【東海道53次・京方面7日目のつづき】 :関駅〜伊勢坂下バス停(6.3km)

W8.坂下宿  (現在の三重県亀山市関町坂下)


東海道53次坂下宿の浮世絵  (広重『東海道五拾三次之内 坂下』より)

ここで右折して国道1号と別れ、旧道へと入ります。

ここ右折

目の前には鈴鹿山脈の山々がせまってきました。もうすぐ鈴鹿越えだ。
はたして東海道はどのあたりを超えることになるのだろうか?

坂下宿へ

一旦、国道1号を横切り、再び旧道へ。
道の脇には常夜灯が残っています。

常夜灯

国道一号をひたすら歩きます。周囲には民家が一軒もありません。
右側には鈴鹿川が流れ、右手奥には広重の浮世絵にも描かれた筆捨山が見えます。

筆捨山
その昔、画家の狩野元信が旅の途中でこの山を描こうと筆をとったところ、山の風景が刻々と変わってしまうことに絵を描くことを諦め、 筆を捨ててしまったことからこの名が付いたと伝えられている。 江戸時代から名勝として世に知られ、浮世絵での坂下宿はほとんどのものが筆捨山を描いています。(亀山市教育委員会の資料より)


筆捨山

しばらく国道1号を歩いたら、「東海道」の看板を確認して旧道へと入ります。
しばらく民家のない道を歩いてきたので、集落に入ると何だかホッとします。

古い町並み

小さな集落を過ぎると、また寂しい道、そして小さな集落…の繰り返し。
緩やかな登り坂が続き、徐々に疲労が溜まってきました。

ひたすら歩く

小さな集落では所々に格子窓の古い建物を見ることができます。 集落は所々にあるのですが、坂下宿に向かう道では、人には全く出会わず、かつてここが多くの旅人が往来した街道だとはとても思えません。

格子戸

おやっ、ここにも軒先に幕板のある建物があります。
関宿ではよく見かけた幕板ですが、坂下宿にもわずかに残っているようです。

幕板

坂下宿周辺を歩いていると、囲いをした畑をよく見かけます。 たぶんイノシシ対策なのでしょう。 そういえば、亀山市観光案内所の人が「鈴鹿峠はイノシシが出ますよ」と言ってたっけ。 この先の旅路がちょっと不安になってきます。

イノシシ避け

あぁ〜、まだ登り坂が続くのか…。
関宿から坂下宿まではそれほど距離がないのですが、登り坂のため、実際以上に距離を感じます。

登り坂

「日本橋」「品川」…と書かれた柱が連なっています。どうやら東海道の雰囲気を出すために、宿場町名が書かれた柱を建てたようです。

模擬東海道

「坂下」と書かれた柱。よしっ、坂下宿までもう一頑張りだ。

坂下の柱

途中、「鈴鹿馬子唄会館」に立ち寄ります。
鈴鹿馬子唄とは、鈴鹿峠を越える馬子達の間で歌われ始めたもの。

「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る…」

坂下宿は晴れていても、鈴鹿峠は曇っていて、鈴鹿峠の北側にある土山宿では雨が降っている、という内容で、この周辺の天候をよく表現しています。

ところで馬子唄会館の前で出会ったご老人に出会いました。ご老人は、東海道を一人旅しており、これから鈴鹿峠を越えて土山宿まで歩く予定だとのこと。 馬子唄会館の時点で、すでに時間はお昼の2時。まだ日が暮れるのは早いので、あのご老人は無事に鈴鹿は越えられたのだろうか。

鈴鹿馬子唄会館  馬

林の中を歩きます。
道路は立派なのですが、街灯はなく、ここを夜中に一人で歩くのは、とっても怖そう。

林を抜ける

ようやく大きな集落が見えてきました。坂下宿に到着です。

坂下宿手前

坂下宿は、古い建物のほとんどが取り壊されてしまったのですが、それでも所々に格子窓の建物を見かけることが出来ます。
かつては難所・鈴鹿峠を控えた立地もあって、江戸時代には多くの人が利用し、本陣3軒、脇本陣1軒と大いに栄えた宿場町でした。 現在では鉄道の沿線からも外れ、往時の賑わいをうかがい知ることは出来ません。

町並み  町並み

関宿から緩やかな登り坂を歩き続けたため、もう足は疲労困憊。 距離的にはこのまま鈴鹿峠を越えても良かったのですが、すでに体力の限界となっていました。 鈴鹿峠越えは次回へ持ち越すことにしました。


あっ、右足が…
関宿から坂下宿への旅の翌日、朝起きてみると、長い登り坂を歩き続けたせいか、わずかに右足ふくらはぎが痛い感じがしました。 軽い筋肉痛かな、と軽く考えていたのですが、急いで物を取りに行こうとした走り出した瞬間、右足に激痛が。。。全く歩けなくなってしまったのです。 整形外科で診察してもらった結果は「肉離れ」で全治3〜4週間とのこと。鈴鹿峠、恐るべし。



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