群馬県安中市(旧松井田町)

*参考資料 『日本城郭体系』 『関東地方の中世城館』(東洋書林) 『境目の城と館』(宮坂武男)

*参考サイト  山城めぐり

愛宕山城(碓氷峠城・安中市松井田町大字坂本字愛宕山)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 国道18号線沿いに中山道の入口があるが、この東側にそびえる比高50mほどの山稜に愛宕山城が築かれている。ここから中山道を進んでいくと、堂峰番所があるので、この番所跡を見学して、それから南側の城址に向かうというルートがお勧めである。ただし、愛宕山城だけ見たいという人は、南側山麓から直登する道もあるので、そこからも行けるはずである。ただ、こちらの方の登り口は今回は確認していない。

 2015年12月26日(土)のヤブレンジャー山城の日で、坂本城に続いて訪れたのが愛宕山城であった。国道沿いの中山道入口には、車2台くらいなら何とか停められるスペースがあるので、ここに車を置いて登り始める。

 けっこうな山道なので、「こんな細い山道が中仙道なの?」と思ってしまうのだが、昔の街道(それを山を越えるルート)の中には、このようなものもあったのであろう。途中から切り通しの道となって愛宕山の中腹を進んでいく。ちなみに、この山を愛宕山と呼ぶのは、近世に愛宕神社が祭られたことにちなんでいると言うので、戦国期にはこの城は別の名称で呼ばれていたはずである。城が機能していた当時は「碓氷峠城」などと呼ばれていたのではないかと推測する。城の呼称もそちらの方がふさわしいはずである。

 中仙道を進んでいくとやがて城塁部分にわずかに石垣が残っているのが見えてくる。案内板が建てられており、この辺りが堂峰番所であったらしい。ようするに中仙道の関所である。案内板は愛宕山側の城塁に建てられているのであるが、見ると、北西側先に平場があり、そこにもまとまった石垣が見られる。どうも番所跡というのは、この平場にあったのではないかと思われる。

 この平場の何面に見られるまとまった石垣が応じのものであったかどうか、悩ましいかぎりである。積み方が新しい感じなので、後世の改変の可能性も高いのではないかと思われる。とはいえ、番所跡と思われる部分に積まれているので、往時のものである可能性もなきにしもあらずである。南側から中山道をアクセスすると、正面に見えてくる位置にあるので、番所の存在をアピールするものであったと考えれば、ここに石垣を置く蓋然性もあるといえる。

 さて、ここから、城址の方向に向かって南に戻っていく。尾根上はそれほどヤブではなく普通に歩ける状態になっていた。尾根内部にはちょっとした傾斜もあるが、全体としては平坦で、この部分に施設を配置することも可能であったろう。

 やがて、愛宕山城の城塁が正面に見えてくる。といってもだいぶ埋まっているのか、高さは2m程度しかない。正面の張り出し部分のところに幅広の土橋が設置されているので、余計に低く見えてしまうのである。

 城塁に上がって見ると、上が土塁になっているのが分かる。ところが城内はものすごいヤブである。内部を横断することはおろか、城塁上を一周することも難しそうである。内部探索はあきらめて、下の堀底内部を歩くことにした。こちらならば、通れる程度のヤブでしかない。

 北側の堀は竪堀状になって西側に落ち、西側の底は腰曲輪となっていた。ただし、南側に進んでいくにつれて、形状は横堀化していくことになる。

 この南西端の部分に土塁と堀に囲まれた一角があり、ここが馬出しと呼ばれている箇所である。たしかに形状は馬出し状であり、土橋によって城内と接続されてもいる。ただ、全体にヤブがひどいので、形状をはっきりと確認しづらい状況であった。馬出しの外側に堀があり、その先の小郭の先にも切岸があった。

 馬出し部分から東側にかけて、横堀がしっかりと掘られている。堀底を進んでいくとやがて、正面に横矢の張り出しが見えてきた。その内部には土塁が盛られており、しっかりとした構造になっていて、西側と北側の両方にしっかりと横矢を掛けられるようになっている。

 張り出し外側の横堀は東南端から北側に回り込んでいるが、東側の側面部の北半分には堀も腰曲輪も配置されていない。こちら側の斜面が比較的急峻だったので、腰曲輪を造成するスペースもなかったのであろう。

