群馬県東吾妻町

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の山城と館』(宮坂武男)

*参考サイト  岩櫃城興亡史  土の城jへの衝動  儀一の城館旅

柳沢城(岩つづみの出城・東吾妻町原町観音山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『関東地方の中世城館』、『境目の山城と館』、岩櫃城興亡史を参考にした。

 柳沢城は、岩櫃城と北東側に向かい合う比高100mほどの観音山に築かれている。この山の南面は岩盤がむき出しとなっており、修験道のコースとなっているらしい。したがって、この城を訪れるには修験道のコースを登ることになり、ネットの登城記を見ても、ほとんど例外なく、このコースで登城していた。

 しかし、地形図を見てみると、北東側の耕作地帯から城の方向に向かって道がつけられているのが確認できる。となると、北東側からアクセスするルートがあるのではないだろうか。こちら側からなら、城までの比高は40mほどで、岩盤帯も通らなくてすみそうである。

 そもそも修験道の道が、本来の大手道であったとは思われないから、本来の大手は、台地続きの北東側にあった可能性もある。したがって、こちらのルートを確認すれば、これまで知られていなかった遺構が眠っている可能性もあるかもしれない。そう思って、北東側の台地からアクセスしてみることとした。ま、実際は楽をしたかっただけであるが。

 台地に上がっていくと道は細くなるが、一応舗装路であり、台地の奥の方まで続いている。城のある観音山はすぐそこに見えている。台地上の道をできるだけ進んで、空き地に車を停めて、後は歩いていくことにした。この日、天気予報がはずれて雨が降り出しそうになってきた。この天気では、どっちみち修験道のコースを通ることは不可能であったろう。

 牛小屋の辺りから、城址方向へ向かって道が延びているのが分かった。これが城の方向に行く道かもしれないと思い、それを進んでいく。歩き始めてすぐに、けっこうヤブ化している所を通るので、前途多難な気分になってしまう。しかし、ヤブ化しているのは最初だけで、あとは普通の山道になっていった。ほっと一安心。

 そうしてこの道に入って5分もしないうちに、すぐ正面に城塁が見えてきた。そこまでの途中で道は2つに分岐する。下方に向かう道と上方に向かう道である。まっすぐにも行けるが、こちらはすぐに行き止まりになってしまう。もっとも、行きはどれが登城道なのか分からなかったので、まっすぐ進んで、そのまま側面部の竪堀を登って行った。すると4郭と5郭との間の堀切に出たのであった。

 本来の登城道は、上方に向かう道であったと思われる。この道は横堀風の形状を成しており、一列縦隊でしか進めないようになっている。さらにその上で2度急カーブさせるなど、大軍の急速な移動を阻止するかのような構えになっている。また、この通路と隣り合う部分には何段かの平場が造成されていた。一面が杉並木になっているので、植林のための改変の可能性もあるが、城の段郭と見てもよさそうに思われる部分である。

 図面によっては、この段郭のさらに下にも何段もの郭を描いているものもあるようだが、今回はそこまで確認していない。

 登城道は山の斜面に沿って進んでいく。城に近づくと、城内からは丸見えの位置にあり、側面攻撃をすることができるようになっている。さらに道は切通しとなって、先に進んでいく。

 この北側の切通しのところから城内に入っていく。この辺りは自然地形のままで笹藪が茂っているが、すぐに浅い堀切が見えてくる。これを越えると5郭の堀切となる。この堀切は箱堀形状で幅がけっこうある。北側は竪堀となっているが、南側は段郭が連続するような構造である。この堀切から南側がいよいよ城内である。

 5郭は、20m×40mほどの郭であるが、一面の平場構造ではなく南側に一段高い部分が存在する。もとが傾斜地形であったために削平の際に2段構造となってしまったのであろう。その先が4郭との間の堀切である。

 ここから先、堀切は3本あるのだが、いずれも規模が大きく見事なものである。山上の平場を堀切によって連郭式に分断するというのが柳沢城の基本構造である。地形的な制約があるのか、この地域で、台地を分断するような大規模な堀切が設置されている城郭というのはけっこう少ない。そういう意味では柳沢城は独特の形状をしているともいえる。

