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大きく立ちのぼる入道雲の合間を縫って、真っ赤な金魚が一匹、すいすいと空を泳いでいる。 校庭から聞こえてくる体育の授業の喧噪と、教壇で数学の公式を説明する教師の声を聞き流しながら、僕は、教室の窓から覗いた青空と向き合っていた。 古びた教室机の上には、閉じたままの数学の教科書と黒く汚れたプーマの筆箱が申し訳程度に載っている。年老いた数学の教師は、寿命の切れかけた電灯にちかちか照らされている。クラスメイトたちが、こそこそ雑談をしたり、手紙を回したり、あるいは真面目にノートを取ったりと、思い思いの態度で授業を受けている。 僕は頬杖をついて、さっきからずっとぐるぐる同じ所を泳いでいる真っ赤な金魚を目で追っていた。 「今日も元気だな、あの金魚。」 僕の前の席に座っている野球部の男子が身をよじって、僕に話を振った。 短い髪と真っ黒に日焼けした肌を持つ、普通の少年だ。さっきまでノートを取っていたのか、骨ばった右手にはシャープペンシルが握られている。 僕をちらと見た後、彼の視線は空を泳いでいる金魚へと移った。 「餌とか、何食べてんだろうな。」 ぽそりと彼が呟いた。僕が「え?」と言うと、金魚から視線を切らないまま、「だって一応生き物なんだから、何かは食ってんだろ。」と説明した。 時計周りの方向にぐるぐる泳いでばかりいる金魚は、それはふくふくと太っていた。 よほど栄養価の高いものでも食べているんだろうな、と僕は思った。 「あの金魚が何か食べてるところ、見たことないか?」と彼が聞く。 「ううん、見たことないよ。」と僕は答えた。 あの金魚がいつからいるのか、なんでそこにいるのかも、僕は知らない。 金魚はただ、毎日毎日同じように、校庭のサッカーゴールの上のあたりをぐるぐる時計回りに泳いでいるだけだった。 空をすいすい泳げるのに、なぜだかサッカーゴールの上から離れたところを見たことがない。 目に染みるような青空の中を、金魚は気持ち良さそうに、相変わらず時計回りの方向に泳いでいる。 僕と彼はその様子を見つめていた。彼が「なんで同じとこばっか泳いでんだろうな。」と呟いたので、僕は「鉢から出られないんじゃないの。」と答えた。 それは、自然と頭に浮かんだ言葉だった。 僕自身深く考えたわけでもなく口を衝いて出た"鉢"という言葉に驚いた。彼も同じように、まだ幼さの残る目元を丸くして、「鉢って、何?」と訊ねた。 相変わらず頭の中はからっぽだったけれど、自然と言葉がすらすら浮かんできたので、それをそのまま声に出した。 「つまり、あの金魚は金魚鉢の中にいるんだよ。金魚は鉢から出られないだろう。だからいっつも同じ場所をぐるぐる回っているのさ。時間の流れに合わせて家と学校とをぐるぐる往復してる僕たちと、鉢の中をぐるぐる時計回りに泳いでいる金魚は、結局、なんにも変わりがないんだ。違いと言えば、あの金魚はふくふく太っているし僕たちよりも少しだけ空に近いけど、僕たちはみんな痩せっぽちで空地面に張り付いて生きていることくらいだ。」 彼は金魚から目を離して、突然饒舌になって喋り出した僕を、びっくりした顔で見つめていた。 右手には黒いシャープペンシルを握って、左手は椅子の背を掴んだ格好で、ぽかんと口を開けている。 ひらひらと尾を揺らして泳ぐ金魚から目線を切らないまま、僕は彼に質問を投げかけた。 「君は、中学校に入った頃は何になりたかったの?」 彼は不思議そうな顔をした後、少し照れながら「……野球選手、かな。」と答えた。 僕が「じゃあ、今は?」と聞くと、彼ははっと息を飲んだ。 校庭のサッカーゴールの上を、真っ赤な金魚がすいすい泳いでいる。 「……普通の、サラリーマン。」 ふくふく太った、金魚が、太陽よりも赤々と主張して、空を、泳いでいる。 痩せてしまった僕たちと、丸々と太ってゆく金魚。流れてゆく時間と、往復する空間と、地を這う僕らと、空を泳ぐ金魚。 「――――そういうことだよ。」 表情の凍った彼にそう告げると、僕は閉じたまま放り出していた数学の教科書を開いた。授業はもう終盤に差し掛かっていて、今からワークに手を付けても終わるはずがないので、黒板に歪んだ字で書いてある公式だけでもルーズリーフに写し始める。公式を追う視界の端で、まださっきの姿勢のまま僕を見つめている彼の手から、黒のシャープペンシルが滑り落ちるのが見えた。 シャープペンシルが床にぶつかって、かしゃん、と小さな音がした。 僕は公式を追う。ノートを写し終えた人や、ノートすら持ってきていないクラスメイトたちが雑談を始める。寿命の切れかけた電灯がちかちかと、数学の教師を照らしている。 教室の窓から覗く空は青い。 大きく立ちのぼる入道雲の合間を縫って、真っ赤な金魚が一匹、すいすいと空を泳いでいた。 (090402) |