第二章    風のドライブ       

  1
 その頃、河合圭四郎はトランク一つ愛車に積んで、麗らかな初夏の風を受けながら、風の向くまま、当てのない旅へと出発していた。行く手には灰色の道。いつ果てるともなく延々と続いていた。国道を、軽井沢の方へ向けて走らせていた。平日の為か道は空いていて、車はスムーズに流れた。田園や桑畑が、看板や道路標識が、更に布団や洗濯物がベランダや庭先に干された、アパートや家並などエトセトラが、彼の視界に飛び込んできては、一瞬のうちに流れ去って行く。

 車は橋を渡り峠を越え雑木林を過ぎ、信州の高原目ざして走った。

 やがて道はくねくねとカーブを描き、白いガードレールの向こうに、時折チラチラと深い谷間が覗いたりした。遂に前方に、浅間山が雄大な姿を見せた。その裾野は、日本有数の別荘地として発展した軽井沢。やがて白樺や落葉松林の中にちらちらと、しゃれたペンションや別荘が、見え隠れしながら顔を覗かせ始めた。かつては上流階級の避暑地として限られていたが、今や大衆的なリゾート地となり、一般庶民もこの避暑地でサイクリングや、テニスなどでして爽やかな汗を流し、束の間のサマーバケイションをエンジョイするのだったが、本格的なバケ-ションシーズンまでには、まだ間があったせいか、軽井沢は閑静な佇まいを保っていた。

 二時間余り走り通しだった圭四郎は、一息つくために、本道から外れた木立ちに佇む、ロッジ風の休憩所の駐車場に車を止めた。

 圭四郎は窓辺に腰を下ろした。そして、外の雄大だ景色を眺めながら、マウンテンコーヒーを飲んだ。窓からは雄大な山々の風景が、一望に見渡せた。コーヒーを飲み終えて、圭四郎は勘定台の方へ向かった。彼の前で支払いをしていた白のサマーセーターを着た、すらりとした青年の後ろ姿を見た時、圭四郎はそこはかとない懐かしさを覚えた。そしてその男が勘定を支払って、圭四郎の方を振り返ったときだった。
「やあ、やっぱり達也じゃないか」と圭四郎は叫んだ。

 男は一瞬怪訝そうな表情で、圭四郎を見つめ返したが、次の瞬間には日焼けした端正な顔を、ほころばせた。
「圭四郎。圭四郎じゃないか」
この予期せぬ出会いに本当に驚いた様子だった。
「何年ぶりかなあ?」
「大学を卒業して以来だよ」
「何処か外国を旅してた筈じゃなかったのか、おい?」
「…舞い戻ったんだ」
「いつ?」
「つい最近」
「ほう、それにしても、こんな所で会うとはねえ」
「全くだね」

   2
 佐久間達也は、同じ街で育ち、高校、大学とその進路を伴にした男だった。大学でも同じ郷里出身ということで、学生時代、殆ど行動を供にした仲だった。卒業してからはしばらく疎遠になっていたが、こんな所でまさか、ばったり出会おうとは! 
 佐久間達也もまた境野陽平と同じように、圭四郎が生まれ育った地元の有力な資産家の御曹子で、今や若き青年実業家として活躍していた。穏やかで繊細、そして夢みるロマンチストの面影をただよわせていた。父は地方の中堅のスーパー経営から出発したのだが、ここ数十年の間にその規模を大幅に拡大させ、この地を本拠地にチェーン店を関東近辺に広げていた。まだ全国区には今一歩及ばなかったが、その販売業績は県内では常にトップクラスだった。
「お昼まだだろう? 一緒にお昼でもどうだい?」と達也が言った。「国道沿いに、名物のそばやがあるんだ。圭四郎、そば、好きだったよね?」

「ああ」
 二人は場所を変えて一緒に昼食を取ることにした。暮れ坂峠のりんどう亭に落ち着くと、名物の、歯応えのある、季節の山の幸をふんだんに盛り込んだ、山菜天ぷらそばを注文した。そらから川の幸、新鮮なあゆの塩焼きを一品注文した。
「早いもんだよねぇ。卒業してからもう何年だい? みんなどうしてるかなあ」
達也があの頃と変わらない笑顔を浮かべながら言った。
「就職活動に忙しかった奴もいれば、呑気な奴もいたけど」と圭四郎。学生時代の気儘な生活がよみがえってきた。「幸運だったよね、あの頃は。売手市場だった…」
 好景気に湧いていた夢のようなあの頃。それでも憧れていた職業にこだわって、敢えて就職浪人を選んだ連中もいた。人生にロマンを追い求めた連中。時は流れ、時代の風はアッという間に変わってしまったけれど…。連中は今頃何をしているのだろう?