 愛宕山城は単郭で、それほど規模も大きくないが、2箇所の張り出し部分や馬出しを持つなど、なかなか技巧的な城郭であった。ただ、内部のヤブがひどい。一応、外側を一周できるので、全体形状は把握できるのだが、内部がどうなっているのかはさっぱり分からないし、内部に進入しようという気分にさえなれない城郭なのであった。



南西側山麓にある旧中山道の入口。愛宕山城はこのすぐ上にある。 中山道。途中は切り通し状の山道となっている。
堂峰番所手前付近の中山道とその脇の城塁。 堂峰番所の案内板と石垣。左の写真の城塁の表面部に、部分的に石垣が残存している。
その北西側の平場側面部に見られる、新しそうな石垣。 堂峰番所の所から、愛宕山城の方に戻ってきた。これは西側の城塁張出部分を北東側から見たところ。
堀は竪堀となって側面部に落ちていく。 南西側にある馬出の城塁だが、ヤブでよく分からない。
南側の横堀と城塁。 東南側の張出部分の城塁
東南側張出部分内部の土塁。 東南側の張出部分を北側から見たところ。
 愛宕山城について、その正確な歴史は不明である。ただ、中山道の脇に位置することから、中山道の碓氷峠を抑えるための要衝としての機能を発揮していた城郭であることは間違いない。

 となると、この城郭によって街道を抑えようとしていたのはいずれの勢力であったかが問題となる。可能性としては以下の2つである。

1 武田氏の侵攻を抑えるために松井田城の前線の砦として北条氏によって築かれた。

2 安中地域に侵攻するための足掛かりとして、武田氏によって築かれた。

 いずれのケースも考えられるので、現時点ではどちらであるか悩ましいところである。山崎一氏は、2の武田築城説をとっている。それは、馬出を備える構造が武田の築城術によるものと想定したからである。

 ただ、北条氏の城郭にも馬出は見受けられるし、馬出=武田とは断定しがたいであろう。これが巨大な丸馬出であったとすれば、武田築城で衆目が一致するであろうが、この程度の微妙な枡形では何とも言えない。

 一方、城の向きは、どちらに向いていると言えるだろうか。防御性という観点からすれば、南側は高い斜面となっているのでかなり堅固である。また、南から中山道を侵攻する敵を城塁上から容易に狙撃できる位置関係にある。

 それに対して、敵が北側から攻め寄せてきた場合には、緩やかな尾根が続いているだけで、実質的な防御は城塁一重だけに頼っているということになる。それでは簡単に攻め落とされてしまう。つまり北側からの防御はあまり意識されていないと言っていい。

 というように考えると、街道をも含めた城の防御構造は、南側からの敵に対したものといって差し支えないと思われる。となれば、愛宕山城は南側の北条氏に対して構えられた要害であり、築城主体は武田氏、ということになる。




坂本城(城の峰城・安中市松井田町大字坂本字城の峰)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 碓井湖の南側にそびえている比高100mほどの山稜が坂本城の跡である。また、碓井湖パーキングのすぐ東側の比高30mほどの山稜は虚空蔵山砦の跡である。

 2015年12月26日(土)、ヤブレンジャー山城の日で、最初に訪れたのが坂本城であった。待ち合わせ場所は碓井湖パーキングであったのだが、朝、寒くて寒くて、外に出ていると、木枯らしが身を切るようであった。さすがに上州の木枯らしはなかなか厳しい。

 メンバーがそろったところで、さっそく坂本城に登り始める。といっても、全体が危険なほど急斜面の山なので、取り付ける場所は限られている。遊歩道を歩いて行って、赤い「ほほえみ橋」の所からアクセスするのである。もちろん山道などないので、急斜面直登である。

 幸いヤブはないのだが、ってことは手に掴めるものも少ない。足取りをしっかりしながら1歩1歩登っていく。しかし、それほど高くもないので10分ほどで尾根に出た。山稜上に出ると左側斜面は岩盤がむき出しの天然垂直切岸であり、落ちたらひとたまりもない。あまり縁に寄らないようにしながら山頂を目指していく。すると、すぐに最初の堀切が見えてきた。といっても申し訳程度の小ぶりなものである。

