群馬県藤岡市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人  城郭図鑑   城跡ほっつき歩き

高山館(高山社・藤岡市高山)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 世界遺産富岡製糸場の施設の一環であり、世界遺産ともなっている高山社が高山館の跡である。

 というわけで、地図に掲載されているのはもちろん、近くまで行けば案内表示も出ているので迷うことはない。駐車場は、高山社の南500mほどの所にあり、そこから橋を渡って三名川の対岸を歩き、高山社の手前でまた橋を渡ってくるという遊歩道が付けられているのだが、そこをまどろっこしく歩く余裕はなかったので、高山社の真下にあるトイレの駐車場に停めさせてもらった。

 世界遺産となっているために、富岡製糸場はいつ行っても賑わっているが、ここにはそうした賑わいはない。世界遺産の一角であるとはいえ、市街地からはかなり離れているせいか、休日というのに、私以外にここを訪れている観光客はいなかった。第一ここを、城址として訪れる人などまずいないであろう。ちなみに、富岡製糸場も、一般には知られていないが、富岡陣屋という城址であった。

 高山社の正面には石垣が見事に構築されている。しかし、これは城館に伴うものではないであろう。その上には見事な長屋門がある。しかし、これも城館とは無関係である。ちなみに2016年冬、この長屋門は解体修理の途中であり、その形状は見られなくなってしまっていた。

 内部に進入すると、高山社の建物がある。しかし、これも高山館とは無縁のものであろう・・・と書いてくると、城館に関連したものは何も残っていないということが分かる。高山社のある部分の段差がかろうじて城館の立地を示しているといった程度のものでしかない。


 高山館は、高山氏の居館であった。明治維新後の明治6年、高山氏の子孫である高山長五郎は、製糸技術の向上のために、自宅に養蚕教育機関を設置した。これが「養蚕改良高山社」である。その建物が現在も残っており、観光地となっているというわけである。国指定の史跡にもなっている。

 もっとも、国指定史跡と言っても、そこには「城館遺構であるから」という要素は微塵もなさそうである。





高山社の入口の石垣。2016年冬、長屋門は解体修理中であった。 高山社の建造物。若いガイドさんたちが手持無沙汰そうに座っている。




東平井砦(藤岡市東平井字城之内)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 東平井砦は、西尾変電所の南西200mほどの所にあったあ、現在は県道175号線によって真っ二つに分断されている。

 現状としては、道路の脇に土塁が1本残されているだけで、その形状はよく分からない。この土塁もだいぶ崩されているようで、外側の堀も埋められてしまっている。そんなわけで、遺構の残存状況はかなり不良である。

 それでも山崎氏の図や古い航空写真から右の図のような形状が想像される。その規模は60m×80mほどで、逆台形のような形状をしていたと思われる。

 県道の東側はすっかり耕地整理が行われてしまったようで、遺構は完全に破壊されてしまっているが、県道の西側は、現状でもなんとなくかつての城塁のラインを留めている。北側に一直線に窪んだラインは、堀の跡と一致していそうである。


 東平井砦の城主等、歴史については未詳であるが、平井城の出城の1つであったと言われている。






北側の堀跡らしき部分。 南西側にかろうじて残存する土塁。




飛石砦(藤岡市東平井字飛石、家寺西) 

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 飛石砦は、鮎川が東側にカーブする地点の東側の断崖上に築かれていた。

 川の断崖上に築かれているので、西側からの防御は完全である。後は北、東、南を堀で区画すれば、城館が成立する。

 というわけで、60m四方ほどの城館が存在していたと思われるのだが、現在は運送会社の敷地となっているため、遺構のほとんどは破壊されてしまっているようである。

 ただ、北西側の一角に、ほんのわずかであるが、奇跡的に堀跡が残されている。ピンポイントの残存状況でしかないが、それでも、これのおかげで完全湮滅は免れているというわけである。

 この堀跡、ほんの一部なので、車で通っているとついつい見過ごしてしまいそうであるが、現在は、すぐ脇に交通安全の人形が立てられているので、それを目印にすれば見落とすことはない。それにしてもこの人形、顔がちょっと不気味すぎる。この人形を見て脇見運転をしてしまったら、それこそ安全運転とは逆の効果を生み出しかねない。


