#1



 高橋春紀は深海魚だ。
 教室という小さな海原において春紀は、空を飛び回るカモメも、水面を跳ねるトビウオも、その一切を認知せず、ただ黙々と海底を這って生きてきた。
 面倒事は嫌い。文字通り波風立たせず、静かに毎日を過ごすことが春紀の望みであり、水面で騒がしく跳ね回る同級生たちとの接触を避けることによって、常にそれは保たれていた。
 時々やってくる嵐も竜巻も、こんな海の底までは届かない。
 一切が自分に関わらず、日の光すら当たらないこの場所は、春紀にとってひどく居心地がよかった。

 高橋春紀は深海魚だ。
 だが、ずっと上の方からかすかに聞こえてくる、同級生たちの他愛ない笑い声を聞いて羨ましいと感じてしまう点においてのみ、春紀は確かに、一人の少女であった。


  *


 廊下の端からけたたましい悲鳴が響き渡ったので、二年一組のリーディングの授業は一時中断された。
 教科書を丸めて持ったまま、教科担任の武内恭平はいったい何事かと教室からひょいと顔を覗かせて廊下の様子を伺う。
 教室の、窓という窓から生徒達たちが頭を出して、思い思いに悲鳴の原因を視線で探っている。相変わらず聞こえてくる悲鳴とも嬌声ともつかない叫び声は、教室中の窓ガラスをガタガタ揺らした。
 学年一帯がちょっとした騒動にざわついている中、高橋春紀だけは、自分の席から微動だにせずリーディングの教科書と向き合っていた。
 春紀は、真っ黒なロングストレートの髪のうち、一房だけ寝癖の取れなかった髪の不規則なウェーブをしきりに気にしながら、教科書に印刷された細やかな英字を追った。
 勉強する手を止めない春紀の向こうでは、とうとう武内教員という防波堤を越え、生徒たちのビックウェーブが廊下へと溢れだしたようだった。
 春紀を除いた、学年すべての生徒が、廊下の行き当たり―――階段の踊り場へと集まっていた。
 その眼下では、セーラー服を着た一人の少女が、茹でられた海老のように背中を丸めて悶絶している。
 踊り場の床に広がる、塩素で赤茶けたセミロングの髪。袖からすらりと伸びる日焼けした腕。
 初夏の熱さに負け、水泳部の存在を差し置いて、誰よりも早くプールの常連客になっていると噂の多田崎日和だった。
 真っ赤なポスターカラーで「ルドルフ号」と書かれたボロボロの段ボール紙が、何故か、腰のあたりを押さえて呻く日和の下敷きになっている。
 ちなみにルドルフとは、有名な政治家か、そうでなければサンタクロースのソリを引くトナカイの名前である。

「ぬおおおお超絶尻が痛えええええ…!! どのくらい痛いかって言うと悶絶躄地レベル…!!! や、やっぱり階段の手すりで段ボールソリなんてやるもんじゃねーわ…」

 春先、草の茂る土手で子供がよくやるあの要領で、段ボールソリをしたらしい。
 「そりゃ痛いだろ…」とか、「毎日毎日手を変え品を変え、本当によくやるわー」とか、「ちょwwwwおまwwwww」だとか、ドン引きしたり、呆れて苦笑したり、はたまた日和を指差し大爆笑したりと、様々な生徒の声が悶絶する日和の上に降りかかる。
 そんな人混みを掻き分けて、一人の男子生徒が最前列に躍り出た。

「おーい! 多田崎、無事かー?」

 すらりと伸びた長身。日に焼けた肌。ワックスで盛り上がった髪。この学校が誇る希代の変人・多田崎日和一番の悪友、椎名極だった。
 日和はそれに屈託のない笑顔で握りこぶしを掲げて「おう!」と返す。
 尻の痛みが引いたのか、勢いよくぴょんっと跳ね起きる。廊下に落ちているボロボロの段ボールを上履きの先に引っかけ蹴り上げると、滑らかな動きで空中キャッチ。一部からは「おおーっ」と歓声が上がった。
 日和は段ボールを持った左手でそれを受け止めると、「皆さんどうも蛙鳴蝉噪お騒がせしましたーっ。アブナイから階段の手すりは登っちゃ駄目だよん」とか何とか、さも何事もなかったかのように人混みの中へ進んでゆく。
 かの有名な旧約聖書には、指導者モーセが海水をまっ二つに割ったという逸話が残されているが、まるでその現場を再現でもするかのように、日和の周りだけ人の波が引いていった。
 廊下の真ん中を堂々と歩く日和の隣に、さっと椎名が寄り添った。

「で、次回はいったい、何をやらかす気なんだ?」
「ふっふっふ。聞いて驚け! 明日はな・なんと、校内ハンググラウダーに挑戦だ!」
「え、何それ、超楽しそうなんだけど」

 段ボールをバキバキ畳んでコンパクトにまとめると、それをゴミ箱に捨てるために日和は手近な教室に入った。
 階段から一番近い二年一組の教室では、ぽつんと一人だけ席に座った春紀が、騒ぎも気にせず黙々と英訳をしている。
 春紀の深海魚としての徹底っぷりに、日和は面食らったようだった。



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