 そこからさらに尾根を登っていくと2本目の堀切がある。これまた小ぶりである。ここからは尾根は平坦になり、さらに主要部を目指していくと、3郭城塁の手前に3本目の堀切が見えてきた。

 これを超えた所が3郭である。ここからが本格的な城内となる。城内の郭は、きちんと削平されており、建造物を建てることができるようになっている。3郭も長軸20mほどと、そこそこのスペースがある。正面には1郭の城塁が立ちはだかって見えている。いかにも主郭らしい城塁である。

 3郭を進んでいくと城内最大の堀切が見えてきた。2郭との間の堀切である。この堀切の南側部分は竪堀となって下の腰曲輪まで延びて行っている。この堀切を越えた所が2郭。2郭は尾根下の部分を削平した郭で、城内ではもっとも広い郭となっている。

 その上が1郭である。1郭は尾根上であるため、土塁程度のものと想像していたのだが、実際にはそこそこのスペースがあり、物見などを置いていたものと想像される。

 2郭から下には3段ほどの腰曲輪が造成されていた。どれもそれほど大規模なものではないが、斜面を削平することによって、切岸と平場を創出している。そして3段目の下は断崖となっている。

 3段目の腰曲輪の下の部分から続く腰曲輪は弓なりに湾曲しながら4郭の方向に向かって延びている。この弓なりになった所に上の堀切から続く竪堀が接続しているのである。また、この部分の下は天然の竪堀形状となって南側の斜面につながっていく。

 3郭から南側には3段の郭が造成されている。ここまでが城の主要部といっていいだろう。

 普段の私なら、ここまでで戻ってしまうところであるが、この日案内してくれた富岡武蔵さんが、「この下に土橋があるので見に行きましょう」といって、どんどん降りていった。みんなも一緒に降りて行ったので私も従うことにした。

 急斜面を降っていくとAのスペースがあり、その下に南西側の尾根に続く部分があった。尾根であるが、なるほど、土橋と言えばそんな風にも見える。ここに来て意外だったのは、この土橋の所まで遊歩道が付けられていたということであった。どうやら南側に登山道があったらしいのである。ただし、どこからこの登山道に入っていくのかよく分からない。また、こちらの道の方が大手道であった可能性が高い。

 さて、ここまで降りてしまうと、再び上の郭のところまで登っていくのは大変である。そこで、ここから谷戸部を降りていくことにした。谷戸部は碓井湖に向かって開口しているので、途中で断崖さえなければ、普通に降りていけるはずである。

 結果として、普通に降りていけるルートで、特に危険な箇所もなかった。ただし、最期に「ほほえみ橋」の下に出た所で、北側の対岸に登るのがお勧めである。南側は急斜面となっているので、登るのに若干の危険性がある。北側であれば、普通の斜面なので、それほど苦労もせずに橋の袂まで上がっていけるのである。

 このほほえみ橋からは、対岸の虚空蔵山砦もよく見えている。こちら側から見ると、断崖むき出しのすごい山である。ここは狼煙台があったといわれているところで、再び駐車場方向に戻って、上に進む道から登り口を捜してみる。結果から井内、北側の先端下辺りから登っていく山道が付けられていた。しかし、北側先端まで行くのも面倒なので、途中から斜面を直登することにした。直登といってもたいした比高はないので、すぐに山道と合流した。後は山道に沿って進んでいけば、すぐにコンクリートの建物のある鞍部にたどり着く。このコンクリートの建物、現在、内部はがらんどうになっていたが、もともとはここに虚空蔵菩薩が祭られていたのであろうと思う。

 ここから南側に尾根を登っていったところが2郭である。2郭は長軸6mほどの小さな平場にしか過ぎないが、南端部で見晴らしがよいので、狼煙を上げるには絶好のロケーションであったのかもしれない。

 鞍部を挟んで北側が1郭である。長軸30mほどの細長い郭であるが、削平はきちんと行われている。また、先端部も切岸カットされ、下にテラス状の小空間が生じている。小さいながらも、一応、城郭として認められるだけのものであった。

