城の岡団地の南西にそびえている比高60mほどの浅間山が、浅間山砦の跡である。浅間山には祠が祭られているために、登り道はあちこちから着いているようで、航空写真を見てみるとその様子を見ることができる。だが、この航空写真は真冬に撮影されたもののようで、私が訪れた8月では、ほとんどの道がヤブに埋もれてしまっているようであった。夏場でも歩ける登山道は北側から付けられているものだけであり、その登り口はこの辺りである。ここから道なりに進んでいけば、山頂に到達できる。

 登り口には駐車場がないので、困ってしまう。車はどこか路肩の空いているところにでも置かせてもらうしかない。北側から真っすぐ進んでいったところには何かの宗教の道場跡があり、車を置けるスペースが十分にある。ここから山に登る道もあるようなのだが、ヤブに覆われてしまって、夏場でもとても進入する気にはなれなかった。

 上記の登り口から山道を進んでいくと、途中の平場では、ヤブも切り払ってあり、すぐに山の斜面に取り付くことができる。斜面にさしかかれば、ヤブはそれほどひどくなくなるので、そのまま進んでいけばよい。

 山頂近くなってくると、帯曲輪の間につけられた虎口のようなところを抜けていく。切岸加工が十分であるとは言えないレベルものであるが、帯曲輪は2段になっており、城郭加工として施されたものであると思われる。この帯曲輪内を西側に平行移動していくと、今度は北側に登っていくようになる。

 北側の正面には鳥居が見えている。この鳥居をくぐって登っていったところが山頂で、そこに浅間神社の祠が祭られている。

 山頂部分は長軸30mほどのスペースであるが、土塁や切岸などは見られず、削平しただけで、防御加工のようなものは見受けられない。

 全体として、ほとんど自然地形に拠った施設というべきものであるが、比較的傾斜の緩やかな斜面に帯曲輪を何段か造成することによって、若干の防御構造となしただけのものである。きちんと手間暇をかけて加工した城郭であるとはいえない。臨時的築城によるものであろうか。

 桐生川に臨む独立山に築かれているので、山頂付近の木を切り払えば、眺望は確保できる。物見の砦としては好位置にあるといえよう。








南西側の昭和橋から見た浅間山。 山頂への登り口。右手の山道を進んでいけば、山頂まで道が続いている。
帯曲輪に付けられた虎口。 山頂にある浅間神社の祠。




小倉砦(桐生市川内町)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 小倉砦は、小倉地区の奥にある比高60mの山稜上に築かれていた。砦の西側にかつての峠道が通っており、この道の北側のこの辺りに登り口がある。

 登山道の入り口部分は近年付けられたもののようだが、そのまま進んでいくと、昔からあったと思われる山道となっていく。ただし、道をそのまま進んでいくと、山の中腹をめぐるだけになってしまうので、途中の分岐点で、尾根に沿って直登する方向に進んでいくのがよい。すると、図の北側の通路になっていく。この通路は、城の北側の帯曲輪やテラス状の小郭を経由して城内に入るようになっているので、本来の登城道の1つであった可能性がある。

 砦のある山稜先端部分は、もともと傾斜地形であったようで、若干の削平工事がなされたようであるが、現在でも縁部は傾斜したままであり、加工の甘さを感じさせる。それでも、下に帯曲輪を設置することで、斜面を切岸に加工している。

 南側の斜面の傾斜がやや緩かったようで、こちら側には2段の(場所によっては3段の)帯曲輪が造成されている。

 北側に進むにつれて、地勢は次第に高くなっていくが、その先に堀切があった。深さ2mほどのささやかなものであるが、これで尾根基部を分断している。中央部が土橋状に掘り残され、両端は竪堀となって落ちている。堀切に面する両サイドの城塁の中央には切込みが造られ、虎口となっている。

 この堀切より先には、少し平坦な地形が続いているが、その先は尾根が登りになっていく。


 小倉砦の歴史等は実生である。簡単な形状の砦であることから、戦時の緊急築城によるものであったろうか。





南側から遠望した小倉砦。比高60mほどある。 北側の道路沿いにある登り口。
山稜基部を分断する堀切。 南側の腰曲輪と切岸。




小倉丸山砦(桐生市川内町)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 小倉丸山砦は、たかのす聖母保育園の南側にある微高地上に築かれていた。西側の周囲には小川が流れており、その部分に張り出した台地の先端部分に当たる。東側の台地続きの部分を区画すれば、そこそこの要害地形であるといえる場所である。

 城内は宅地となっているため、遺構の残存は期待できない状況であるが、内部に入っていくと、東側の道路との間に段差があるのに気が付く。これがかつての堀のラインを示しているのではないかと思われる。

 また、城の北側先端部分近くにいると、一段高くなっているのが分かる。土塁なのか櫓台なのか現状でははっきりしないが、宅地側の部分が一部削られている。


 小倉丸山砦の歴史等は未詳であるが、街道(県道342号)に面しているので、この街道を抑えるための要衝であった可能性がある。




















西側の小川から、砦のあった微高地を見たところ。 北側から砦先端部の土手を見たところ。




物見山砦(桐生市梅田町)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 物見山砦は、フレッセイ天神店の北側にそびえている比高60mほどの山稜先端部に築かれていた。この山の北側には道路が縦横無尽に走っており、北側のこの部分から登っていけば尾根に取り付くことができる。後は尾根沿いに南下していけば、砦跡まで到達することができる。

 尾根基部の平坦になっている部分の側面部には、片側だけ竪堀状の地形が見られるところがあった。尾根基部のところなので、堀切を入れるのによい場所であるが、自然の崩落地形にも見え、実際の遺構であるかどうかは判然としない。