 外国に行った者もいれば、地方に帰った者もいる。旧友の近況が話題にのぼった。情報を把握できる者いれば、全く音信不信の者もいた。

「で、圭四郎、おまえ、今、何をしてるんだい?」
「私立探偵を開業した」
「えっ?」
「その日暮らしのしがない探偵稼業」と言って圭四郎は刺を差し出した。達也は名刺を受取ると、その名刺に視線を向けた。「あなたのお悩み、すみやかに解決致します! 秘密厳守…」とぼそぼそと読んだ。圭四郎に視線を戻すと、小さく笑って言った。
「夢のある職業だね」
「小説の中なんかじゃあね」と圭四郎も微笑んだ。「浮き草稼業さ。主に私的なごたごた問題を取り扱っている」
「開業の挨拶ぐらい、よこしてくれよ。水臭いなあ」
「いずれ挨拶に伺おうと思いつつ、ついつい伸び伸びになっちまって…」と圭四郎は頭を掻いた。「…いずれ落ち着いたら、久しぶりに一緒に飲みながら、近況でも語り合いたいと、頭の片隅では思ってたんだが…」
「お互い忙しい身だからね」としょうがないかーと言うように達也は言った。「で、今日は? 仕事?」

 いやあ、というように圭四郎はまた頭を掻いた。
「今日は自主休暇というやつ…。ちょっとぶらりと旅に出たくなってね」
 おいおい、と達也は笑った。

「で、おまえは?」
「俺も…ちょっと息抜き…今の時代は、昔みたいに、ただがむしゃらに働くだけじゃ駄目なんだよね。発想を豊かにして、役立つアイデアを産み出さないと。資源のない我が国は…。そのためには休養も必要」と達也はニコッと笑った。その茶目っ気を含んだ笑顔は、未だに何処か少年のあどけなさを残していた。端正な顔立ちといい、彼は母性本能をくすぐるタイプの男だった。

 やがてテーブルに注文した料理がやってきたので、二人は名物の手打ちそばを舌鼓し始めた。さらさらと口に運ぶと、こしのある、さっぱりとしたそばの味が口の中に広がった。
「うまいね。唄い文句通りだ」と圭四郎は言った。だろう? そばを箸で挟みながら、達也は圭四郎の顔を覗き込んだ。

「で、仕事の方はどんな具合?」
「まあまあかな。問題を抱えて、相談を必要とする連中は結構いる」
「成程」と達也は頷き、圭四郎の顔をちらっと伺って続けた。「おまえは学生時代から色々な所を旅して、見聞が広いからな。片寄らない適切な助言というものが、与えられると思うよ」
「片寄らない助言なんて誰にだってできっこないよ。客観的に見ようとは心がけてるけど…みんな多かれ少なかれ、自分の立場から物を見て、判断してる。自分の色眼鏡という奴で人生を眺めてる。何かを批判するってことは、結局、自分を鏡のように映し出すことだろう?」
「成程」と達也も噛み締めるように頷いた。二人とも仏文学科専攻だった。仏文学は恋と哲学をモットーとしていた。
「いずれにしても、圭四郎、俺はお前の自由気ままが羨ましい。インドとか、ヒマラヤとかスリランカだとかの秘境を放浪してたんだよね?」
「現代文明の生活から離れた生活を送っていた」
「おまえらしいなー」と達也は笑った。「ところで、おまえが神秘の秘境の地を旅して、男のロマンを追っかけてた頃、俺はと言えば、地方にひっこんで、すったもんだしてたわけだけ。俺が結婚したことは承知してるよね?」
「結婚!」と圭四郎は口に持って行きかけたそばの箸を止めて、達也を見返した。
「その驚きようからすると、承知してないみたいだな。俺の連絡はおまえには届いてなかったらしい」

 圭四郎は友人を狐につままれたような顔をして見つめていたが、やがて言った。
「外国を放浪して帰ってくると、浦島太郎みたいだよ。それじゃあこの場を借りて」と圭四郎は軽く咳払いをし、箸を置き、ちょっと改まるように背筋を伸ばした。「遅ればせながら。達也君、結婚おめでとう。末長く、そのぉ、幸せに」
「いいよ、今さら」と達也は恥ずかしそうに笑った。見た所、達也は学生時代のあの頃と大して変わっていないように見えた。相変わらず物分かりが良さそうで、チラッと浮かべる少年ぽい微笑も昔のままだったけれど…時は確実に流れていた。