 堀切の先が4郭である。4郭も傾斜地形の削平のため、2段の構造となっている。このうち、上の段には両端に土塁が設置されている。また、南北の斜面は、もとは傾斜が緩やかだったようで、それぞれに切岸加工を施したため、腰曲輪が生じている。腰曲輪の規模は意外に大きく、造成の際にかなりの土木量があったことを想像させる。堀切の大きさと言い、柳沢城はかなりの人員を動員して造られた城郭である。

 次の堀切を進んだ先が3郭。3郭は北側に土塁をコの字型に配置している。この土塁は削り残しによるもので、削平の際に生じたものであると思われるが、結果として北側に対する防御を厚くしている。

 その次の堀切が城内最大のもので、竪堀も大きく両端に落ちている。傾斜が急なので、昇り降りするのも大変である。

 堀切を越えていくとその先に平場があり、そこが2郭となる。正面には小山が聳え立って見えているが、そちらが観音山の山頂となる。山頂部分を1郭としておいたが、山頂部分にはまとまった広さの郭はなく、物見として用いられていた程度のものだったと思う。もっとも、岩盤上の場所であるので、南側の平地部への眺望はとてもよい。この真下辺りの岩盤が「岩つづみ」と呼ばれている個所であろうと推測する。また岩櫃城の山容もすぐそこに見えている。

 柳沢城は、屹立する山頂部をピークとして、北側の平坦地形に大工事を施し、複数の曲輪と堀切を配置した城郭である。岩櫃城の支城といいながらも、その規模はけっこう大きく、かなりの労力を用いて築かれた城郭である。堀切の大きさはこの地域では随一といってもよく、見ごたえのある城郭であった。

『加沢記』に岩櫃城周辺の「岩つつみの出城」というのが出てくるが、これが柳沢城のことだったのではないかと思われる。

北東側の台地から見た柳沢城。ここからの比高は40mほどである。 城の手前にあった段々の削平地。
北側の側面部下に出たので、城塁をどんどんよじ登っていったら、4郭北側の堀切のところに出た。 4郭内部。2段構造となっている。その先には3郭との間の堀切が見えている。
3郭との間の堀切。鋭く深い。 その堀切を別角度から見てみた。
3郭内部。土塁がコの字型に廻らされている。 2郭との間の堀切。どの堀切も大規模だが、これがまた、一番でかい。この規模には圧倒される。
2郭。その上の小山が1郭である。 1郭から2郭と、その先の堀切を見下ろした所。
1郭には石塔や祠がいくつも置かれている。なるほど修験の山だと言うことか。 1郭からの眺望はとてもよい。
1郭周辺は、郭というよりは自然の傾斜地に近い。 3郭と4郭との間の堀切に戻ってきた。堀底は下の削平地に続いている。
5郭外側の堀切。ここは箱堀である。 北西側の山稜部との間にある切り通しの通路。
その通路は東側方向に進むと、三日月堀状の形状を見せる。 さらに下に向かって一直線の横堀となっている。側面部下に小川がある。




高野平(こうやひら)城(四阿山城・東吾妻町原町字城の平・中之条町山田)

*鳥瞰図の作成に際しては、『関東地方の中世城館』、『境目の山城と館』、儀一の城館旅を参考にした。

 高野平城は、薬師岳から派生した比高300m以上ある山稜のピーク部に築かれていて(標高は737mである!)平野部からもよく見える山である。比高がかなりあるため、登るのには相当の労力が必要となる。

 と思っていたのだが、航空写真を見てみると、城の真下近くを林道が通っている。それも航空写真で見ても舗装されたちゃんとした道路である。この林道は地形図などを見ても現時点では(2015年)描かれていないので、まだ開削されて、そんなに時間がたっていないのかもしれない。いずれにせよ、この林道からアクセスすれば、比高100mほどの登山で、城内に到達できそうである。

 ということで林道を探す。この林道は岩櫃城側と北側吾妻神社側とから付けられているのだが、高野平城だけを訪れるのなら、北側の吾妻神社側からアクセスしていった方が近い。

