
この海宝寺境内を含む「桃山町正宗」は、独眼流の異名をとった仙台藩の藩祖・伊達政宗の伏見上屋敷があったところです。
政宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの伏見に屋敷地を与えられ、そこに多くの重臣やその妻子などを住まわせました。その数は常時千人以上にも及び、屋敷一帯は「伊達町」とも呼ばれたそうです。政宗自身は慶長4年(1599)ころまでここに住み、慶長6年に再び上洛した際にも約1年間を過ごしています。
政宗の伏見屋敷はこの場所のほか、上屋敷の南西にほど近い場所と深草の2ヶ所に下屋敷があり、計3ヶ所であったとされています。深草の下屋敷付近には現在も「深草東伊達町」「深草西伊達町」の地名があり、その名残を留めています。
宇治にある黄檗宗の大本山萬福寺には「山門を出れば日本ぞ茶摘歌」という句が残されています。中国のお寺の姿を模した境内の異国情緒に包まれて、ふとここが日本であることを忘れてしまい、山門を出るときに聞こえてきた茶摘歌に改めてここが日本であることを気づかされたというユニークな体験を、江戸時代の俳人田上菊舎が詠んだ一句です。 萬福寺は承応3年(1654)に中国福建省から渡来した禅僧、隠元禅師によって寛文元年(1661)に創建されました。禅師が国内に持ち込んだ中国禅は、当時の日本の仏教に新風を巻き起こし、後に「黄檗宗」として今日まで継承されています。禅師は禅の教えだけでなく当時の様々な中国の文化を日本にもたらしました。その一つに中国風精進料理「普茶料理」があります。
「普茶」とは「普く(あまねく)方々と茶を共にする」という禅語です。食卓においては互いに分け隔てなく、同じものを同じ器から分け合っていただき、親愛の情を深めようとするものです。そこには「飲食は平等なり」というなんとも和やかな気持ちがこめられているのです。 この素朴幽遠な普茶料理は隠元禅師の4番目の弟子、独湛禅師が開創したとされています。独湛禅師は、日本の食材を隠元禅師の口にあうよう唐風に調味しました。これが普茶料理の原点とされています。