群馬県藤岡市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林)

*参考サイト 城逢人  城郭図鑑   城跡ほっつき歩き

藤岡城(藤岡市藤岡)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 県道23号線沿いにある藤岡第一小学校が藤岡城の跡である。

 周囲は宅地化が進んでおり、また、小学校の敷地となっているため、遺構の多くは失われてしまっているが、北側に大きな土塁だけがぞの名残を留めている。

 1960年頃の航空写真を見ると、周囲の堀はかろうじて残っていたようだが、土塁は北側以外ではすでに失われており、南側にあったと思われる馬出もすっかり破壊されてしまっている。かなり早い時期から破壊が進んでいたようである。規模は150m四方ほどであった。

 残存土塁を見るには、藤岡小学校の北側の入口から入るのが一番分かりやすい。ここからだと、土塁の外側と内側の様子を見ることができる。高さ6m、下端幅は10mほどもある実に重厚な土塁である。土塁の小学校側には植物が植えられ「城址緑地」となっている。

 土塁の外側にはかなり幅広の堀があったはずだが、現在では埋められてしまっている。

 さて、この土塁の東端から50mほど離れたところに、神社のある土壇がある。航空写真を見てみると、小学校の土塁と、この神社のある土壇とは一直線上に並んでいることが分かる。つまり、これらはもともと1本の土塁としてつながっており、城の東端は、神社のある土壇の位置であったらしいことが分かる。となると、東西の城塁ラインは150mほどの規模であったということになる。

 土塁の北西側と北東側が幅広になっており、櫓台となっていた。現在神社が祭られているのは、この北東側の櫓台の上である。

 遺構としてはこれだけであるが、土塁1本だけと言っても、重厚で非常に見ごたえのあるものである。


 藤岡城は、天正18年に、芦田(依田)康寛によって築かれた。芦田氏は徳川家康の家臣であり、小田原駅後の関東転封に伴ってこの地に来たものである。芦田氏の所領は3万石であったと言われている。

 慶長5年春、芦田康寛は囲碁をめぐるトラブルから、小栗三助を刺し殺すという事件を起こした。これによって芦田氏は改易となり、藤岡城も廃城となってしまった。築城からわずか10年で廃城となってしまったのであった。

東側の道路沿いにある神社の土手も、土塁の名残で、城域の東端を示している。 城内側から見た北側の残存土塁。
外側から見た土塁。重厚で立派なものだ。




鮎川城(上屋敷・藤岡市鮎川字下の段、元屋敷)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 鮎川城は、藤岡市立西中学校の西側一帯にあった。

 山崎一氏の図によれば、中心となっている50m四方ほどの方形の区画の周囲に、外郭部のラインも描かれている。しかし、内郭も外郭も、現状ではよく分からなくなってしまっている。

 現地に訪れると、現地の民家の方がいらっしゃったので、鮎川城のことを伺ってみた。それによると、このお宅の敷地内にある古墳の辺りが鮎川城の跡と言われているとのことであった。

 この古墳はかつて櫓台として利用されていたようで、この古墳を北西の角にして、方形に堀が廻らされていたらしい。この堀の名残は、西側の一部で見ることができるのだが、かなり痕跡的になってしまっており、言われないと堀跡だとはとても気が付かないであろう。

 主郭部分のすぐ東側には城塁状の土手があり、当初、そこが館の跡かと思ったのであるが、そうではなく、城の中心部は東側の高台から一段低い場所にあったという。東側からは見降ろされるような位置にあるというのがちょっと不思議だ。城の字名の「下の段」というのは、まさにそのことを示しているのであろう。

 また、南側の民家の敷地内には古い井戸の跡があるとも教えていただき、案内もしていただいたのだが、結局、井戸の位置を確認することはできなかった。さらに畑の中からはたくさんの石が発掘されるという。中にはちょっとよさげな石もあり、あるいは鮎川城の庭に使用されていたものであろうか。

 この方とお話しているうちに、その方は「前に、山崎さんという人が調査に来た」とおっしゃる。「山崎一さんですか?」と伺うと、「そうだよ」とのこと。その際は上毛新聞の取材で、その後、鮎川城のことが上毛新聞に掲載されたのだという。おそらく、昔、上毛新聞に群馬の古城についての連載がされており、その取材で、山崎氏が訪れたのであろう。その集大成が『群馬県古城塁史の研究』となったのではないだろうか。

