群馬県伊勢崎市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト  城逢人   城郭図鑑

今村城(伊勢崎市稲荷町)

 今村城は、広瀬川の西側の河岸段丘を利用して築かれていた。といっても、周囲はほぼ平野部なので、構造は平城のものと言っていい。

 今村城は耕地整理によって遺構がほぼ湮滅状態にあるので、古い航空写真と山崎一氏の図を基にして想像図を描いてみた。しかし、古い航空写真でも形状を把握することはできなかったことからして、かなり早い時代に遺構は失われてしまったものと思われる。

 現地案内板の解説によると、かろうじて本丸の城塁がそれらしさを留めているだけであるという。確かに、本丸と思われる周辺は微高地となっており、低い切岸が見られる。ただし山崎氏の図面には「現在の塁線」とあるので、これにしても本来のものではなかった可能性がある。本丸は地形なりに形成されたのであろうか、方形ではなく、北東辺が短い台形の曲輪となっていた。

 複郭の構造に加えて、宿も営まれていたことから、今村城は、かなり長期間にわたって城郭として使用されていた城であったことが理解できる。


 今村城は那波(なわ)氏の居城である。那波氏は、上野の古い氏族で、藤原秀郷の子孫が上野那波郡に入部して那波氏を名乗るようになったという。鎌倉時代の那波氏は、守護安達氏の配下として、この地域で勢力を扶植した。

 15世紀中ごろ、当時山内上杉氏に所属していた那波宗俊は那波城や今村城を築いて、由良氏と対立した。永禄3年(1560)、上杉政虎が関東に進出してくると、北条方に属していた那波城は攻撃されて落城した。その際、那波宗俊の長男宗安は、浪人して武田氏に仕え、次男顕宗は上杉氏の人質となった。

 後に顕宗は、上杉家臣北条広の妹を妻とした。その後、由良氏が北条氏に属した際に、由良氏と対抗させるため、那波顕宗は那波領に復権することとなった。顕宗は今村城をその拠点とした。
 
 その後も那波氏の世渡りはうまくいかない。天正6年の御楯の乱の際には、上杉景虎に味方して没落、その後は武田氏に属したが、天正10年、武田氏が滅亡してまたもや没落、その後は武田領を支配した滝川一益に属したが、3か月後の本能寺の変で織田家が旧武田領を放棄したため没落、そして次に北条氏に仕えたのはいいが、天正18年、北条氏が滅亡するとまたもや没落した。彼が仕えた勢力はなぜかみな、次々と没落していってしまうのである。もっとも、それだけ関東地方をめぐる情勢がめまぐるしいものであったと言うべきなのかもしれないが。

 小田原の役直後には、上杉景勝に仕えるようになった。ところが同年、出羽で発生した仙北一揆の討伐のために上杉氏と共に派遣され、顕宗はそこで討ち死にしてしまったという。そして嗣子なく断絶。

 那波顕宗・・・彼の人生とはいったい何だったのであろうか。時勢に常に翻弄され、そしてまた翻弄され続け最後は故郷から遠い出羽の地で最期を遂げてしまうという、何とも悲哀な人生なのであった。



今村城の本丸にある城址碑と案内板。 城址碑は昭和44年に設置されたもので、かなりの年代ものである。
本丸東側の城塁は段差となってかろうじて面影を残している。




伊勢崎陣屋(赤石城・伊勢崎市曲輪)

 伊勢崎市のその名も「曲輪」という一帯が伊勢崎陣屋の跡である。陣屋と述べたが、戦国時代には赤石城と呼ばれ、中世の時期から伊勢崎の集落を支配する拠点であった。広瀬川に臨む河岸段丘を利用して築かれた城郭であり、川方向からは要害地形にある。

 市街地の真っただ中にあるということもあり、現在、まともな遺構は残されていない。右の図は山崎一氏の図を基にして描いたものである。古い古写真を見ても、かつての形状を把握することはできなかった。そうとう早い時代に、開発が進んでしまったものだろう。市街地の中心近くであるから、仕方がないと言えばそれまでのことではある。

