群馬県安中市

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の山城と館』(宮坂武男)

小屋城(伊豆村城・安中市東上秋間字伊豆村)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 県道215号線から伊豆村に渡る貝戸沢橋の南側にそびえる比高50mほどの山稜が小屋城の跡である。

 北側からアクセスしていったら、城のある山はけっこう目立っていて、すぐにどの山かは分かった。たまたま近くに地元の古老がお二人いたので、小屋城のことをお尋ねしてみたのだが、「城なんて聞いたこともない」とのことであった。地元の古老も知らないとは、そうとうマイナーな城館なのであろうか。

 また、「あの山の登り口はありますか?」とも聞いてみたのだが、それも知らないとおっしゃる。仕方がないので、とにかく山の近くに接近してみた。

 近くまで行ってみると、山の裾を廻るように川が流れている。一瞬、「これではとても渡れないかな」と思ったのだが、先端近くに丸太の橋が渡されていて、そこから渡ることができるようになっている。川を渡ってから道は山の内部の方に続いているように見える。これが登城道かもしれないと思い、近くの路肩に車を停めて丸太橋を渡ってみることにした。丸太の橋はしっかりとしていたのだが、木であるから、そのうち腐食してぼろぼろになってしまうかもしれない。この橋がなくなってしまったら、もう城山に渡ることはできなくなってしまうであろう。

 道は斜面に沿って左側に曲がっている。それに沿って進んでいくと、やがて道は下りになってくる。降っては山から離れてしまうだけなので、その辺りから、山の方に進入していくことにした。山裾はかつて耕作地として利用されていたようで、何段かの平場があった。しかし、すでにヤブ化していて歩きにくい。

 その奥の方から、右のの方に向かって登っていく道が付けられていた。後で分かったのだが、この道は4郭の尾根下あたりに接続しており、本来の登城道であったのかもしれない。しかし、入り口付近がけっこうヤブになっていたので、登るときはその道は使わず、正面の斜面を直登することにした。道が分からない場合、その方が確実でなのである。

 直登と言ってもそこからの比高は20mほどであるからたいしたことはない。かなり急な斜面であったが、すぐに平場に出た。右の図の2郭である。この斜面、高さはそれほどでもないのだが、かなり急なため、何かに掴まらないと登れない。そこで竹に掴まりながら登って行くのだが、腐りかけている竹も多く、掴まった竹がボキッと折れることたびたびであった。気を付けないと危険である。

 登った平場の上段にも下段にも郭があるのが分かる。結局そこは2郭であった。2郭から南側に進んでいくと緩やかな斜面で上の郭と接続していた。そこが1郭である。1郭の背後は急斜面になっていたが、降りて行ってみると5郭があり、その先には、尾根部を分断するための堀切があった。また、堀切の底は帯曲輪状の通路となって、側面部に回り込んでいる。

 2郭から北側の一段下に3郭がある。さらに一段下に4郭があり、その間には竪堀が入れられているのだが、ヤブになっていてよく分からない。

 4郭も、ちゃんとした郭ではない。というのも、先端方向にきちんとした切岸加工がされていないからである。先端方向は自然の傾斜となって降って行くだけで、そのうち、道に接続した。そこで、この道を降って行ったら、先に進むのをあきらめた入口の所に出たのであった。この道経由だと、4郭から順に1郭に向かうようになるので、大手道と見るのがよいと思われる。

 小屋城は、山稜を利用して連郭式に郭を配置した小規模な山城であるが、周囲の切岸は鋭く、なかなかの防御性を発揮したのではないかと想像される。

 小屋城の歴史等、詳細については未詳である。地元の古老も知っていなかったということからすると、臨時に取り立てられて、短期間しか使用されなかった城郭であった可能性がある。

北側から遠望する小屋城。下の川からの比高は60mほどである。 小屋城の入口。この丸太橋がなければ、城山には全く取り付けない。
1郭内部。連郭式に数段の郭を配置している。 5の郭背後にある山稜を断ち切る堀切。
4郭から3郭と2郭の城塁を見たところ。 4郭にある竪堀だが、ヤブでよく分からない。




般若沢城(安中市西上秋間)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 秋間川に架かる箕沢橋の東側にそびえる比高100mほどの山稜山頂部が般若沢城の跡である。山稜が連続している個所であるが、一段高くなっているので、けっこう目立つ山である。