 山崎氏の名前を聞いて、なんだか心が弾んでしまった。もちろん山崎氏とはまったく面識はないのであるが、日ごろ山崎氏の図面のお世話になっているので、なんだか他人のような気がしないのである。山崎氏が訪れたのが何十年前のことだか知らないが、山崎氏とちょっとつながったような気分になってとてもうれしくなってしまったのであった。そんなわけで、私にとって鮎川城は、ちょっとした思い出の城址となったのであった。

城の北西側にあった古墳。 西側の堀跡。左側の土塁から続いている。
 鮎川城は、小林氏の城館であったという。




白石砦(藤岡市白石字新堀)

 白石城はこの辺りにあった。 稲荷山古墳のすぐ南西側である。白石城は1960年代の耕地整理によって完全湮滅してしまった。現在は一面の畑が広がっているばかり、城があったというような面影はない。

 しかし、古い航空写真を見てみると、その形状を理解することができる。そこで、航空写真から見た形状と、山崎一氏の図を基に描いてみた想像図が右のものである。

 1辺が75mほどの方形の城館で、周囲に堀をめぐらせ、一部は二重土塁になっていたようである。


 白石砦の歴史等、詳細は未詳であるが、平井城の出城の1つであったかと推定されている。


















 




森中城(中城・藤岡市中字東黒田、大林)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 光明寺の北側一帯が森中城の跡であったという。航空写真を見てみると、何となく城郭らしい形状の畑が見えている。

 というわけで、光明寺を訪れてみる。光明寺の北側一帯には上記の畑が展開しているが、その畑との間に城郭状の区画は認められない。一見して、遺構は湮滅してしまっているように見える。

 しかし、北側に竹ヤブが見えている。思わず城郭センサーがピーンとくるようなヤブである。というわけで、その竹ヤブに接近してみると、そこには北側の堀と土塁の一部が残存していた。おそらくこれが唯一の現存遺構なのではないかと思われる。

 森中城は、現状では方60mほどの単郭の城館だったように見える。「中城」というくらいだから、東城、西城らの城館群の中心をなす城館だったのだと考えられる。

 『城郭体系』によれば、250m×170mの規模であったというから、光明寺も含め、かつては周辺に外郭部が存在していたのかもしれない。


 森中城は、小野沢氏・小野里氏の居館であったという。







北西側にかろうじて残る堀と土塁の跡。




森東城(藤岡市森字北口、四ツ谷)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 森東城は、県道23号線沿いの飯玉神社の南西100mほどの所にあり、航空写真を見ると、堀の形状がはっきりと見えている。城内は建設技術研究所の敷地となっている。

 市街地の中なので、まったく期待していなかったのであるが、現地を訪れてみると、西側の堀と土塁がしっかりと残されているので驚いた。よくぞまあ、これだけ残ってくれていたものである。

 西側の中央付近には土橋と虎口状の切れがある。ただ、虎口としては小さく、後世に付けられたものである可能性もある。

 現状では、堀幅も深さもあまりなく、土塁も低くなっている。おそらくは土塁の一部を崩して堀を埋めてしまっているのだと思われる。


 森東城は、小林氏の城館であった。また一時期は針谷氏が居館としていたとも言う。













西側の堀と土塁。 堀の南西側角の状況。




森西城(藤岡市中字西)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 藤岡市中の泡輪神社の南西側の一帯に森西城があったという。

 現状は民家となっているようだが、城の本来の規模は70m×50mであったというから、この民家の敷地一帯が城址であったらしい。というわけで、近くに車を停めて歩いてみる。

 しかし、ほとんど破壊されてしまっているようで、明瞭な遺構は見られない。一番怪しいのが北側の竹ヤブ辺りで、ここには遺構が残存していても不思議ではない雰囲気がある。

 というわけで、ヤブの中に突入しようとしたのだが、あまりの倒竹のひどさにあきらめてしまった。ざっと覗き込んではみたのだが、土塁や堀を見ることはできなかった。だが、北側のライン上に位置していることは間違いなく、ちゃんと見れば、なにがしかの遺構が存在している可能性はあるのではないかと思われる。


 森西城は、小林氏の城館であったという。







北側の堀跡らしき部分。ヤブの中が怪しいのだが、よく分からなかった。




中大塚城(駒形砦・藤岡市中大塚)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 中大塚の千手寺に隣接する南西側が中大塚城の跡である。