 そこから尾根は次第に登りになっていく。途中には岩があちこちに転がっている。また、微妙な段差が何か所かに見られるが、いずれも城郭遺構と判定できるほどしっかりとしたものではない。自然地形なのであろう。

 さらに進んでいくと、まとまった広さのある所に出る。ここが砦内部なのだと思われる。また、この入り口部分は、やや切岸状の地形となっている。

 地形はまだ先に続いているので、さらに南側に進んでいくと、尾根は自然の下りになっていく。この部分には岩が多数転がっており、この山がけっこうな岩場であったことが分かる。


 物見山砦についての歴史等詳細は未詳である。位置からすると、梅原館の詰めの城というような場所ではあるが、しっかりとした城郭加工を施されているわけでもなく、そういう性質の城郭ではなかったであろう。物見のために利用されたことのある場所、といった程度のものであろう。














南側のスーパーフレッセイの駐車場から見た物見山。比高60mほどある。 山稜基部の部分の片側にだけ、竪堀のような地形が見られる。
先端近くに祭られている祠。 先端部分には岩がゴロゴロとしている。




用命砦(桐生市川内町)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 用命砦は、渡良瀬川に臨む比高30mの独立丘の上に築かれていた。現在、ここには永明寺という寺院があるので、これを目印にしていけばよい。

 台地上はかなり広くなっており、拠点城郭クラスの規模がある。とはいえ、それほど大規模な城郭であったとも思われないので、台地の一部を加工して砦として使用した、といった程度のものだったと想像される。

 台地は西側の方が高くなっており、もともとは数段の構造となっていたと思われる。しかし、現在は一面の墓地となっているために、本来の構造を理解することは難しい。

 それでも、墓地造成の行われていない北側のヤブに入り込んでいくと、切岸や帯曲輪のような構造を見ることができる。とはいえ、切岸の削り方はかなり新しいもののように見えるし、帯曲輪と思われるものも、ただの通路であるのかもしれない。その下の斜面は切岸加工されていない自然傾斜の斜面で、防御性を高める工夫もしていない。そういう点からも、たいした構造物を持つ城郭ではなかったのだと思う。


 しかし、用命砦は、陸運と水運の両方を掌握できるという枢要の位置にあり、西方から敵が進軍してくる場合、それを迎え撃つ拠点となる場所でもある。また、ここから北側に続く街道を進んでいくと、仁田山城の山麓に到達する。仁田山城への入り口を抑えるための城郭であった可能性も高い。


 天正年間、用命砦の城主は石原石見であった。由良氏の命を受けた里見氏によって攻撃され、城主石原氏は脱出したという。




永明寺の本堂から西側の墓地を見たところ。墓地の方が高く、主要部であったと思われる。 墓地の北側にも切岸が見られるが、削り方が新しいように見える。
墓地の南側にある段差。 南側から登ってくる古い道の跡。




伊賀屋敷(桐生市川内町)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 伊賀屋敷は、雲祥寺の東側100mほどの辺りにあった。東側の小川に臨む微高地上である。

 現状では明確な遺構を見ることができないが、東側と北側は川に浸食された天然の切岸となっており、台地続きの西側は切り通しの通路となっている。また、南側の街道の通っている部分も切り通し状になっている。こうして見てくると、城館的な地形であることは間違いない。これらに囲まれた部分に、屋敷が営まれていたものと思われる。

 城内には稲荷神社が祭られているが、これは屋敷の鎮守として祭られたものであろうか。


 伊賀屋敷の館主は、林高成であったという。彼が伊賀守を名乗っていたため、伊賀屋敷と呼ばれるようになったものであろうか。
 













城内に祭られている稲荷神社。 東側の小川。深さ8mほどもあり、壁面も急峻である。




内膳屋敷(桐生市菱町)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 内膳屋敷は、菱町郵便局の北側一帯にあった。2本の河川に囲まれた微高地上にある。

 屋敷内部はびっしりと宅地が建て込んでいるために、明確な遺構と思われるものは存在していないのだが、南北の河川が天然の堀となっているので、東西の入り口を区画してしまえば、街道を取り込んだ城館が成立するような場所である。

 東西のラインは全く分からないのだが、地形からすると、右の図のような位置にあったのではないかと思われる。


 内膳屋敷の館主は、細川内膳という人物であったという。










北側を流れる小川。天然の堀であったと思われる。




因幡屋敷(桐生市中町)

*図の作成に際しては、『関東地方の中世城館跡』(東洋書林)の山崎一氏の図を参考にした。

 因幡屋敷は、桐生川の西側の稲荷神社の辺りにあったという。稲荷神社は小さな神社なので地図で探すのは難しいが、隣接してすぐ南側に養泉寺という寺院があり、これを目印にしていけばよいであろう。

 因幡屋敷は川べりの土手を利用した三角形状の城館であったと思われる。城の西側、南側を通っている通路が、城郭のラインとして推定される場所であるが、遺構はない。ただし、南側の通路は若干の切り通し状を残しているので、旧状が堀であった可能性もあるだろう。

 山崎氏の図面を見ると、桐生川に沿った部分に土塁が描かれているので、この土塁を求めて土手の上を歩いてみたのだが、そのような土塁を見つけることはできなかった。もしかすると、堤防のことを土塁のように描いているのであろうか。


 因幡屋敷の館主は金谷因幡守であったという。














かつての城址にある稲荷神社。左手に駐車場もある。 桐生川の堤防。この左側が城内である。



































大竹屋旅館