碓井湖パーキングから遠望した坂本城。高さはさほどには見えないのだが、あちこち岩盤が露出しており、急峻な山である。 回り込んで、赤い「ほほえみ橋」の所から登り始める。比較的緩やかな部分だが、それでもけっこう急で、木の枝に掴まりながら1歩1歩進んでいく。
すると最初の堀切が見えてきた。左側は岩盤の露出した断崖で、あまり縁部に寄ると危ないので気を付けよう。 さらに少し登って行くと2本目の堀切が見えてきた。これもわりと浅い。
3郭手前にある3本目の堀切。 3郭内部。北側が土塁状になっている。正面奥が1郭。ヤブが少ないので見晴らしがいい!
3郭から下の4郭・5郭を見たところ。 1郭との間の堀切。城内で最大の堀切である。
1郭内部。 2郭内部と71郭の城塁。
2郭から下の腰曲輪を見降ろしたところ。2段見えている。 一番下の腰曲輪は弓なりになって4郭へと続いている。正面に見えているのが3郭の城塁。
弓なりの腰曲輪から上の堀切を見たところ。空が青い! 今度は反対側の下の谷戸部方向を見てみた。天然の竪堀である。
5郭。 南側のAの郭とその先の土橋状の部分。ここに遊歩道が付けられており、南側から登って来られるようだ。
また上まで登って行くのが面倒だったので、そのまま谷戸部をまっすぐに降りていくことにした。 最後は「ほほえみ橋」の所に出た。橋が湖面に映って眼鏡橋のようになっている。
ほほえみ橋から遠望した虚空蔵山砦。 虚空蔵山砦の2郭。狼煙台であったと言われる。
かつて虚空蔵堂のあった谷戸部の建物越しに1郭を見たところ。 1郭内部。きちんと削平されている。
 坂本城の歴史について、正確な所は不明である。富岡武蔵氏は、愛宕山城と共に、安中地域進出を目指す武田氏によって築かれたものではないか、と言っていた。

 武田氏が安中地域進出の足掛かりとして構えたと想定される城郭としては、中山道を抑える愛宕山城がある。愛宕山城とは直線で1kmほどの近接地にあり、関連しあった城郭と想像するのは自然な発想である。

 ただ、私は、武田氏が軍事拠点として築いた城郭としては違和感を感じてしまうのである。愛宕山城については、街道を抑える要衝としての機能があり、橋頭保として十分に意味がある城郭である。

 しかし、坂本城はかなり急峻な山上にあり、軍勢を出すには不便であり、どちらかというと逃げ込み場所という印象を感じるのである。たいした軍勢を籠城させることもできないであろうし、こんな山上に兵を入れてしまったら、軍勢の差配など思うようにできないのではないか。武田信玄はもっと合理的に築城を行う人物だと思うのである。

 そんなわけで、坂本城は、地元の豪族や民衆の詰の城・あるいは逃げ込み所といった種類の城郭だったのではないか、現時点ではそのように想像している。




松井田西城(諏訪城・西城小屋・安中市松井田町新堀)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 旧松井田町新堀にある金剛寺とその一帯が松井田西城の跡である。

 金剛寺のある場所は、高さ10mほどの急峻な土手上にあり、いかにも城館らしい雰囲気を有している。そこそこに防御力を有する居館を置くのには、まずまずの場所である。

 一方、西側奥の諏訪神社のある高台こそが城の中心部であるという説もあるが、こちらは狭隘で、城の中心部とするにはふさわしくないという印象を受ける。しかし、高所であるという点からすれば、金剛寺よりも要害性で勝っていることは間違いない。両者が一体となって、城域を形成していたと見るべきであろうか。

 松井田城の西側にあるので、松井田西城と呼ばれているわけであるが、だからと言って松井田城の西の出城と考えるのは早計である。たしかに、居館を置くという点では適当な場所であるが、戦国期の大城郭である松井田城とはその構造面において、何の関連性もない。戦国最盛期の松井田城とは関係のないもっと古い時代の城館であったようである。


 松井田西城の城主は安中出羽守であったという。安中氏は、長享元年(1487)4月に越後の新発田から、松井田西城小屋に移って居住したというのだが、この西城というのが、ここのことであったと考えられる。戦国期に大城郭となった松井田城が形成される以前の、当地区の拠点城郭の1つであったと思われる。