 陣屋とはいいながら、その実態は城郭というに足るものであった。名称は陣屋でも伊勢崎酒井氏は2万石の領主であったから、大名であり、城主格といってもいいくらいの所帯であった。

 内部の本丸を中心として、外郭の城塁は折れを伴いながら全域を囲饒している。本丸は方形ではなく、西側は弧を描くような曲線の城塁になっていた。本丸の虎口は北東と南西の角近くにあった。

 城全体の大手口は東側方向で、ここには馬出が見られる。この馬出しはちょっと変わった構造をしており、馬出の奥に「隠郭」という一角が設置されている。また、馬出の内部に斜めに進入するといった構造も、他では見られないものである(『城郭体系』には「曲尺馬出」とあるが、この用語は初めて耳にした)。この大手口に臨むように北側の城塁には櫓が設置されていたようである。

 外郭部は堀や土塁によって乾崎郭や学習堂のある部分など、複数に区画されていた。また、陣屋の東側には本町が、南側には西町があり、近世の陣屋らしく城下集落が形成されていた。


 伊勢崎陣屋のある位置にはもともとは赤石城と呼ばれる中世の城郭が存在していた。那波氏に所属していた赤石左衛門尉が、赤石城からこの地に移ってきて築いたのが赤石城である。かつての居城の名称に愛着を感じていたのであろう。新しい居城にも同じ名称を付けたわけである。

 その後の城を廻る情勢は複雑で、天文10年(1542)、山内上杉氏の命により、金山城の由良氏を攻撃するが、失敗。その後、那波氏が北条方に寝返ったために、一時的に孤立無援となって、近隣諸氏の攻撃を受けることとなる。

 永禄3年(1560)、上杉政虎が関東に遠征してくると、那波城・赤石城は共に落城し、宗俊は所領を奪われたのち死去した。赤石城には上杉家臣の荻田備後守が入部してくる。

 荻田氏が黒川谷・大胡の戦いで敗れると、今度は、由良氏側の林高成が城主となった。天正12年、金山城が北条氏によって攻撃されると、那波顕宗は、赤石城を攻撃、父の城であった赤石城を奪取した。だが顕宗は赤石城に復帰できず、北条氏の代官大和晴親がやってきて赤石城に在城した。

 天正18年、小田原の役で北条氏が没落すると、関東一円は徳川家康の所領となり、当地域は白井城主となった本多広孝にの支配下となった。慶長2年、稲垣長茂が大胡城から赤石城に転封。元和2年(1616)、稲垣氏が越後三条に転封となると、赤石城は廃城となった。

 近世に入って天和2年(1681)、前橋城主酒井重忠の子忠世が、伊勢崎2万石を分領し、当初は善養寺に陣屋を構えた。忠世の子忠寛の時代になって赤石城を改修して設置されたのが伊勢崎陣屋である。伊勢崎2万石の酒井氏はその後8代続いて明治維新を迎えることになる。

北西側の団地脇に見られる土塁状のもの。遺構なのかどうか、はっきりしない。 北側にある谷戸部はかつての堀跡だと思われる。
同聚院の山門は武家門といい、かつて城内にあったものを移築したものであるらしい。




茂呂城(伊勢崎市茂呂)

 広瀬川の断崖上に臨む退魔寺が茂呂城の本丸の跡である。したがって、城址に向かうにはこの寺院を目指すのがよい。寺院に駐車場もある。

 茂呂城も、現在ではその遺構の大部分を失ってしまっている。そこで、山崎一氏の図と古い航空写真を見て想像図を描いてみたが、どこまで旧状を再現できているのか、心もとないところである。

 退魔寺のあるところは、広瀬川が蛇行する部分に当たり、高さ8mほどの河岸段丘の上になっている。ここに連郭式に郭を配置した城郭であった。寺院の境内に入ると、土手の上に(土塁の跡?)に小さな城址標柱が立てられているのが目に入ってくる。これによってかろうじてここが城址であることが主張されている。これがなければ、誰も城址であることなど気が付かないのではないだろか。私だって、予備知識がなく訪れたら、ここが中世城郭の跡であったことなど、まったく気が付かないに違いない。