 城そのものは、山頂部を利用した小規模なものである。それでも削平した山頂部は南北に細長く長軸30mほどあり、多少はまとまった広さのある郭となっている。

 西側は尾根が緩やかで、こちらに続く尾根に浅い堀切1が入れられている。申し訳程度の堀切で、さほど防御力を期待できるほどのものではない。

 1郭から東側はけっこうな急斜面となっていて、20mほど降って行った先に堀切2があった。こちらの堀切は、側面部を垂直に削っており、堀切1とは異なって、かなり防御性の高いものである。

 このように般若沢城の中心部は、山頂部と2本の堀切で構成された、ごくごく簡素なものである。

 この山頂部分とは別に、1郭から比高30mほど降った所に2のまとまった平場がある。何もなければ自然地形の平場と判断する個所なのであるが、北側の前面部を中心に切岸加工されている。図面によっては、これを明確な横堀として描いている。であるとすれば、実際に兵力を駐屯させる唯一のまとまった郭ということになる。

 しかし、私は2の周囲の堀が城郭遺構であるかどうかということには違和感を感じる。というのも、2郭の側面部にある切り通しが、とても堀の機能を発揮するレベルのものではなく、ごく浅い切り通しにしかなっていないからである。これは古い山道の跡とみるべきものである。そのように考えてみると、2郭周囲の切岸も、古い山道を造成した際に生じたものに過ぎないという可能性もある。つなり、2の周辺のものは、横堀ではなく、ただの山道であったと思うのである。

 だが、狭隘な山頂部に比べ、まとまった広さのある部分を兵の駐屯地として利用するという発想には合理性がある。あるいは2は、山道を監視するための番所が置かれていたところであったという可能性も検討の余地がある。かつて、この城の側面部を通る街道があったとすれば、般若沢城は、その街道を掌握するための城郭であったという可能性も見てよいだろう。


 般若沢城の城主等、歴史については未詳である。

堀切1。規模は小さく、すっかり緩やかになってしまっている。 1郭内部。祠が祭られている。
堀切2。こちらの方は削られた斜面になっており、規模も大きく堅固である。 2の平場の先端の張出部分の城塁。




般若沢代官所(安中市西秋間般若沢)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 般若沢川に臨む比高20mほどの微高地が般若沢代官所の跡である。

 代官所のあるところは、西側から延びてきた山稜の先端近くの部分である。下を通る道よりは一段高く、山稜を背後の守りとして、側面部を切岸加工することによって防御力も高めている。単に代官所というよりも、城郭的な意匠をもった施設であったということができる。

 代官所の大手は、道路沿いから登った所にある門を経由するコースであったろう。門をくぐった後、道はクランクしながら代官所内部に通じている。その側面部には石垣も積まれており、大手の登城道として意識していたことは明らかである。

 代官所内部は一見のお宅になっているため、私有地内には入っていない。したがって、詳細は分からないのだが、周辺部分をみただけでも、城館的まとまりを見せているのは理解できる。


 般若沢代官所は、近世に置かれた代官所で、代官の名前は小倉氏であったという。中世城館を置く場所としても適地であることから、中世段階でも地元豪族の居館があった可能性もあると思う。







東側の城塁には2段の帯曲輪があり、三段構造になっている。 南側先端にある門。かつての代官所の門がそのまま残っているのであろうか。これをくぐると、クランクした登城道となっている。




宮掛の要害(安中市上後閑字宮掛)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 碓井西広域農道沿いにある宮掛の集落の東端部付近が宮掛城の跡である。農道に面する南側にはそれほど深い鞍部はないが、赤根沢川に面する北側は比高50mほどの鋭い斜面になっており、北側からの備えは万全である。

 そういうわけで、北側は要害地形であるが、城郭としての機能を収斂させるためには、西側の台地続きに堀切を入れ、南側の緩やかな鞍部にもしっかりとした切岸加工を行う必要性がある。

 しかし、現状では、西側に堀切の痕跡は認められず、南側の切岸加工もわずかなものである。これでは、城としての防御性を発揮するには心もとない。

 要害とはいっても、それほど念入りに造られた城館ではなかった、というべきなのかもしれない。

 話は変わるが、この宮掛の集落の真ん前に「クマの出没に注意してください」という張り紙がしてあった。群馬では、こんな住宅街の真ん前にクマが出没するのであろうか。けっこう怖い地域である。やはり群馬の山を一人で歩く際は、それなりに注意していった方がよいということである。


 宮掛城の城主等、歴史については未詳である。城址には古い五輪塔なども残されており、地元豪族の居館であったものだろうか。





南側の谷戸部分。現在も段差は見られるが、北側とは違って、こちらはそれほど急峻ではない。 そこにあったクマ注意の表示。こんな集落の真ん前までクマがやって来るのであろうか。群馬のクマ、恐るべし!




