新選組ゆかりの地

京都にある新選組ゆかりの地をご紹介します。京都観光の合間に新選組ゆかりの地巡りでもして下さい!

壬生寺(中京区)
  
暦二年(991)快賢僧都によって創建された壬生寺は、国の無形文化財に指定されている「壬生狂言」が、春と秋に二度行われることで有名だが、新選組との関わりで言うと隣接する八木邸、前川邸に屯所を構えた新選組の兵法訓練所として使用されたのが発端である。その後、芹沢鴨を初めとする新選組隊士たちを祀る「壬生塚」が築かれ新選組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔も建立された。今でも多くの新選組ファンが供養に訪れ、絵馬や銅像の下にはノートが何冊かあって自由に書き溜めている。壬生塚には下記の墓が祀ってある。(供養代として100円が必要です)

八木邸(中京区)
  
将軍家茂の上洛警護のため清河八郎の率いる浪士組が入洛した時に宿舎の一つとして使われたのが壬生郷の屋敷であった。壬生きっての郷士、八木一族が住まいとしていた旧家だったが浪士隊から離脱した芹沢鴨・近藤勇一党が、ここに居を構えたことから新選組の屯所となる。浪士組は在京二十日余りで再び江戸に戻ったが、当所に分宿していた芹沢鴨、新見錦、近藤勇、土方歳三らは引き続き京都の警備のため残留し、京都守護松平容保の支配に属して「新選組」と名のった。当初、新選組は当屋敷に「新選組宿所」の標札を掲げ隊員はわずか十数名で発足したが次第に隊員が増加し付近の農家にも分宿した。文久三年(1863)には邸内にて芹沢鴨暗殺事件が起こり、それ以後は市内の治安維持に努め元治元年(1864)の池田屋事件で一躍その名を轟かせた。隊士の増加と共に屯所は慶応元年(1865)4月に西本願寺へ移転となった。現在では、京都市の有形文化財に指定。近藤勇の胸像が飾られた座敷で芹沢鴨暗殺の話を聞くこともでき鴨居に残る刀傷が今でもその激しさを物語っている。月・火曜を除いて、毎日午前10時〜午後4時まで一般公開されております。(料金:大人1000円/子供700円。京都鶴屋の抹茶つき。写真撮影不可)

旧前川邸(中京区)
 
壬生に屯所を構えた新選組の近藤勇や土方歳三の宿舎となる。隊士の増加と共に、この前川邸や南部家等、次第に宿舎も増えていった。当時の門構えがそのまま保存されていますが現在は民間の所有となっている為、見学はできない。(内部の絵はがきが売り出されています)

光縁寺(中京区)
 
新選組が壬生に屯所を構えた際に馬小屋が近くにあったのと副長の山南敬介の家紋が光縁寺の紋とよく似ていたので縁が生まれ、新選組において切腹した隊士たちの菩提を弔うようになる。その後、山南自身をはじめとして、局中法度に触れて切腹に至り、埋葬された隊士(後に改葬された者、沖田総司の縁者一人も含む)全てを数えると二十八名になると言われている。今でも隊士の墓に詣でる人は絶えない。(年中無休、開門時間:午前9時〜午後5時。隊士への募参拝料100円) 沖田総司の戒名は「賢光院仁誉明道居士」

新徳寺(中京区)

新徳寺に構えた「浪士隊」が新選組の始まりとされています。清河八郎が浪士隊を朝廷の警護番となることを表明するが、賛同できなかった近藤勇、芹沢鴨をはじめとする一派が離脱する。

八木(南)家住宅(中京区)

八木家は壬生郷土と由緒をもち寛延3年(1750)にはすでに現在地に居を構えていた。屋敷には、この頃居宅と土蔵2棟が建っていたがこれらは天明8年(1788)に類焼し、さらに文政3年(1820)には屋敷全体を建て替える普請願書が出された。その内容は、敷地の正面中央に長屋門を開いてその北に土蔵を並べ。奥寄りには式台を備えた玄関を付属する主屋を建て、さらに後方に土蔵・男部屋・小屋を配するというものであった。当住宅は一部解体・改築されているものの長屋門の存在、式台を構えた玄関・書院風の座敷など壬生における郷土住宅の特色を備えたものとして貴重である。

旧神先家住宅(中京区)

この住宅の当初の所有者である神先家は、足利家に仕えていたが、その後壬生へ移り住み、代々郷土を相続したという。現在の主屋は文政3年(1820)のものと考えられる。この住宅は現在、長屋門を欠くものの式台を構えた玄関や主室・次の間からなる書院造の座敷構成に郷土住宅ろしての特徴が見られ、武家住宅風の上層民家として貴重である。

古高俊太郎邸跡(中京区)

古高俊太郎は表向きは商人を装い、裏では長州を手助けしていた人です。新選組に捕らえられ、前川邸に連行されて土方歳三の拷問を受けた後に、京都の焼き討ち計画が分かり、池田屋騒動が起こったと言われてます。

池田屋騒動之址(中京区)

元治元年(1864)旧暦6月5日、三条小橋池田屋にて倒幕派浪士が集い、6月20日前後の風の強い日を選び京の町に火をつけ、その混乱の中で天皇を奪い一挙に倒幕戦を起こすとの情報を得た京都守護職(会津藩主松平容保)御預かり新選組は京の治安を守るために出動した。これが世に言う池田屋事変であり、時あたかも祇園祭宵々山の夜であった。現在は石碑のみが建っています・・・この近くには幕末の屋敷が多かったそうです。

