群馬県安中市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の城と館』(宮坂武男)

*参考サイト  山城めぐり

茶臼山城(安中市西上秋間茶臼山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 この城は2015年12月26日の山城の日で訪れた。当初はターゲットに入っていなかったのであるが、鑰掛城を訪れた後、食堂でマス重弁当を食べながら、午後の予定について相談した時、富岡武蔵殿に「茶臼山城に行けないか」と相談してみた。というのも、茶臼山城にはそのうち行こうと考えてはいたのだが、この城はちゃんとしたルートで登らないとかなり危険なことになる山城らしいので、一人で行くのには不安だったのである。幸いなことにOKということになったので、お昼を食べた後、すぐに茶臼山に向かうことになったのであった。富岡武蔵さん、ありがとうございます。今になって思うと、やはり一人で行かなくてよかったという思いと、行けてよかったという思いの2つが混交とした気持ちである。このような山を一人で登っていったら、そうとう不安になってしまったことであろうし、一人で訪れることはお勧めしない。

 茶臼山城は、高崎市(旧榛名町)との間近くにある比高190mほどの茶臼山に築かれていた。この辺り、同じような高さの山が山脈を成して連なっているので、どれが茶臼山であるのか、一見して分かりにくいのであるが、やや接近していくと、山頂部が三角形にとがった山が見えてきて、目指す場所がそこであることを理解することができる。

 入口はこの辺りで「茶臼山登山口」の案内表示がある。しかし、この案内はやがて腐食してなくなってしまいそうである。入口の目印は北側の山塊に向かって川を渡る橋がある部分である。ここから未舗装の山道をどんどん進んでいったところが茶臼山である。

 車を停める場所がなかったのであるが、この未舗装の林道をどんどん進んでいったら、車2台ほど停められるスペースがあった。ここに車を置いて歩いていくことにした。

 入口には「茶臼山登山口」の案内表示があったが、それ以後は一切、案内がない。あるいは途中にあったのかもしれないが、現在では失われてしまっているようである。そんなこともあり、林道をひたすら歩いていく。急峻な山に登るにしてはそれほど急傾斜ではない林道で、比較的歩きやすい。それをどんどん進んでいく。左側の急斜面の上が目指す茶臼山のはずである。途中、道がちょっと切れてしまったり、ヤブ化している所もあるが、とにかくどんどん進んでいった。

 途中に岩盤の脇や、大岩の下方を通る箇所などもある。なるほど、まかり間違って、岩盤地帯に出くわしてしまったら、にっちもさっちも行かなくなってしまう。やはり先達はあらまほしきものだ。

 そうやって進んでいったのだが、途中でどうやら茶臼山を行き過ぎてしまったらしいことに気が付いた。本来、この道の途中のどこかで左側の斜面に取り付き、だるま岩という特徴的な岩の脇を通って山頂に向かうようになっていたらしい。しかし、その分岐点が現在では分からなくなってしまっているのであった。

 結局、途中から直登を始める。しかし、山道をだいぶ進んでいたので、直答すること比高50mほどで、山頂部分に到達した。しかし、何もない。何もないのは当然で、出た山頂部というのは、城の北側の尾根続きであったのである(右の鳥瞰図のさらに上方)。

 そういえば、今、直登している途中で、左手の山稜に堀切状のものが見えたな、などと思い、尾根を南に降っていく。すると、いきなり大堀切が見えてきた。城内に到達である。いつものことながら、初めての山を歩いていて、遺構にお目にかかると本当にほっとした気持ちになる、時には歩くだけ歩いて、何もない山を放浪してしまうこともあったりするのである。そもそも私は山登りが大嫌いである。山なんか登っても疲れるだけで、何が楽しいのか分からない。それなのに、城の遺構をみるためにしぶしぶ山を登ってしまう。山だけ登って遺構に遭遇できないとしたら、こんな残念なことはないのである。

 この堀切を降りると、そこに「虎口跡」と書かれた標柱があった。堀切の側面部は竪堀となっているわけではなく、そこに細長いスペースがあり、ここから堀底へ進入するルートを想定しているのであろう。しかし、あくまでも堀底であるので、これがそのまま虎口とは言いがたいのではないかと思う。また、この堀底には「堀切跡」「腰曲輪跡」などといった標柱も立てられており、なぜかこの堀底だけが、標柱のオンパレードなのであった。ちなみに、城内の他の箇所には1本の標柱も立てられていなかった。もしかすると、標柱を立てることを頼まれた業者が、面倒くさくなって、持ってきた標柱をみんな、この堀底に立ててしまったのかもしれない。