後閑堀ノ内(安中市中後閑字堀ノ内)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 後閑川に架かる小井戸橋の北200mほどの一帯が堀ノ内である。南側に出張った微高地が見える。これが後閑堀ノ内館の跡であった。遠目にもいかにも館跡らしく見える地形である。

 館跡と思われる部分は長軸50mほどの平行四辺形をしており、周囲は高さ2〜3mほどの切岸が廻っている。東側には川が流れており、それ以外の個所もかつては沼沢地であったろうから、そこそこの防御性を発揮していたと考えられる。

 後閑堀ノ内は、規模はさほど大きくないが、中世の居館を置くにはふさわしい場所であったと言える。


 城主等、歴史については未詳である。











東側の城塁。小川が流れている。 西側の城塁。




十二の陣屋(受け地の陣屋・安中市東上秋間字十二)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 秋間川に架かる伊豆村橋のすぐ北側にそびえる比高40mほどの台地の上に十二の陣屋があった。

 十二の陣屋といっても、陣屋が12もあったというわけではなく、十二というのが地名なのである。各地に十二所神社といった名称の神社があったりするが、十二所神社の十二と何か関係があるのであろうか。

 明確な遺構はないが、さほどの防御構造物を持たない平時の陣屋であったとしたら、きちんとした遺構が残っていなかったとしても仕方がないところである。平野部に臨む台地の先端部であるから、多少の要害性はあり、陣地を置く場所としては、それほど悪くない。


 十二の陣屋は、米倉丹後守が碓井千石を含む三千石拝領して築いた陣屋であったという。米倉氏は、この陣屋において碓井千石を支配した。陣屋といっても、代官所程度のものであったと思われる。








陣屋内部。1mほどの段差で4段ほどに区画されている。




内出城(安中市東上秋間字馬場

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 安中榛名駅浄化センターのすぐ南側にある比高20mほどの台地が内出城の跡である。

 「内出」はこの地域には多く見られる地名で、砦のことを示すものだという。実際、高崎市や安中市には○○の内出と呼ばれる城址がいくつも存在している。となると、ここも「内出城」ではなく「秋間の内出」などと呼称するべきではないだろうか。どうしてここだけが「内出城」という名称になっているのかよく分からない。

 内出城のある台地は、すっかり宅地化されてしまっている。それもけっこう新しい住宅街が造成されており、近年のうちに一気に破壊が進んでしまったのではないかと思われる。そのため、残存する遺構はかなり部分的になってしまっているのだが、残存する部分を見た限りでは、かなり大規模な城郭であったと想像される。この地域ではかなり拠点的な城郭であったというべきかもしれない。であるのに、保存の手がまったく打たれず、遺構の多くが破壊されてしまっているのは何とも残念である。

 遺構の旧状の規模が理解できる箇所は2か所である。1つは、北側のAの部分に残る堀の名残りである。台地縁部分以外はすっかり埋められてしまっているのだが、縁部分の状況からすると、深さ6m、幅8mほどの堀が廻らされていた可能性がある。

 もう1つは、その東南側にある北側の城塁である。こちらでは高さ10mほどのきれいな切岸を見ることができる。これまたなかなかのものである。

 Aの部分周囲が主郭であったと思う。その虎口は東側に切り通しとなって存在しており、ここもかつての堀の跡だったであろう。

 そこから30mほど東に降った所も堀切の跡であったようだ。Bの部分は民家の敷地内になっており、きちんと確認することはできないのだが、塀越しに、堀跡の窪みのようなものが見えた。堀が一部現存している可能性がある。

 わずかに残る遺構や地形などからしてみて、台地を連郭式に区画した3郭構造ほどの城郭であったと思われる。城郭部分の東側には「馬場」地名があり、その辺りに城下集落を伴っていた可能性もある。


 内出城は、南北朝時代に吉良治家によって築かれたというから、かなり古くからあった城館である。この吉良氏は後に武州世田谷城に移って行く。

 その後には茶臼山城の飽間氏が、内出城に移ってきて当地域を支配していたという。明応年間、飽間氏は、讃岐へと移って行ったため、内出城は廃城となったといわれる。

南側から見た内出城のある台地。 東側の虎口跡と思われる部分。
北側にわずかに残る堀の跡。 北側に残る城塁。なかなかの規模である。




八貝戸城(安中市中秋間字八貝戸谷津・中里原)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 八貝戸の寛永寺の南側にそびえる比高20mほどの山稜が八貝戸城の跡である。したがって、城を訪れるには寛永寺を目指していけばよい。寛永寺の案内は要所要所に出ているので、それに従っていけば迷うことはない。