 本丸の東側から南側にかけて配置されているのが2郭、そして細長い馬出し状の郭を隔てて北側にあるのが3郭ということになる。そのさらに北側には北郭があるが、三ノ丸と北郭との間は、蛇川が流れ込んでおり、この部分は現在も城本来の形状を留めている。

 北郭の北西側には、馬出しが存在していたらしい。ということになれば、典型的な戦国期城郭と言っていいだろう。これらの連郭部分を囲むようにして総構えの堀が廻らされていた。堂々たる規模の城郭である。
 
 というのに、遺構の残存状況はとても心もとなく、ほぼ湮滅状態にあると言っていい。かろうじて残されているのは本丸北側の土塁と堀であるが、これすらもかなり埋まってしまっていて痕跡的になってしまっている。

 ちゃんと全域を歩き回ったわけではないが、それ以外の部分ではっきり分かる遺構はないのではないだろうか。本来はなかなかよさそうな戦国城郭だったはずなのだが、現在では非常に残念な状況になってしまっているのであった。

 
 茂呂城についての歴史の詳細は不明だが、戦国時代に那波氏によって築かれたのではないかと考えられる。その後、金山城主由良氏によって那波氏が攻撃されると、茂呂城も由良氏に支配され、由良配下の根岸三河が城主となった。由良氏が北条氏に属すと共に、茂呂城も北条方の城となっていたが、天正18年、小田原の役で北条氏が滅亡すると、茂呂城も廃城となった。














退魔寺の山門。 境内にひっそりと立てられた城址標柱。
広瀬川に臨む西側の城塁。 本丸北側の堀も、かなり埋まってしまっている。




那波(なわ)城(伊勢崎市堀口町)

 堀口町の昌雲寺とその北側の一帯が那波城の跡である。城址の大半は伊勢崎市立第2中学校の敷地となっており、大規模耕地整理も行われているようで、遺構は見事に湮滅している。そこで、山崎一氏の図と古い航空写真を見て想像図を描いてみたが、どこまで旧状を再現できているのか、心もとないところである。

 この「那波」という名称についてだが、「名波」「那波」「名和」などと、いろいろな漢字が当てられているが、いずれも読み方は「なわ」であり、名波郡のことを示している。

 図面を一見して感じるのは、「まるで都城だなあ」ということ。方形の堀を三重にめぐらせた長方形の城郭で、さらに中心部が北側にあることなど、ミニ平安京と言ってもいいような構造である。しっかりとした形式であるとも言えるが、反面、カクカクしすぎていて、城の構造としてはあまり面白味のない形式である。

 遺構は見られないが、城址碑は建てられている。今回、この城址碑を見はぐってしまったのだが、位置は伊勢崎市立名和幼稚園の南側の畑のこの辺りにあるらしい。

 2郭の南側辺りには水路があり、きれいな水が流れていたが、これがかつての堀の名残だったのではないだろうか。豊富な水量を利用して、水堀が廻らされていた城郭だったのであろう。このことは水利権の支配とも関係のあることである。


 那波城は、当地域を所領としていた那波氏の居城として築かれた。那波氏の転変については、今村城のページで述べている通りである。

 天正18年、那波氏が那波城から追い出された後、那波城には北条配下の大和晴親が派遣されていた。さらに小田原の役の際には、竹中源三郎が那波城を守備していたが、小田原城の落城と共に那波城も開城した。

 その後、徳川家康の関東入部に伴い、松平家乗が1万石で那波城に入部した。関ヶ原役後の慶長6年(1601)、松平氏が美濃岩村城に転封されると、那波城は廃城となった。








城内にある水路はかつての堀の名残だと思われる。 昌雲寺を北側から見たところ。寺院の周囲にもかつては堀が廻らされていた。






























大竹屋旅館