 この堀切から自然傾斜の登りとなる。それを登っていった先にまた堀切があった。今度は堀底が帯曲輪となって左右に延びて行っている。この上を少し上がっていった所が1郭である。1郭は長軸20mほどの楕円形の平場であった。ここには「茶臼山」と書かれた表示が建てられていたが、意外なことに、茶臼山城についての案内板も設置されていた。ただし、木に墨で書いたものであり、いずれ読めなくなってしまいそうだし、腐食して落ちてしまうのではないかと思われる。

 1郭から南西側下に堀切があり、その先が4郭、さらに緩やかに傾斜した尾根が長く延びて行っている。この尾根は自然地形のままであるが、傾斜が比較的緩やかであることと、南側の下に腰曲輪が配置されていることから、この尾根も郭として認識していたと思われる。

 4郭手前の堀切は竪堀となって下の2郭と接続している。2郭は横に長く、わりとまとまった広さのある郭である。ここから1郭城塁を見ると、途中に帯曲輪があるのがよく見えている。また北側の先端部分が切り通しの虎口状になって、下の3郭と接続している。

 2郭から1郭東側下の腰曲輪に登る箇所も、やや虎口状になっていた。崎の大堀切の所にあった「虎口跡」の標柱は、本来はこのようなところに立てられるはすのものではなかったろか。

 茶臼山城の主要部をざっと見てきた。急峻な山にしては、わりと郭をいくつも造成して、籠城のためのスペースを確保している。想像していたよりは規模の大きな山城であった。

 さて、この後、3郭の先の尾根が緩やかだったので、そちらをどんどん降っていくことにした。幸いなことに岩盤対には遭遇せずに、来る時に通ってきた登山道に合流することができた。しかし、これも正規のルートではない。茶臼山登山の正規のルートはいったいどうなっているのであろう。まあ、もう来るkとはないかもしれないので、あまり気にする必要はないのだが。

 それにしても私のわがままを聞いてこの山城を訪れてくださったみなさん、ありがとうございました。一人ではとても登る気になれなかったと思うので、この機会に訪れることができてよかったです。感謝感激。

茶臼山登山道入り口の案内板。だいぶ傷んでおり、字も読みづらい。そのうち腐食して落ちてしまうであろう。ここから橋を渡って進んでいく。 わりとちゃんとした道がしばらく続いている。しかし、どこかで左側の急斜面に取り付かないと、茶臼山よりも先の方に行ってしまう。
途中にあった巨大な岩。落ちてきそうで怖い。 結局、北側の山稜から戻るようなアクセスになった。南側に尾根を進んでいくと、大堀切があった。深さ8m、幅7mほどの大堀切である。
堀切の底にあった「虎口跡」の標柱。その他にもこの堀底に「堀切跡」「腰曲輪跡」など、この一角のみ、やたらと標柱が充実している。他の個所には何もないのに・・・・。 さらに進んでいくと見えてきた1郭手前の堀切。堀底は帯曲輪となって、1郭側面部に回り込んでいく。
1郭内部。案内板などがいくつか立てられている。 茶臼山城の案内板もあったが、だいぶ腐食して読みにくくなってしまっている。いずれ崩れ落ちてしまうことであろう。
1郭南西側の堀切。 この堀切から先の4郭からは緩やかな尾根となっている。ここも郭として利用していたであろう。
2郭から、北側の堀切を見上げたところ。 2郭の先から、下の3郭を見降ろしたところ。
2郭から、1郭城塁と側面部の虎口状部分を見上げたところ。 1郭東側面部の帯曲輪。
 現地案内板によると、茶臼山城の築城は古く、鎌倉時代の建久4年(1198)、源頼朝が三原野の狩りを行った際に、飽島太郎正勝に築かせ、飽島氏を城主として封じたという。飽島氏は当地の豪族で、現在の「秋間」地名の元となった一族である。
 以後、累代飽島氏の居城となる。南北朝時代には、飽島勝成は、南朝方の新田義宗に従って、笛吹峠で足利軍と合戦して戦死した。
 後に、飽島勝俊の代になり、吉良氏の打出城に移ったために茶臼山城は廃城となった云々。

 しかし、茶臼山城の遺構を見ると、とても鎌倉時代の城郭であるとは思われない。南北朝時代には、このような高所の山城が各地に築かれているが、地元の豪族が居城とするような城ではない。あくまでも籠城用の要害であったろう。