 寛永寺は構えが立派な寺院で、外から見ると、近世城郭の構えのように見えるほどである。入口から見ると、右手には石垣の上に櫓があるように見え、左手は石垣も高く、その下には堀のような窪みもある。これが遺構だったらすごいのだが、実際には後世の改変に過ぎないであろう。ただし、寺院のある場所が山麓居館の跡であった可能性はあると思われる。

 境内の奥から山頂に続く道がある。山上では墓地を造成しており、そのために道が付けられているのである。上がって行くとやはり堂々とした石垣がそびえている。これが遺構であったら思いつつ進んでいくのであるが、残念ながらこれらは近代的な石垣である。

 そんなわけで上の方はかなり改変されてしまっているようで、城本来の構造はよく分からなくなってしまっている。現在の墓地造成が、もともとの地形によっているとするなら、割合に広い削平地が数段配置されていたということになるであろう。

 墓地から南側はヤブになっているが、こちらは改変されていなさそうなので進んでいってみる。すると南端までにはいくtかのピーク部があった。その間は鞍部となっているのだが、堀切というほどしっかりとしたものではない。ピーク部もきちんと削平されてはおらず、ほとんど自然地形のままであった。あまり人口の手を入れていない山城であったものだろうか。


 八貝戸城の城主は、秋間七騎衆の1人であった深堀藤右衛門であったという。




寛永寺の入口の石垣。規模だけは近世城郭クラスである。 城内にも近代の石垣が積まれている。これが城郭遺構だったら感動ものなのだが・・・・。
城内にはいくつかのピークがあり、鞍部が見られるのだが、堀切というよりは自然地形であろう。 寛永寺の本堂。左側の上が城址である。




礼応寺城(二城・城山・安中市中秋間字二城)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 秋間川に架かる岩下橋の東側300mほどにある、比高30mほどの台地の先端部付近が礼応寺城の跡である。「二城」という地名の残っている台地であり、別名を二城とも言うようだが、これは「御城」の転であると思われる。

 礼応寺城の中心部まで車で上がって行くことができる。車のナビでも、城内に通じる道が載っていると思うので、それをインプットして進んでいけばよいのである。

 台地に登る道は城のある台地ではなく、西側の台地の方に進んでいく。けっこう細い道である。これを登って行くと、やがて右手に城塁が見えてくる。側面部から見ると、礼応寺城がいかにも城塁らしい土手に囲まれているのがよく分かる。

 やがて道は谷戸部を通って、城のある台地に回り込んでいく。そこでやっと城のある台地に上がることができるというわけである。後は台地内を上の方まで車で進んでいくことも可能である。

 台地上は、東西に200mほどと、かなり広大である。内部は畑などになっており、ヤブは少ないので見通しは良い。広大な城内は、いくつかの段差によって何段かに区画されている。

 しかし、広いだけで、明確な遺構が見受けられない。このような城郭の場合、最も重要なのは、背後を分断する堀切であるが、そのようなものはまったく見受けられない。埋められてしまったのかとも思ったのだが、これだけ広大な台地で、わざわざそんな手間のかかることをする必要もないであろう。おそらく、もともと背後を分断する堀切というのは存在していなかったのではないだろうか。それは城が古い時代のものであったことを想像もさせるし、背後の山稜から敵が攻めてくることを想定していなかったのであろう。

 礼応寺城は、城域こそは広いが、メリハリの利いた遺構を有しておらず、城マニアに取って、訪問してそれほど胸が躍る城郭ではない。それにしても城内は異常なほどの広さである。


 礼応寺城は、安中氏配下の秋間七騎衆の1人、東城但馬の居城であったと言われる。




西側の谷津から遠望する1郭方向。こう見ると、かなり鋭い土手に守られていることが分かる。 1郭内部。広大な平場である。
北側上の墓地の辺りから城内を見降ろしたところ。 2郭先端の城塁。




蔵人城(安中市中秋間薬師谷津・鍛冶谷津)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 中秋間のローズベイカントリークラブのある比高30mほどの台地の北側先端部辺りに蔵人城があった。城址はゴルフ場の敷地となって大半が消滅してしまった。だから、右のラフ図は上記の本と、その基になった山崎一氏の図によって描いてみた想像図である。

 先端近くの上方に、城跡の碑が存在しているようなのだが、ゴルフ場の敷地内である。ということもあり、立ち入りは遠慮しておいた。それでも遠目に見てみると、何段かの段差がはっきりと見えている。あの上辺りに城址碑があるのであろうか。