「で、聞くだけ野暮かも知れないけど…」おまえの方は? と言った具合に、達也は圭四郎の顔を覗き込んだ。
「じゃあ聞くな」と圭四郎。それからふと思い出したというように付け足した。「高校時代同級だった境野建設の御曹子も、近く、結婚するよ。そのうちおまえの所にも招待状が届くと思うけど…」
 みんな、落ち着く時期なのか、と圭四郎はちょっと噛み締めるように、窓から空を仰いだ。ふっとそのとき、ところで達也の結婚相手は一体誰なんだ? という疑問が湧き起こった。するとキラキラ黄金色にきらめくさざ波の彼方から、或る美しい女性のポートレートがあざやかに蘇ってきた。

         3
 彼らの学生時代のマドンナ。時々授業で顔を合わせ、時々ちょっとした話もしたりした。試験が近づくと、彼女といつも一緒にいた友人からノートを借りて、よくコピーさせて貰った。友人は活発で男のようにさっぱりした性格だったので、気軽に話し掛けやすかった。多くの連中はまずはこの友達に話しかけ、マドンナに近づこうとしたのだった。
 もちろんマドンナも青春をエンジョイしていた。けれど彼女の方から積極的に男性に働き掛 けていくタイプではなかった。圭四郎の知る限りでは、彼らのマドンナは誰に対しても分け隔てなく接したが、一方、誰に対しても、彼女が気を許して、個人的に深い付き合いにまで進むようなこともなかったように思われた。

 ところがそんなマドンナと、一時、佐久間達也の仲が、噂になたことがあった。圭四郎は同郷のよしみで、達也と過ごす時間は他の連中より長かったと思うが、圭四郎が知る限りでは、達也がマドンナと付き合っているようには見えなかった。友人の青山絵美の方とは、圭四郎もそうだったが、お茶など飲みながら、授業の情報交換などひんぱんにしたりして、結構、打ち解けた感じで付き合っていたけれど。達也もおそらく、マドンナに憧れてはいたと思うけれど...積極的にアタックしているようには見えなかった。達也は品行方正なお坊ちゃまタイプで、自分の思いをあからさまに、自ら進んで女性に打ち明けるような男ではなかった...。

 では何故二人の仲が噂になどなったのだろう? 授業やグループ以外で、達也とマドンナの接点として考えられるのは、日曜の早朝の武道稽古ぐたいなものだった...。
 マドンナは生粋の東京っ子だったが、高二の時、不幸にして飛行機事故で、両親を失ってしまうという悪夢に見舞われた。一人っ子だったマドンナは、その時点で、大海原に投げ出された頼りない木の葉のように、社会に孤独の身で投げ出され、天涯孤独の身となってしまった。

 その後、府中の母方の伯母の家に世話になったということだが、大学に入ってから、幾つかアルバイトをして、学資の足しにしていた。アルバイトの一つに、休日の剣術稽古があった。或る剣術家の助手として、稽古にやってくる連中の相手を行なった。
 中学、高校、大学とずっと続けていて、腕は確かだった。大抵の者は太刀打ちできなかった。そしていつの頃か、どういう経緯かはわからなかったが、マドンナが剣術の師範を施しているという噂が流れ、そこいら辺の物好きな学生が我先にと、休日の早起きもなんのその、早朝稽古に通い始めたのだった。

 その物好きなそこいら辺の学生の中に、達也と圭四郎もいた。達也の場合、高校時代剣道部所属だったので、全くの好奇心ばかりだけではなかったかも知れないが。やがて下心だけで剣術を始めた連中は、一人二人と脱落して行った。お遊びならよかったが、本気で立ち向かって行った場合、とても彼女に太刀打ちできないことを、身を持って悟らされたし、それにお面を被ったマドンナと、ただ剣術の真似ごとをしてみたところで楽しい筈もなかった。