駐車場から見た金剛寺。城塁は高く鋭く、まさに城郭の雰囲気がある。 西側の奥の高台にある諏訪神社。昼でも薄暗く、寂しい場所である。
諏訪神社から、参道と右側の段郭を見たところ。 金剛寺と諏訪神社との間にある土塁。




補陀寺館(安中市松井田町新堀本町)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 金剛寺の東側500mほどの所にある補陀寺が、補陀寺館の跡である。

 補陀寺の背後には鋭い山稜がそびえており、国道18号線の松井田バイパスを通ると、この小山は遠くからでも目立って見えている。いかにも城館のありそうな場所である。

 山麓の補陀寺は、周囲から一段高くなったところにあり、ここに居館があったと思われる。現在、堀は認められないが、館があったと思われる形状はなんとなく理解することができる。

 背後の小山は居館からの高さが比高40mほどもあり、詰の城というべきものである。この山頂部分は、15m×30mほどと、たいして大きなものではないが、周囲は鋭い切岸によって守られており、なかなか堅固な場所である。きちんとしたものではないが虎口もある。

 この詰の城のある部分の斜面上には帯曲輪状の平場が何段にも形成され、そこに墓地が置かれている。これらの帯曲輪は墓地造成による改変であると思われるが、斜面を切岸造成したがゆえに生じたものも含まれていると思われる。

 この詰の城は、現在は松井田バイパスによって背後の山稜とは完全に分断されているが、かつては山稜部分と尾根続きであり、松井田城までアクセスすることもできたと考えられる。


 補陀寺館は、松井田城の居館があったと言われている所であり、つまり館主は大道寺氏であったと考えられる。






補陀寺が居館跡か。背後の高台には詰めの城がある。 詰の城から補陀寺方向を見降ろしたところ。墓地が造成されて数段の帯曲輪状になっている。
詰の城の虎口。 詰の城先端部。北側はバイパスによって削り取られてしまっているが、かつてはこのまま松井田城に行けたはずである。




高梨子(たかなし)代官所(安中市松井田町高梨子蝉貝戸)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 松井田城のある山稜の、北東側先端部下辺りが高梨子代官所の跡である。

 代官所と言ってもまとまった平場があるわけではなく、もともとは傾斜地形であったらしく、現在では、東西に数段の平場が段々になっているような場所である。

 西側が山稜、東側が沼沢地、背後に松井田城のある山稜という地取りからすると、ある程度の防御性は確保できていると言っていいが、段々の地形で、代官所施設を置くのには必ずしも便利な場所ではない。

 代官所跡は集落内部となっており、宅地が建て込んでいるため、本来の形状は分かりにくくなってしまっている。代官所の大体の範囲は右の図の赤い線で囲んだ辺りだと思われるが、明確な区画は存在していない。

 この中央部付近に代官井戸が残されている。住宅地の真ん中にあって分かりにくいのだが、内部を南北に通っている道を進んでいくと、案内板も立てられているので、見落とすことはないだろう。大規模な井戸ではないが、現在でも水を湛えていた。


 高梨子代官所は、近世に安中藩の代官所があったところである。









代官所跡は段々の地形となり、民家が建て込んでいる。 井戸だけがぽつんと残されている。中を覗き込んでみると、現在でも水を湛えていた。




小日向(おびなた)城(安中市松井田町小日向)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 県道216号線のすぐ北側で、成就院の東南300mほどの一帯が小日向城の跡である。県道をはさんですぐ南側には小日向公民館がある。

 県道から見ると、城跡らしい雰囲気はあまり感じず、ここが城跡でよいのかどうか、ちょっと自信が持てない。それでも、民家の側面部奥の方に竹やぶがあるので、背後に回ってみると、城塁らしき土手が見えてきた。これが北側の城塁ともいうべき「べんしょう山」である。

 「べんしょう山」とは面白い名称であるが、これはどういう字を当てるのであろう。弁償山なのであろうか。残念ながら、この言葉の由来については分からない。

 さらに入り込んでみると、べんしょう山と1郭との間に深い堀が存在していてびっくり! 深さ7m、幅は10mほどもある大きな堀である。平城でこれだけの堀を有している城郭というのも珍しいであろう。単なる居館でないと思わせるだけの構造物である。この堀底をきれいな水が流れていた。