 飛石砦の城主等、歴史については未詳であるが、平井城の出城の1つであったと言われている。











北西角にわずかに残る堀の跡。場所が分かりにくいが、写真の交通安全人形(不気味!)が目印になる。 鮎川越しに城址方向を見たところ。鮎川が西側の防衛線となっていた。




常岡城(藤岡市神田字城の腰)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 本郷の寺山池の北西にそびえる比高15mほどの台地先端部に常岡城は築かれている。

 地図を見てみると、城内にアクセスできそうな道はいくつも付けられているが、いずれも入り口が分かりにくい。当初、北側からアクセスしようとしたのだが、途中でヤブになって自分を見失ってしまう始末。そこで、比高15m程度であるから、寺山池方面からアクセスするのが確実だと思い、南側方向から直登を試みることにした。
 
 
ちょうど寺山池の所で改良工事が行われていたので、現地で作業をしている人たちに常岡城の登り口にきいて尋ねてみた。しかし、その結果は、当たり前というか、「常岡城なんてないよ、平井城の間違いじゃね?」と言われてしまう。まあ、予想通りの答えであり期待もしていなかったので、これはこれで構わない。工事の人に尋ねたのには、作業員の皆さんに怪しい人物だと思われないためのことであるから、情報を得られなくてもどうということもないのである。

 「ちょっと山に登ってみてもいいですか?」と尋ねると、みなさんは背後のヤブを見て驚きながら「何もないと思うけど、行ってみてください」と答える。待ってました!

 それにしても、比高15mほどと、たいした高さではないのに、麓からのヤブのひどいことよ。どこから登っても、笹薮の海を潜って行かなければならない。それに意外と急斜面で、笹薮に掴まり、足を滑らせながらよじ登って行く。   

 するとすぐに南側の腰曲輪の所に出た。正面には1郭の城塁も見えている。なかなかいい感じである。その脇に竪堀状の切り通しがあったので、そこから郭内に進入する。この切り通しは竪堀にしては規模が小さく、登城用の通路であった可能性がある(後世にものかもしれないが)。

 こうして1郭内部に入ってはみたものの、全面が笹薮となっており、見通しが悪いことはなはだしい。それでも遺構を求めて東側に移動していくと、城塁沿いに土塁が見えてきた。予想とは異なり、なかなかしっかりとしたものである。土塁の下側には腰曲輪が見えている。

 
そこからは土塁の上を北側に歩いていくことにした。塁上には途中幅広の所があり、もしかしたら櫓台として利用されていた箇所もあったのかもしれない。土塁は途中で左側に大きく曲がっており、その先は北側の虎口に続いていく。その辺りでは土塁の高さも2mほどあり、かなりきちんとと構築されたものであることが分かる。

 
虎口を出ると、そこから先は道が付けられていた。つまり、山麓のどこからか道を登って行けば、この虎口の所まで山道を通ってアクセスすることができるというわけである。そうすればヤブをくぐることなく北側の虎口まで到達できる。といっても、内部に入ってみれば、笹薮漕ぎになるのは結局変わりはないのだが。

 その道は航空写真でも確認することができるが、登り口については今回は確認していない。

 このように笹薮がひどくて全体の形状を把握しにくい常岡城であるが、遺構は比較的しっかりとしたものである。笹ヤブを薙ぎ払ってしまえば、なかなかいいお城であると思う。

南側から遠望する常岡城。比高15mほどの低い山である。 南側の城塁と腰曲輪。
東側の土塁。高さ1.5mほどもあり、櫓台状に幅広になっている個所もある。 北側の虎口。この手前まで道が付けられている。
 常岡城の歴史についてはよく分からない。『城郭体系』には「有田定基の城というが疑問」とある。有田氏がどんな人物であったのかもわからない。

 なお、常岡は「藤岡」の古名であったというから、古い時代には、ここが藤岡の中心であった時期もあったのかもしれない。




大神宮山城(藤岡市藤岡大神宮)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 国道254号線と県道13号線とが合流する地点の南西側にある比高20mほどの大神宮山が大神宮山城の跡である。交通の要衝に構えられた城館であった。

 城址には神明社が祭られているので、これを目印にしていけばよい。北西側には神社入口を示す鳥居と石段とがあるので、ここから登って行くのが分かりやすいと思う。と言っても駐車場はないので、車は離れたところの路肩に停めさせていただく。