 もともと飽島氏は山麓のどこかに居館を構えており、茶臼山城はあくまでも緊急時の避難所といった程度のものであったと思われる。 

 交通の要衝を抑えているとも思われず、戦国期には、逃げ込み所としての機能しか利用価値がなくなっていたのではないかと思う。




鷹の巣出丸(安中市板鼻)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 鷹の巣出丸は鷹の巣大橋の北側にある比高40mほどの山稜上に築かれていた。もともと細長い山であったようだが、南側が削られていて、非常に堅固な山容を見せている。複数の郭を有する城郭なので、実際には「出丸」というより「出城」と呼称する方がふさわしい。

 鷹の巣城の西側に位置する非常に細長く延びた屏風のような山稜であり、文字通り、鷹の巣城の防波堤のような機能を有していた出城であったものだろう。

 城址から信号を挟んですぐ東側には空き地がある。どうしてここにこのような空き地があるのか分からないのだが、車を停めても大丈夫そうなので、ここに車を停めて歩き始める。

 進んでいくと側面部のコンクリート擁壁に沿って登り道が付けられている。舗装された道で、「車でも来られたかも?」と思ってしまったのだが、最終的に上の部分まで行くと、車を回すスペースもない。やはりここは車で来なくて正解だった。

 尾根に出る途中の部分の右手の上にはすでに郭状の平場がある。さらに尾根に進むと、配水施設があり、その上が墓地になっている。この辺りもかつての郭だったところであろう。

 その先を進むと、ちょっとした平場があって、そこに朽ちかけた山門の姿が見えた。後でわかったことだが、山頂部分には寺社施設があったようで、その寺院の山門だけが残っているのである。

 さて、地図では、この平場辺りに「鷹ノ巣神社」と記されているのだが、実際には神社らしきものは見当たらなかった。既に移転されてしまっているようである。しかし、それに関連する遺構は、これから向かう山頂部に展開していることになる。   
 
 先の山門からかすかな踏み跡を頼りに登っていくと、石碑が1つ置かれていた。どうやらこれは芭蕉の句碑のようであった。

 さらに進んでいく。尾根は細長く続いており、その下の北側にはちょっとした平坦地が続いている。腰曲輪のような地形だが、尾根上にはまとまったスペースが乏しいので、こうした腰曲輪が実際には主要な郭として利用されていたのかもしれない。

 山頂部に近づくと、尾根上に石垣が見えてきた。これらの石垣が遺構だとすれば、上州では珍しく石垣を用いた城郭であったということになるが、そんなこともあるまい。「こんなところになぜ石垣があるのか?」と不可解な気分になるのだが、これこそが鷹の巣神社の建造物の跡だったのだろうと思う。かつてはここに社殿が建てられていたのであろうが、現在は石垣しか残されていない。しかし、地図には現在でも「鷹の巣神社」と記されている。
 
 さて、この城を訪れていて気になるのは、すぐ近くで銃声のようなものが絶えず聞こえてくるということである。実はこの山の下には、群馬県クレー射撃場が設置されている。そこで射撃が行われているために、銃声が聞こえてくるというわけである。

 山そのものが楯になってくれているとはいえ、近くで銃声を聞くのはあまり気分の良いものではない。山頂部に立って誤って撃たれてしまったらシャレにならない。そんなわけで、山頂部分はおちおち歩いていられないのであった。

 鷹の巣出丸は、出丸にしては多くの郭を連ねた城郭であり、けっこう城域も広い。山そのものが削られてしまっているため、妙に細長い構造になってしまっているが、もともとはもう少しまとまった構造をしていたのではないかと思う。

鷹の巣橋から見た鷹の巣出丸。山の南側半分は見事に削られている。 東側の端の方にある登り口。ここから簡単に登ることができる。
かつての寺院跡の名残だと思われる山門。かなり朽ち果てている。 そこから山稜を登って行く途中にあった芭蕉の句碑。
山頂近くにはこのような石垣が見られる。これが遺構であったら面白いのだが、後世のものだろう。 石垣が2段になって段郭を構成している部分もある。
 




尾崎屋敷(安中市下磯部字尾崎)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 尾崎屋敷は、安中市役所の南1.8km、洲電地帯に臨む尾崎集落の北端の微高地にあった。