 そんなわけで、先端近くには、3段ほどの郭が残存しているようでもあるが、下からアクセスしようと思ったらかなりのヤブになってしまっていた。そこまでして確認するほどのものでもなさそうである。

 蔵人城は、北東側に延びた山稜を利用して築かれた山城で、尾根上に4本の堀切が入れられていた。その中心にあるのが一段高く最も広い主郭であり、それを中心として6〜8画郭ほどがあったようである。


 蔵人城は、秋間7騎衆の1人であった島崎蔵人の居城であったという。蔵人城の名称はここから来たものである。








西側から遠望した蔵人城。先端部分にはいくらか遺構が残されているらしい。




秋間館(安中市下秋間字館)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 下秋間の八幡神社の南側200mほどの所に秋間館があった。背後に山稜を抱えた傾斜地形を削平して館を営む平場を形成したものである。比較的古い時代の居館としては、よくある地取りと言っていい。

 北側の八幡神社は、この館と何らかの関係があるのであろうか。

 館跡と思われる部分は一段高くなっており、側面部には土塁も見られる。土塁の脇には石積みも見られるのであるが、これは後世のものと見るべきであろう。内部は一軒のお宅の敷地となっており、内部確認はしていない。


 秋間館の館主は不明だが、秋間7騎衆に関連した人物だったのではないかと想像される。















秋間館側面部の土塁。




辻城(雁又城・安中市下秋間字藤ノ木)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 山吹保育園の北側のそびえている比高50mほどの山稜上に、辻城は築かれていた。

 『境目の山城と館』の記述を読んでいると、この山城の城内は、ものすごいヤブになっており、まともに登ることもできなければ、登ったとしても遺構の確認は十分にできないらしい。宮坂氏が『登るのが困難な山城」というくらいであるから、かなり覚悟が必要である。

 そんなヤブ山を群馬くんだり来てまで、わざわざ登る必要があるだろうか。いや、ない。

 とは言ってみたものの、近くまで来たら、「ちょっと行きがけの駄賃で」といういつもの悪い癖が出てきてついつい登ってしまったのであった。下の民家の脇くらいから、ヤブが少なさそうな所があったので、そこからアクセスする。

 その辺りから登りの山道も見つけたのだが、確かにヤブがひどくて通過が困難であったので、その山道を通るのはあきらめ、ヤブの少なそうな部分を選んで直登することにした。比高50mほどであるから、直登したって、たいした手間ではない。

 ところが、山頂が近づくにつれて笹薮の量が半端じゃなくなってきた。笹が密集しているだけではなく、笹や木の枝が倒れている個所が多く、とてもじゃないが掻き分けても掻き分けても、なかなか進めない。

 「やっぱり来るべきじゃなかった」と思ったが、ここまで登り始めたからには途中であきらめることもできない。何とか山頂まで行くっきゃない、ということで、無理やりに進んでいく。しかし、牛歩の歩みで、なかなか上の方まで到達できない。

 それでも何とか上までたどり着いたのだが、どちらを見回しても笹薮ばかりで、全く見通しが利かない。宮坂氏の本に書いてある通り、遺構の状況を把握するのもほとんど困難であった。結局、登ってみてもなんだかよく分からないただのヤブが広がっているばかり。どうしてこんなにヤブになってしまったものだろうか。

 辻城は、苦労のわりにはまったく見返りのない山城である。次回から、宮坂氏が「ヤブで困難」と言っている城は、もう行くのはよそうと思う。笹ヤブの海に呑まれてもげっぷが出ないという猛者だけが訪れるべき城である。

 そういうこともあり、この後訪れようとしていた茗荷沢城は、最初からあきらめた。宮坂氏の本によれば、こちらは辻城以上にヤブになっていそうだからである。遠くに来てまでヤブ漕ぎをするほどばかばかしいことはない。

 さて、帰りも笹薮を掻き分けながら斜面を降って行ったのだが、山麓近くになって切り通し状の道に遭遇して、それを降りて行ったら、切り通し部分を中央を石垣でせき止めているような遺構を発見した(下の写真)。城郭遺構かどうかは不明だが、ちょっと気になったので一応紹介しておく。


 辻城は、秋間7騎衆の1人であった赤見氏の居城であったという。

1郭城塁。笹ヤブがひどくて、何が何やら・・・・。 中腹の切り通し通路にあった石積み。何のためのものか不可思議である。
























大竹屋旅館