 石段を登って行くと、山頂の少し手前で、ちょっとした段差が見られた。この脇が帯曲輪になっているようであるが、それほど明瞭なものではなかった。

 上がった所が神明社の敷地である。神社の周辺や北側の先端近くはしっかりと削平されているが、東南側の部分は自然傾斜の斜面のままになっていた。加工度は低いといった印象である。

 1郭の先端下には、かなり広い2郭が配置されている。

 ざっと見た印象はこれだけである。地形的には城郭を置くのにふさわしいところであるが、加工度はいまいちであり、急造された城館のような印象を受ける。

 さて、城の南西側には堀による区画が見られるらしいのであるが、その辺りは笹ヤブがものすごい。虎口近くに摩利支天も祭られているらしいので、どこかに入口があると思われるのだが、どこだかよく分からない。そういうわけで、今回はこの堀切を確認することはできなかったが、かなり痕跡的になっているという情報もある。

 すでに述べているように、大神宮山は、加工度が低い城館である。臨時に取り立てられた城郭だった可能性が高いと思われる。


 大神宮山城の城主等、歴史については未詳であるが、平井城の出城の1つであったと言われている。

北側から見た大神宮山。正面奥に鳥居が見えている。 北側の参道。この両脇が帯曲輪なのだが、あまり明瞭ではない。
1郭の先端部分。一段下にも平場が造成されている。 神明社。すぐ脇に民家が建ち、その敷地のような雰囲気になっている。
 




落合城(藤岡市上落合字城山)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 落合城は、鮎川の西側の河岸段丘上にあり、県道174号線と173号線とが合流する地点を抑えるような位置にある。北側の土手はいかにも城館を思わせるものである。

 というわけで、県道の路肩の空き地に車を停めて、その辺りの道から台地上に登って行く。先の土手だけでは、ここが城館かどうか確信が持てなかったのであるが、上がってみると、先の土手の内側には土塁が盛られていた。ということで、ここが落合城の跡で間違いないということに確信が持てたのであった。

 上は数軒の宅地と畑とになっている。そして、耕作化によってかなり改変されてしまっているようである。そこで、畑の中を進んで行ったところ、東側に虎口状の切り通しがあった。堀とするには幅が狭く、一見して虎口と思われるものであるが、あるいは半ば埋められた堀の跡かもしれない。

 そこで山崎氏の図と照らし合わせてみると、どうもこれは堀の跡であるようだ。山崎氏の図面には虎口と土橋も描かれているのであるが、それはすでに破壊されてしまったようである。

 1960年代の航空写真を見ると、この南側の虎口も何となく看取できる。またその南側に、もう1郭あるようにも見えるのであるが、これは遺構なのであろうか。

 この南北の区画からすると、もともとは60m四方ほどの城館であったと考えられる。

 『城郭体系』には「南の一方に虎口がある」とあるので、南側の虎口は昭和50年頃までは存在していたと考えられるが、その後の耕地整理で破壊されてしまったものと見られる。


 落合城の城主等、歴史については未詳であるが、平井城の出城の1つであったと言われている。



北側の城塁。堀は埋められてしまっている。 北西側の石碑が立っている部分の土手。張り出し状になっている。
東側にある虎口状の部分。これがかつての南側の堀跡であるらしい。 北側城塁に見られる土塁。




岡の砦(藤岡市上落合字岡)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 岡の砦は、伊勢塚古墳の北東100mほどの所にあったという。北側の低地に望む微高地であったと思われる。

 しかし、宅地化と耕地整理によって、遺構のほとんどは破壊されてしまったようだ。それでも現在の航空写真からでも、その形状はなんとなく理解することができる。また、1960年代の航空写真を見てみると、右の図のようなラインが確認できる。それによると、西の城塁は南側が張り出すような形状であったように思われる。

 『城郭体系』には、「100m×70m。土居および大型切石積みの虎口がある。」とある。土居はともかく、大型石積みの虎口というのはなかなかのものである。しかも、それだけのものなら、まだ残っているのではないだろうか。

 しかし、虎口跡と思われる辺りは民家の敷地になっていて、残存しているのかどうか、確認することはできなかった。航空写真を見ると、怪しい個所もあるのだが、はっきりとは分からないのであった。



 岡の砦の城主等、歴史については未詳であるが、平井城の出城の1つであったと想定することができる。





北側の城塁跡。

































大竹屋旅館