 というわけで、千手寺を目指していくことに。南側から千手寺方向に向かっていくと、すぐに正面に土塁が見えてきた。さらに中央の虎口の部分には城門のようなものまで。思った以上に遺構が残っているのにびっくりである。

 近づいてみると、それは南側の堀であった。虎口の土橋から東側の部分は、表面に石積みがされていて、そのため形状がしっかりと残っている。深さ3mほどもあるしっかりとした堀で、内側には高い土塁もある。

 土橋の先には城門が見えている。古くなってしまったためか、手入れもされておらず壊れかけているが、それでも城門というのにふさわしい構造物である。往時の城門も、このようなものだったのだと思われる。残存遺構ということはないであろうが・・・・・。

 一方、土橋から西側は石垣加工されておらず、半ば崩れかけてはいるが、その形状は明瞭である。

 さらに西側の道路に回り込んでみると、堀の外側の部分が土塁となって盛り上がっている。それを乗り越えてみると、内部には堀がしっかりと残っており、その先には土塁がそびえている。

 西側の堀は北端部で東側に回り込んでおり、こちらも残存している。しかし、北側の堀は、半分は埋められてしまっており、浅くなった堀と崩された土塁とが混交している。

 千手寺と面する東側の堀は完全に埋められてしまったようで、こちら側は痕跡も認められなくなってしまっている。

 城の規模は60m四方ほどであり、内部は一軒のお宅の敷地内となっている。千手寺の側から見ると、土塁の内側も石垣加工されているのが分かる。この石垣はいつ頃構築されたものであろうか。戦国時代の遺構とは思われないので、後世の改変なのだろうと思う。ただし『城郭体系』には残存遺構に「堀、土居、石垣」としているので、この石垣を遺構と見ているようである。

 さて、山崎氏の図面を見ると、千手寺の東側の先にも外郭堀のようなものが描かれている。そちらも残存しているのかと思って訪れてみた。竹藪の先には低めの土手が見られたが、城郭遺構と分かるものは存在していなかった。というわけで、外郭部が存在していたのかどうかは不明であるが、『城郭体系』は「200m四方」の規模としており、外郭部の存在を示している。

南側堀。中央の土橋から東側を見たところ。壁面は石垣加工されている。 南側堀の南西角の部分と土塁。
中央土橋を見たところ。壊れかけの城門がある。 千手寺東側の竹林の先にある土手状地形。
西側の堀。 北側の堀。
 中大塚城は、小林重義によって築かれた城館であったという。




下大塚城(藤岡市下大塚)

 下大塚の集会所の南側が下大塚城の跡である。

 南側から下大塚集会所を目指していくと、道路の右手に堀跡がしっかりと見えてくるので、すぐに城址の場所は分かる。幅3m、深さ1mほどの堀である。

 堀は南側と北側で、それぞれ東側に回り込んでいるが、東側に延びてすぐに埋められてしまっている。しかし、西側の堀の規模から想像するに、80m四方ほどの城館だったのではないかと想像できる。

 南西の角付近には、塁線に沿って石積みが認められるが。これは遺構ではなく、後世の改変であると思われる。

 北端にのみ、土塁が認められる。しかし、本来は土塁は全周していたのではないかと思われる。現状では堀はとても浅いものになってしまっているが、土塁を崩して埋めたのであろう。

 北側、南側、東側も、堀が残っていないか探してみたのだが、残念ながら、宅地化によって埋められてしまったようだ。東側はなんとなくそのラインを想定することはできるが、遺構としては湮滅状態であった。


 下大塚城の城主等は未詳であるが、中大塚城の小林氏に関連した一族の城館だったのではないかと想像される。









西側堀の南西端。 北西端にわずかに残る土塁。
北側から堀跡を見たところ。




上大塚城(藤岡市上大塚字城)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 上大塚城は、水神団地の東南100mほどの所にあった。その名も「城」という地名の所である。遺構はほぼ湮滅してしまっているようだが、現在の航空写真からでも、館の形状はなんとなく見て取ることができる。

 現状では宅地と畑になってしまっているので、遺構は湮滅してしまったようだ。と思ったのだが、帰宅してから航空写真をよくよく観察してみると、東北側の一部のラインは残存しているように見える。東側は宅地が建て込んでいて、遺構がありそうな部分は、その裏側に当たるので、確認することができなかったのである。