 べんしょう山の南側の1郭が城の中心で、規模は80m四方ほどである。べんしょう山との間を流れる川は、1郭の東側で回り込み南側に流れを変え、そのまま2郭との間の堀になっている。こちらも深さは6mほどあり、けっこう深い。

 一方、1郭西側の土塁はかなり低い。かなり削り取られてしまっているのであろうか。また、南側にも城塁のラインと一部に堀の跡が見受けられるが、こちらも規模は小さい。市街地化につれて、こちら側の遺構はだいぶ破壊されてしまったものとみられる。

 堀を挟んで、東側には2郭がある。2郭は南北を小川の流れによって区画された微高地で、三角形状をしている。現在ここは民家の敷地となっており、また東側部分の空き地にはソーラー発電システムが設置されている。

 小日向城は、平地の城館としてはかなりの規模の遺構を有している。その間を流れる堀は、現在も水路として現役使用中である。しかし、南側や西側はかなり破壊されてしまっているので、全体構造は十分に把握できない。いずれにしても、これだけの規模を有する平地城館は貴重であることは間違いなく、現在残っている部分だけでも、ずっと存続していってほしいものである。


 小日向城の城主等、歴史については未詳である。一般的には地元豪族の居館であったと解釈するのが順当であろうか。もしくは、街道沿いにあることから、街道を抑えるための要衝として築かれたものであった可能性もあるだろう。となれば、松井田城に関連する施設の1つという見方も当然ありうる。構造物の規模からみて、単に豪族の居館とするには、手が込みすぎているというべきかもしれない。

 城内には「倉屋敷」の地名が残っているが、これは近世になってから郷倉が置かれたことにちなんでいるものであるとのことである。

西側から小日向城を見たところ。正面奥の竹ヤブの中に「べんしょう山」がある。 北側から見たべんしょう山。
べんしょう山と1郭との間の堀。平城とは思えないほどの規模に驚く。 2郭南側の堀は水路になっている。
1郭と2郭との間の堀。 1郭南側の堀はだいぶ埋められてしまっているが、痕跡は認められる。




下増田内出(安中市下増田字内出)

*鳥瞰図の作成に際しては、『境目の城と館』を参考にした。

 県道216号線が下増田で西側の大きくカーブするところの北側に内出地名があるが、そこが下益田内出城があったところである。

 例によって「内出」地名が残ることから、砦があった所と目されているわけだが、城域内には段差がいくつかあり、城郭とするにはまとまりのない地形である。

 山崎一氏の図を見ると、右の図の赤い線の範囲に堀が存在していたようだが、現在は堀らしきものは認められない。埋められてしまったのであろうか。この周辺は宅地化が進んでおり、城域内も数軒の民家の敷地となっているので、改変もあったのだろう。


 下増田内出の城主等歴史については未詳だが、松井田城の出城の1つであると考えられる。城主としては小板橋氏が想定される。










東側の通路が堀跡らしい。 北側の土手。城館の背後に土手があるというのも不思議な構造だ。




大王寺城(安中市松井田町人見字大王寺)

 柳瀬川と信越本線とに挟まれた大王寺の地に大王寺城があった。この地を大王寺というのは、城が廃城となった後、ここに大王寺という寺院が建立されたからであるという。つまり、大王寺は、城の跡地に建てられたものであるから、この城の名前を大王寺城というのは本来ふさわしくない。現在の字名が大王寺なので、大王寺城としているのだと思われるが、本来は何という名前で呼ばれていたものであろうか。ところで、その大王寺も現在は廃寺となってしまっており、地名にその名残を留めているのみである。

 城域内部は宅地化が進んでいるために、明確な遺構はほとんど存在していない。それでも下の写真のように、部分的に土塁と思われるものが残されている。これによって、かろうじて城があったことをに思いを馳せることができる、といった程度のものである。

 右の図は、『境目の山城と館』の図と、古い航空写真を基にした想像図である。方90mほどの単郭の城館だったようである。現在の航空写真を見ても、方形の区画ははっきりと分かる。


 大王寺城の城主は上杉氏に仕えた上原兵庫であったという。










大王子城跡の北西側に残る土塁。





























大竹屋旅館