 屋敷跡は数軒の民家の敷地となっており、遺構が残っている部分に到達することができなかった。しかし、航空写真を見てみると、北西側の部分が山林化しており、おそらくこの中に堀跡が一部残されていると考えられる。

 全体としては、100m四方ほどの単郭の居館であったと想像される。









北西側から遠望した尾崎屋敷。写真の辺りに堀が残存していると思われる。




座光寺館(間屋敷・安中市下磯部字尾崎間屋敷)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 座光寺館は、安中市役所の南1.7km、水田地帯に臨む大竹集落の北端部にあった。尾崎屋敷からは北東300mほどの位置関係になる。

 座光寺館も、数軒の民家の敷地内となっているため、遺構はなかなか確認しづらい。しかし、北東側の庚申塚の辺りから、内部に入って行く道が付けられているので、これを進んで行くと、遺構らしきものを目にすることができる。

 まず目につくのは、民家の柵腰に見える比高二重土塁である。図面を見ると土塁の間が堀になっているように見えてしまうが、実際にはこの間の部分は周囲の土地よりは高い位置にあり、いわゆる堀ではない。文字通りの比高二重土塁なのであるが、これが館のラインを形成していたのであろうか。

 土塁は部分的に残っているのだが、全体としての形状を把握するほど明確ではない。これらの土塁が遺構であることには間違いないのであろうが、もともとはどのような城館だったものだろうか。


 尾崎屋敷について、詳しい歴史は未詳だが、南方にある咲前神社の神主であった小倉氏が館主であったと言われている。







北東部にある庚申塚。この辺りから土塁の所まで入って行ける。 比高二重土塁。堀跡とするには、ちょっと違和感がある。




野殿北屋敷(安中市野殿字北野殿)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 野殿北屋敷は、野殿の集落のある内奥部の中でも中心地帯にある。宗泉寺の北200mほどの所である。

 中央部の道路を挟んで、北側と南側に館があったようで、南北に細長い構造となっている。

 北側部分は、100m四方ほどあり、内部には民家が建てこんでいる。北側や西側には土手が見られ、一部は土塁となっている。改変されているとはいえ、その形状はなんとなく理解できる。

 南側部分は、西側の城塁が現状でもそれらしく見えている。西側には「お堀端」という地名が残されているようで、かつては実際に堀も孫座しいていたものと思われる。

 また、東側の端部分に「馬場」、東南の角に「広馬場」という地名が残っており、城館の存在を思わせてくれる。その他にも「蔵屋敷」「西殿」「野殿」「横町」「鍛冶屋敷」といった地名も残されており、城下集落が営まれていた様子が伺える。


 野殿北屋敷は、近世初期に、旗本小幡氏の屋敷があったところである。となると、陣屋と称するのがよさそうな気がするのであるが、陣屋と呼ぶほどまとまったものでもなかったのかもしれない。

 小幡という名前から分かるように、この小幡氏は国峰城主小幡氏の一族であった。関ケ原合戦で武功を挙げ、野殿千石を領していたという。


 永禄から天正年間、座光寺館には、座光寺治郎左衛門が居住していたという。天正期には当地は武田氏の支配下に置かれており、座光寺氏も武田の一族であった可能性がある。座光寺といえば、信州飯田に座光寺南城北城といった城郭があり、城主は座光寺氏であった。その座光寺氏が、上州侵攻の際、ここに居館を取り立てた可能性がある。


「お堀端」と呼ばれる部分に面して見られる城塁。




館谷津館(安中市中宿字館谷津)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 館谷津館は、JR安中駅の東南800m、比高25mほどの台地北端部にあった。現在、この台地全体が、東邦亜鉛安中精錬所の工場となっており、全面的に改変されてしまっている。

 『境目の山城と館』の図から想像すると、現状でも、右のラフ図のような感じで一部遺構が残っているようである。というわけで、端部分だけでも見られないかと、西側から工場内部へのアクセスを試みた。

 ところが、西側や南側には柵が廻らされており「立入禁止」の表示も見られる。さらに、人が立ち入らないせいか、土手周辺には笹が密集しており、土手の形状を見ることすらできなくなってしまっている。そのため、残存部分を黙視することはまったくできなかったのであった。


 館谷津館の歴史等、詳細はまったく不明である。「館谷津」の地名から城館があったことが想定されているのみで、伝承なども特に存在していない。謎の城館である。













西側の城塁。柵があり立入禁止になっているだけでなく、猛烈なヤブになっており、遺構の確認は絶望的である。
























大竹屋旅館