 1960年代の航空写真を見てみると、城館のラインを知ることができる。それによれば、右の図のような50m×60mほどの単郭の城館で、東側に虎口があったようである。

 現状でも、城館のかつての敷地はそのまま畑となっているようであるが、堀や土塁はほとんど埋められてしまっているようである。



 上大塚城の城主等、歴史については未詳であるが、平井城の出城の1つであったと言われている。









篠塚城(藤岡市篠塚)

 篠塚の光源院の境内が、篠塚城の跡であるという。

 光源院の西側には土塁のように見える低い土壇が見られる。これが遺構なのであろうか。また、北側は北東側には土手状の段差があり、これが城館のラインを示しているようにも見える。

 しかし、これだけである。城館跡と言われれば、そういう雰囲気がなきにしもあらずであるが、あまり明瞭なものではない。


 篠塚城は、『太平記』に登場する篠塚伊賀守の居城であったという説がある。しかし、それは邑楽町の篠塚城のことであると思う。したがって、ここを篠塚伊賀守の居館とするには違和感があるが、もしかしたら、何らかの関連性があるのかもしれない。











西側の土塁と光源院。




動堂(ゆるぎどう)城(藤岡市本動堂字前屋敷)

*図の作成に際しては、山崎一氏の図を参考にした。

 本動堂の小峰神社の東側一帯が、動堂城の跡であるという。

 というわけで、城市周辺を探ってみたのだが、明確に遺構と思われるようなものを見つけることはできなかった。少なくとも道路のラインは城址とは一致していないようで、実際の城のラインは、宅地の奥にあったようである。

 宅地の中に段差があるのが遠目に見えたりするのだが、これが城と関連があるものなのかどうかは不明である。動堂城に関しては、古い航空写真を見てみても、その形状を把握することはできなかった。どんなわけで右の図は、山崎氏の図面を基にした想像図である。単純な方形館ではなく、南西側が屈曲するような形状をしている所が変わっている。


 動堂城は、芦田氏の家臣であった依田呂郷の居館であったという。芦田氏は藤岡城の城主であり、天正18年に当地に入部している。同時に藤岡城の支城の1つとして築かれたのであろう。

 ところで、「動堂」とは珍しい地名であるが(知らないとまず「ゆるぎどう」とは読めないであろう)。これはかつての観音堂にちなむ伝説から来ているのだという。

 昔、日照りが続き、人々が困窮していた。そこで人々は観音堂にお祈りをした。すると観音堂がゆらゆらと動き始め(ゆるき出したわけだ)、やがて恵みの雨が降り出したという。それ以来、この地を「動堂」と呼ぶようになった、という伝説が残っている。面白い由来の地名もあったものだ。





民家の敷地内部にある段差を望遠で撮影したところ。もしかして城塁の名残かもしれないが、よく分からない。




吉良陣屋(藤岡市白石)

 吉良陣屋の跡は、飯玉神社の北西100mほどの所にあった。

 吉良上野介と言えば忠臣蔵で有名であるが、同時に三河出身で塩造りに精を出していたことでも知られている。そんな吉良氏の領地が群馬にもあったとは意外であった。

 現地案内板によると、吉良家は慶安3年(1650)から元禄16年(1703)まで、上野白石で712石を領していたのだという。そのためここに采地のための陣屋を置いていた。

 伝承によると、吉良若狭守の正室が、伊香保温泉に行った帰り、この陣屋で産気づき、赤ちゃんを出産した。これがのちの吉良上野介義央である。その際に、産湯を組んだと言われている井戸が現在も残っている。

 この井戸は、毎月1度、赤く染まったことから「汚れ井戸」と呼ばれ、飲料には使用されなかったという。それでは何のための井戸かと突っ込みたくなるところであるが、現在も石組みの井戸がそのまま残っており、ここにも案内板がある。

 近世の陣屋の形状は、周辺の道路によって知りえる場合が多いのだが、ここは道路の形状からしても、陣屋の敷地を想像することができない。案内板のある個所の南西側が一段高い地形になっており、ちょっと怪しい気がするのだが、そうなると、井戸は敷地外になってしまう。

 おそらく単郭で100m四方ほどの規模であったのではないかと想像するのだが、その形状はまったく不明である、としか言いようがない。


陣屋跡に建てられている案内板。 吉良上野介産湯の井戸。



























大竹屋旅館