 マドンナは稽古に関しては手心を加えなかった。男であろうとなかろうと、情け容赦しなかった。彼女は可憐さと妖艶さ、儚さと強さ、そんな相反する性質を、微妙に見事に調和させていた女性だった。しとやかな身のこなしと、愛らしい微笑を持っていたが、一方、凛としたしたすがすがしい印象を与えた。その本性は生一本の男勝りだったかもしれない。心底は、情熱的な女性だったかもしれない。しかしそれをあからさまに見せるようなことはしなかった。激情は慎ましさのベールに用心深く覆い隠されていた…。露骨に情熱や感情をさらけだすようなことはなく、どんな相手にも一定の距離を置き、馴れ馴れしい態度や、女の媚びを売るようなこともなかった。そんな具合だったから、一時の嵐のような竜巻が過ぎ去ると、早朝稽古の賑わいは下火となって行った。圭四郎も同様だった。それでも彼が早朝の爽やかな汗を流すことを完全に止めなかったのは、達也に負うところが大きかった。時が過ぎても、達也は早朝稽古に通うことを決して止めなかった。世間の熱が下火になっても、達也は相変わらず早朝稽古に熱心だった。稽古日には雨が降ろうが風が吹こうが槍が飛ぼうが、決まって早起きをし、圭四郎を誘いに来た。

 それにしてもそのために眠いのを我慢して、歯を食いしばってむきになってやっている、という悲壮感は全然見られなかった。そうする事が当たり前のように、淡々とそうしていた。達也という男はそういう男だった。朝寝の誘惑と戦い、ねばならぬ、などという悲壮感を漂わせたことなど一度もなかった。それはむしろ圭四郎の方だった。三回に一度ぐらいの割合で、圭四郎はそいう義務感から達也に付き合った。実際朝寝の誘惑に打ち勝ち、爽やかな空気の中で、竹刀を振り回し、ええい、やあ、おめん、と威勢のいいかけ声を響かせるのは壮快な気分だった。緊張感がピーンと張り詰め、体の中に何か清々しいエネルギーが入り込んでくるようだった。

 朝稽古を終えると、マドンナは武道館の片隅で、面を取る。朝の光りを浴びて、彼女が面をはずすと、長い黒髪がさらさらと、肩から背中へと流れ落ちるのだった。それを見た者は、思わず息を呑み込む程だったが、知ってか知らずか、彼女はそうした女性としての悩殺の仕草を、無頓着に行なった。

 そして上気した頬や首筋の汗を拭い、面を腕に抱え、更衣室の方へ消えて行く。暫くすると着替えを済ませたマドンナが、朝稽古ですっかり疲れ果て、放心したようにぼんやりとした表情で彼女を待っていた、圭四郎と達也の元に再び姿を現すのだった。薔薇色の口元をほころばせ、天使のような微笑をさわやかに浮かべてくれるのだった。ちょっと取り澄ましてよそよそしかったかと思えば、次には息を呑まされるような愛らしい微笑を浮かべてくれたりもする、そんな人だった。
 しかしそれだけだった。彼女は人前ではそれ以上の馴れ馴れしい態度は、誰にも見せなかった。

 学園内で顔を合わせれば、挨拶ぐらいは交わした。時には数人のグループの中の一人として、学生食堂でお茶を飲んだり、昼食を共にしたりにもした。だが、それだけだった、と思う。
 ならば何故二人の仲が、突然、噂に登ったりしたのだろう。二人がさりげなく醸し出していた怪しげな香り? 二人が黄昏の桜並木を、仲良く腕を組んで歩いていたのを目撃した、などとまことしやかに囁かれたりした。多分、その意味ありげな仄めかしだけで、決定的な証拠が見られず、捕らえ所がなく、漠然としていた為、余計に周囲の者たちの好奇心をそそったのかもしれない。とにかく二人は怪しいという風説が、一時囁かれたことだけは事実だった。

 憧れのマドンナについての不謹慎な噂に憤慨して、数名のそこいらへんの男どもが、真実を見極めようと躍起になって、達也のあとをつけ回したりもした。それでも結局二人の仲は、公然としたものにはならなかった。ベールの霞に包まれたままだった。そしてあやむやの闇の藻屑となって、いつの間にかその噂も消えてていった…。

 それに達也にはその当時から、既に親同士が決めた許婚がいた。幾つか年下の地方の旧家のお嬢様だった。当時、お嬢様が通う何とか女子学院なる所へ通っていた。お互いの利益、地位を維持し守るために親族関係を結ぶという、政略結婚。今の時代に? と笑ってはいけない。今の世にあっても、いくらでもそんな結婚は転がっている。もちろん、拒否する自由は持っているだろうけれど…。

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