六角獄舎跡(中京区)

尊王攘夷派の指導者、平野国臣が処刑された所である。この地はもと「六角獄舎」があったところで安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所とも言われた。国臣は、福岡藩士で尊王攘夷運動に参加して脱藩し、生野の乱に挙兵して捕らえられ元治元年(1864)1月17日ここに収容された。ところが、7月19日に長州藩兵の入京に端を発した禁門の変(蛤御門の変)によって京都市内の大半が兵火に見舞われ、その翌日火勢が「六角獄舎」に迫るや獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った、この時斬られた一人が国臣である。この難にあったものは国臣のほか、古高俊太郎、長尾郁三郎、水郡善之祐ら三十数名にのぼった。

角屋(下京区)

この角屋は新選組隊士がよく訪れていたと言われる揚屋で、現在の料理屋・料亭にあたります。、島原は遊郭の一角であり島原太夫や芸妓さんなど多くいて賑わったとされます。新選組隊士もここで会食などしており、玄関口には刀痕も残っています。平成10年度からは「角屋もてなしの文化美術館」を開設、角屋の建物自体と併せて所蔵美術品などを展示・公開しています。(休日は、月曜日。料金:大人1000円/高・中800円/小500円)

不動堂村屯所跡(下京区)

幕末に活躍した新選組の最後の屯所「不動堂村屯所跡」の石碑が、リーガロイヤルホテル京都前に建立されました。新選組の屯所は壬生から西本願寺、さらに不動堂村へと移転したが不動堂村の位置は諸説あって明確でなかった。近年、霊山歴史館の調査で坂本龍馬に仕えていたという人物が堀川通塩小路に屯所があったと語っていたことが分かり、ホテルの敷地内に石碑を建てることになった。石碑は「誠」の文字と、近藤勇の和歌が刻まれている。不動堂村屯所が置かれたのは1867(慶応三)年6月15日から約半年間といわれてます。

西本願寺(下京区)

慶応元年に新選組屯所は、壬生の八木邸から西本願寺の集会所に移つりました。画像は太鼓楼(北東側)です。この太鼓楼も昔は隊士たちが宿泊していたと言われてます。

輪違屋(下京区)

輪違屋は太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で元禄年間(1688〜1704)の創業と伝える。現在の建物は明治四年(1871)のものとされています。一階南半分の居室部分と、一階北半分及び二階を占める客室部分からなっています。客室は全部で十数室あり、なかでも二階の傘の間と紅葉の間が主要な座敷で、目を見張るものがある。輪違屋は、建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重であり、京都市指定有形文化財に指定された。現在島原唯一の置屋・お茶屋として4人の太夫「花扇、司、春日、花琴」を抱える。当時の遊女の中で「糸里、明里、花香」の3名が新選組隊士と関わりがあったと言われています。

島原大門(下京区)

島原大門は角屋、輪違屋と並び、当時の花街の姿を今に伝える史跡の一つである。遊郭への出入りは、遊女の逃亡を防ぐために、島原大門だけが出入り口とされていました。当時、島原で火災が起こり、島原大門が閉じられたままになってた為に逃げる事が出来なかった遊女の多くが、焼死をしたのでした。それ以来、この大門の横には手桶が常に設置されるようになったのである。新選組隊士も遊郭に通ってた為、この大門を幾度も通ったであろう・・・

本光寺(下京区)

慶応3年11月18日、新選組と別れ「高台寺党(御陵衛士)」を組織した伊東甲子太郎を暗殺した新選組は、七条油小路にその遺体を放置し、引取りに来た高台寺党と凄惨な激闘を展開。この時、藤堂兵助、服部武雄、毛内有之助の3人が絶命した。伊東ら4名の遺骸は、光縁寺に葬られたが、慶応4年3月に、篠原泰之進らにより泉涌寺塔頭戒光寺に改装された。近くの本光寺には伊東らの殉難の碑がある。

京都守護職屋敷跡(上京区)

京都守護松平容保の京都守護職屋敷は、慶応元年(1865)黒谷の金戒光明寺から、この場所に移動された。石碑は、現在府庁の門に入って右側(東側)にあります。

蛤御門(上京区)

元治元年(1864)長州藩は兵を率いて京都に向かい、御所の蛤御門付近で戦いになりました。蛤御門を守る会津、桑名、薩摩藩兵と長州藩が衝突、両軍が大砲で応戦したため、その砲声に公卿達は慌てふためいたとの記録があります。この戦で、最も戦闘の激しかった場所が蛤御門であった為に、蛤御門の変(禁門の変)と呼ばれます。

金戒光明寺(左京区)

文久2(1862)年、政情不安な京の治安維持のため、会津藩士・松平容保公が京都守護職に就任、本陣を金戒光明寺に置いたことに始まる。翌年、入洛した浪士組は、早々にも清河八郎ら大半が江戸に引き返すこととなったが、近藤勇・芹沢鴨らは守護職に京都残留を嘆願「京都守護職預かり」の身となる。その後、洛中警備に活躍。ここに新選組が誕生した。なお、松平容保公に謁見したさい、境内で武術の腕前を披露するため上覧試合を行った。

月真院(東山区)