 この林道を進んでいくとすぐに、道路脇に山田城の案内板が設置されているのが目に入ってきた。山田城は高野平城のある尾根のかなり下部に位置しており、この位置関係からすると、高野平城は山田城の詰めの城であった可能性があると思われる。

 山田城の前をさらに過ぎて城山の方に向かっていくと、途中で道が2つに分かれるところに出る。1本は上に登っていくやや細い道で、もう1本は降っていくいい道である。城山に行くのであるから当然上に進むべきであろう、と思い最初、上に登っていく道を進んでいったのだが、こちらは何かの作業所となって行き止まってしまっていた。2015年の地図に載っている道はここが終点となっているようである。

 実際は降っていくいい道の方がこの新しい林道に接続しているのであった。いったん降ってからまた登るようになっているのであるが、知らないと、城の方には行かず、そのまま降ってしまわないかと勘違いしかねない。ともあれ、本来のルートに戻って出発する。この林道は、意外によく整備されていて、普通の道路のように運転できる道なので、安心して進むことができる。

 山の側面部を走っているために、どこが城山なのかしだいに見えなくなってしまうのだが、登って降っていくピークになる部分がちょうど高野平城の真下に当たる。ちょうどその辺りの路肩に車を停められる余裕がある所があったので、そこに車を停めて山上を目指すことにする。

 城に向かっては特に山道というものはなく、ここからは直登しかない。最初はそんなに急な道ではないのだが、途中から次第に急になってくる。この日雨が降っていたため、傘を差しながらの直登であったのだが、これは足も滑るし、なかなかしんどかった。それでも悪戦苦闘すること20分ほどで1郭の真下に出た。

 後で城内を見てみると、東西の尾根先端方向が比較的傾斜が緩やかなようで、このいずれかの側から登ってくる方が、それほど苦労しないで済むであろうし、それが本来の登城道であったかと思われる。ただし、そのいずれも、今回は登り口の状況を確認していないので、ちゃんと通れるような状態になっているのかどうかは不明である。

 城は、尾根上を加工して平場を造成しただけの単純なものである。このうち最高所が1郭で、急崖となっている北側を除く3方向に土塁がある。土塁と言っても高さ50cmほどの申し訳程度のものにしか過ぎない。南側に一部土塁の欠けた部分があるので、ここが虎口のようにも思われるのだが、明瞭ではないため断定はしがたい。1郭は10m×20mほどの広さがある。

 1郭の東側下に2郭がある。堀切による区画はなく、1郭の城塁で区画されている。ただし、南側には竪堀状の部分がある。

 2郭を進むと浅い堀切が見えてくる。これも深さ1mほどの申し訳程度のものであるが、一応堀切には違いない。この堀切を見ても分かるように、高野平城は全体に加工度が低く、それほど念入りに作られた城郭ではないことが分かる。

 堀切の先が3郭である。しかし、ここから先は、削平がきちんとされておらず、だらだらとした地形になっている。それでも何段かに切岸加工した跡が認められるのではあるが、あまり明瞭なものではない。

 一方、1郭の西側には堀切が掘られており、その先が4郭である。4郭から先にも斜面を削平した段郭が数段認められるが、いずれも小規模なものである。

 1郭や2郭などの南側には腰曲輪が認められるが、これもさほど大きなものではない。

 このように高野平城は、工事に時間も手間もかけておらず、臨時の城として構築されたといった趣のものである。先に述べたように、山田城の詰めの城であったとしても、本当に急場をしのぐだけのものであった。多数の兵を込めることはもちろん、長期間の籠城はとてもおぼつかない山城である。

林道の最高所辺り。車を停めておけるスペースがある。ここから登り始めた。道はなく直登100mとなる。 直登すること20分ほどで、1郭城塁下に出た。
2郭方向を見たところ。3郭との間の堀切が見える。 その堀切。
4郭。削平は、それほどきちんとしてはいない。 その下は急傾斜の尾根となっている。
2郭から見た1郭城塁。 1郭内部。低い土塁がある。
1郭西側の堀切。 西側には段々に削平されたテラス状の郭が連なっている。





































大竹屋旅館