群馬県川場村

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

川場館(大友館・川場村川場村谷地)

*ラフ図の作成に際しては『関東地方の中世城館』を参考にした。

 川場小学校の北側400mほどのところにある桂昌寺の周辺が川場館の跡であるという。

 山崎一氏の図面を見ると、1辺が100mほどの方形館であったように見える。西側には桜川が流れており、これが西方の防御を成していた。他の方向には堀や土塁があったと思われるが、現状では明確な遺構は存在していない。ただ、道路が若干切り通し状になっているのが、かつての堀の名残を思わせているくらいである。もっともそれがかつての堀のラインと一致しているものかどうか、確証はない。


 川場館は、大友刑部の居館であったという。『城郭体系』には「石塁が残る」とあるが、現在では失われてしまったようだ。
 
 南北朝時代の正平23年(1368)、大友刑部は、近くの桜河原で新田義宗と戦い、戦死したと言われる。

 また、『加沢記』には「川場合戦之事」という項目がある。永禄年間の真田氏との岩櫃城での合戦に敗れた吾妻勢が「川場館に集結した」といった内容のものであったが、それがここのことであろうか。

 ただ、吾妻勢の再結集の地としては、やや遠すぎる感があるのと、軍勢が再起するには、ちょっと館の規模が小さいのではないかという違和感を感じてしまうのであった。







西側の桜川沿いに見た、館跡の土手。




天神城(川場村天神)

*ラフ図の作成に際しては『関東地方の中世城館』を参考にした。

 天神城は沼田市秋塚町との境界に近い2本の川の合流点に築かれていた。

 城址のある地点は、2つの川が合流するあたりで、この川によって削られた部分は、高さ10m以上の断崖となっており、なかなかの要害地形である。城内はかなりの面積がある平坦地となっているのだが、北側のどこかを堀で区画すれば、たちどころに大城郭を形成できるという塩梅である。

 しかし、現在では、北側を区画する遺構は認められない。城内は一面の果樹園となっており、勝手に立ち入りもできない状態なのだが、航空写真を見てみても、現在では堀などは失われてしまっているようだ。したがって、城であったらしい雰囲気は、川に接する側面部の断崖の様子から感じ取ることしかできなくなってしまっている。ま、そこそこの要害地形である。


 天神城は、沼田顕泰の隠居城であったという。










溝又川と薄根川に臨む断崖を天然の城塁としていた。





































大竹屋旅館